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畑アカラの「高松塚とキトラ古墳の真実」

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第10回「高松塚とキトラ古墳は、永遠の皇国史観を表現・壁画が語る真実」     

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第1回「高松塚古墳説の不思議」
第2回「高松塚概要と北斗八星が描かれていなかった真実」
第3回「高松塚の人物像の立ち位置は、北斗八星(帝車)を表現」
第4回「歴史が変わる-高松塚の[北斗八星帝車・陪塚・出行図]発見」
第5回「これまでの高松塚・キトラ古墳・被葬者説は、全て謀(む)大逆罪?」
第6回「天地に描く、北極星古墳(中尾山)と北斗八星古墳(高松塚)」
第7回「天皇を 永久に守るは 高松に 眠りし臣下 北斗八星」
第8回「キトラ古墳の壁画創作<動機・本義>は、高松塚と同じ」
第9回「キトラ古墳の被葬者・阿倍御主人(みうし)の心意気」
第10回「高松塚とキトラ古墳は、永遠の皇国史観を表現・壁画が語る真実」
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第10回 「高松塚とキトラ古墳は、
          永遠の皇国史観を表現・壁画が語る真実」

1 壁画古墳である、高松塚古墳とキトラ古墳の築造動機・・・その心理模様
2 阿倍御主人(あべのみうし)の美学とその心理
3 石上麻呂(いそのかみのまろ)の美学・・・その心理
4 世界一の陪塚(ばいちょう)と出行図(しゅっこうず)――その壁画歌(へきがうた)の美学

まさか、高松塚古墳壁画とキトラ古墳壁画が、永遠の皇国史観、つまり、永遠の天皇崇敬
護持を表現しているとは、これまで両古墳を探究してきた、考古学者・歴史学者・歴史作家
・天文学者・美術学者、等々のほとんどの方々は、露ほどにも思わなかった、と思います。

ならば、その方々にとって、永遠の皇国史観とする小生の説に対して、これほどの衝撃が
ありましょうや。
ましてや、両古墳の壁画が、皇国史観に通じる天皇崇敬護持を表現していたとなれば、
それだけで、色々な思いをする人達がいることを考えますと、どのように対処したら
良いのか、考えあぐねてしまいます。

1 壁画古墳である、高松塚古墳とキトラ古墳の築造動機・・・その心理模様

これから記すことは、これまでの連載記事と重複(ちょうふく)する場合がありますが、
まとめの意味もあるので、ご了解のほど、お願いいたします。

そもそも、何故、キトラ古墳(703年)と高松塚古墳(717年)が、築造されたのか?
当時の状況と、両古墳の被葬者、石上麻呂(いそのかみのまろ)と阿倍御主人(あべのみうし)
の心理を、記してみることとします。

壁画古墳を最初に築造したのは、阿倍御主人(みうし)として、述べます。

ならば、何故、阿倍御主人(あべのみうし)は、前例のない壁画(キトラ古墳・完全天皇図)
を描こうとしたのでしょうか?
そして、天皇でもないのに、どうして完全天皇図(天文図+日月図+四神図)を描くことが、
出来たのでしょうか?

◎完全天皇図・壁画制作許可と陪陵(ばいりょう)許可の要因

完全天皇図の壁画制作許可と陪陵(ばいりょう)許可は、当時の世相・状況を反映したものです。
大きく分けて、二つの要因が考えられます。
※陪陵(ばいりょう)とは、中国皇帝の墓域内周辺(陵園)に、親族、臣下の墓を築くこと。
この場合、天武天皇の陵園内に、お仕えした天皇を、付き添い守護する目的で作られる墓。

① 天皇(北極星)とは何たるかを知らしめ、天皇中心の律令(りつりょう)制度を確立
  させようとした当時の世相。

② 唐の陵園制・陪陵制の影響。つまり、壁画を描き、陵園内に陪葬(ばいそう)される
  唐の制度の影響。

私は、この二つが合致して、天武天皇陵園内に壁画古墳が作られた、と理解します。
それは、①天皇を「大君は 神にし 坐(ま)せば」と言祝(ことほ)ぐ世相と、②中国陪陵制
の影響を受け、天武天皇陵園内に陪葬されたいと思った臣下の気持ちとが、合致したからだ
と、思います。

阿倍御主人(あべのみうし)は、天皇を「大君は 神(北極星)にし 坐(ま)せば」と壁画で
表現することで、天皇図を描くことも、そして、陵園内に陪葬されることも、許可されたの
です。

豪族・阿倍御主人(みうし)が、地元の本貫地(ほんがんち)を離れ、天武天皇陵園内に陪葬
されたのは、このような事情があったからなのです。

2 阿倍御主人(あべのみうし)の美学とその心理

高麗系の絵師・黄文本実(きぶみのほんじつ)は、702年(大宝二年)12月、持統天皇
崩御(ほうぎょ)の際に、「作殯宮司(もがりのみやつくるつかさ)」に任命されています。
阿倍御主人(あべのみうし)が薨去(こうきょ)する前年です。
高度な呪術壁画を描けるのは、中国留学経験がある黄文本実とみるのが、妥当(だとう)だと
思います。

私は、阿倍御主人(みうし)は古墳壁画について黄文本実(きぶみのほんじつ)に相談した、
と思います。
柿本人麻呂や大伴御行(みゆき)は、歌(大君は神にしませば・・・)で、天皇を神(北極星)
として言祝(ことほ)いでいます。
ならば、阿倍御主人(みうし)は、壁画古墳という方法で、天皇を神(北極星)として言祝
(ことほ)ぎ、死後も永遠に崇敬守護したいと思った、のだと思います。
黄文本実(きぶみのほんじつ)に相談した結果が、キトラ古墳壁画の誕生であった、のです。

天皇を 言祝(ことほ)ぎ守護する方法は、天皇図・「天文図(星宿(せいしゅく)図+日月図)
+四神図のセット図」と、十二支獣頭人身(じゅうにしじゅうとうじんしん)像を描くことに
あったのです。

被葬者阿倍御主人(あべのみうし)は、自らを十二支獣頭人身像に擬(なぞら)え、天皇
(北極星)を、死後も言祝(ことほ)ぎ守護しようとしたのです。

それは、歌[柿本人麻呂・大伴御行(みゆき)]で、天皇を言祝(ことほ)ぐ代わりに、壁画で
天皇を言祝(ことほ)ぐという、阿倍御主人(みうし)独自の「天皇言祝(ことほ)ぎ守護・壁画歌
(へきがうた)」
であったのです。

私は、そこに、大豪族・阿倍氏・氏上(うじのかみ)・阿倍御主人(あべのみうし)の、天皇に
対する永遠の美学を感じとります。

◎ 阿倍御主人(あべのみうし)は何故、陵園(りょうえん)内に陪葬(ばいそう)できたのか?

阿倍御主人(あべのみうし)は、天武天皇陵園内に陪葬(ばいそう)されたいと、天皇(文武)に
許可を求めたと思われます。
何故、許可を求めたかの理由は、次の通りです。

天武天皇の陵園は、中国の陪陵(ばいりょう)制度の影響をうけていて、特別な地位の者(皇子
・みこ)しか葬(ほうむ)ることは出来ない制度になっていました。
よって、よほどの理由がないかぎり、臣下最高位になった官僚でも、陵園内に葬ることは
出来なかったのです。

よって、大豪族で臣下最高位になった者・阿倍御主人(あべのみうし)でも、相当な理由がなけ
れば、陵園内には葬られることはなかったのです。
しかも、大豪族の頭領は、本貫地(ほんがんち)の埋葬が伝統となっていました。

唐の陪陵(ばいりょう)制においては、陵園内に臣下も陪葬されています。
しかも、壁画も描かれています。
阿倍御主人(あべのみうし)は、この唐の情報を得ていたのです。
ならば、阿倍御主人(みうし)は唐の陪陵制に倣(なら)って、天武天皇の陵園内に陪葬されたい、
と願ったのだと思います。
 
私見ながら、阿倍御主人(みうし)が陵園内に陪葬(ばいそう)が許可されたのは、天皇崇敬守護
の壁画を描くことが事前(じぜん)に分かっていたからであった、と思われます。

阿倍御主人(あべのみうし)の、死後も天皇を神として崇敬し、守護していくという壁画の内容
であったならば、当時の天皇崇敬の世相を反映したものとして、陵園内の陪葬を許されたの
です。

死後も天皇崇敬守護していくという呪術・[十二支獣頭(じゅうとう)人身像(じんしんぞう)]
を、はっきりと描くという証拠があったからこそ、天皇図・[「天文図(星宿図+日月図)」
+「四神図」のセット図]を、描けたのです。
阿倍御主人(あべのみうし)の、尊皇心(そんのうしん)の発露に、天皇(文武)も感動した
ことでしょう。

阿倍御主人(あべのみうし)は、当時の世相、つまり、柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)と
大伴御行(おおとものみゆき)が、歌謡にて天皇を神として言祝(ことほ)いだように、キトラ
古墳壁画を描き、天皇を神(北極星)として言祝(ことほ)いだのです。
それも、より、具体的に!!
伊勢神宮においては、天皇は北極星として祀(まつ)られています。
しかし、墓室内において、天皇を神(北極星)として言祝(ことほ)ぐという形は、いままで
ありませんでした。

これを最初に実行したのが、キトラ古墳(703年)被葬者、阿倍御主人(みうし)なのです。

最初の実行者としての評価は、非常に高い。
私は、天皇(北極星)を死後も崇敬守護していく、という、そのアイディア・[十二支獣頭
人身像(じゅうとうじんしんぞう)]に驚嘆します。

そのアイディアの表現方法は、中国にも、朝鮮半島にもない、中国の呪術方法を借りた、日本
独特の呪術なのです。

3 石上麻呂(いそのかみのまろ)の美学・・・その心理

キトラ古墳壁画に、触発された人物がいます。
物部(もののべ)氏の氏上(うじのかみ)である、石上麻呂(いそのかみのまろ)です。
717年薨去(こうきょ)。
石上麻呂は、阿倍御主人(あべのみうし)の壁画古墳の内容に、驚いたことでしょう。
いやいや衝撃を受けたことでしょう。
天皇を死後も言祝(ことほ)ぎ守護していこうとした、その手法に。

703年(大宝3年)、右大臣・阿倍御主人(みうし)が薨去(こうきょ)したとき、正(しょう)
三位石上麻呂(いそのかみのまろ)は、弔(とむら)いと贈り物をする、使者になっています。
よって、阿倍御主人(みうし)の葬(ほうむ)られ方は、詳しく知っていたのです。

石上麻呂(いそのかみのまろ)は、阿倍御主人に負けていられなかった。
結果、石上麻呂は、阿倍御主人(みうし)のアイディアに勝(まさ)る最高の呪術方法をもって、
壁画(高松塚)を描いたのです。

それは、物部(もののべ)氏(し)の氏上(うじのかみ)・石上麻呂(いそのかみのまろ)の、阿倍氏
の氏上(うじのかみ)・阿倍御主人(あべのみうし)に対する意地でもあったのです。
大豪族どうしの、天皇に対する忠誠心の張りあい、ともいえましょう。

面白いことに、大伴御行(おおとものみゆき)・阿倍御主人(みうし)・石上麻呂(いそのかみの
まろ・物部)は、そろって氏上(うじのかみ)です。
大豪族・氏上(うじのかみ)同士の、天皇に対する、心意気の競争であった、といえるのです。

石上麻呂(いそのかみのまろ)は、キトラ古墳以上の壁画を描くにはどうしたらよいのか、
考えました。

生前において、石上麻呂は、黄文本実(きぶみのほんじつ)は勿論のこと、「画工司(えだ
くみのつかさ)」の役人たちとも話し合ったと思われます。
それは、阿倍御主人(みうし)と同様であったのです。

石上麻呂(いそのかみのまろ)は、天皇に対する「言祝(ことほ)ぎ・守護」ですから、遠慮なく、
どんな壁画を描きたいのか、その意志を伝えました。
「画工司(えだくみのつかさ)」に所属する役人達も、それに応(こた)え、キトラ古墳以上の
壁画を描くことに、全力をあげたのです。

その「画工司(えだくみのつかさ)」の役人絵師たちの答えが、高松塚古墳の壁画だったのです。

それは、十二支獣頭人身像(じゅうとうじんしんぞう)を描き、「言祝(ことほ)ぎ・守護」した
キトラ古墳の呪術よりは、はるかに格調高い呪術でした。
まさに、これ以上の呪術は考えられないほどの、格調の高さであったのです。

被葬者石上麻呂(いそのかみのまろ・717年薨去・こうきょ)は、自らを北斗八星(八人
ずつの男女)に擬(なぞら)え、天皇(北極星)を、死後も言祝(ことほ)ぎ守護しようとした
のです。

石上麻呂は、臣下最高位の官僚・左大臣・贈従(じゅ)一位であるから、北斗八星に擬(なぞら)
れる資格はあります。

臣下最高位の官僚・右大臣・従(じゅ)二位の阿倍御主人(あべのみうし)であっても、北斗八星
に擬(なぞら)れる資格としては、無理だと思います。
やはり、阿倍御主人(みうし)は、呪術として一段劣(おと)る、十二支獣頭人身像(じゅうとう
じんしんぞう)が適切だと思います。

高松塚古墳の呪術は、伊勢神宮の呪術です。
もう、これ以上の高級な呪術は存在しないのです。

私は、中国においても、これ以上高級な呪術は存在しない、と断言できます。
それは、皇帝は、あくまでも、天帝(天皇)の子、天子である、という意味においてであり
ますが。

4 世界一の陪塚(ばいちょう)と出行図(しゅっこうず)
                  ――その壁画歌(へきがうた)の美学

さらに、言えることがあります。
高松塚古墳(717年)は、北・約200m先にある中尾山古墳(文武天皇・707年)の
陪塚(ばいちょう)である、ということです。
その陪塚(ばいちょう)も、普通の陪塚ではありません。格調高い高度な呪術(伊勢神宮の呪術)
を施(ほどこ)した、「壁画古墳・陪塚(ばいちょう)」なのです。

石上麻呂(いそのかみのまろ)は、中尾山古墳(文武天皇)を北極星とし、高松塚古墳を北斗
八星としたのです。
つまり、「高松塚古墳=北斗八星陪塚(ばいちょう)」

さらに、石上麻呂(いそのかみのまろ)は、文武(もんむ)天皇(中尾山古墳・北極星)を、
北斗八星(高松塚・石上麻呂・八人ずつの男女)という帝車(ていしゃ)に乗せて、宇宙を
駆(か)け巡(めぐ)る、という出行図(しゅっこうず)を描きました。

つまり、「高松塚古墳壁画=北斗八星帝車陪塚(ばいちょう)・天皇出行図」。

いやいや、それだけではありません。
高松塚の被葬者・石上麻呂(いそのかみのまろ)は、北斗八星の大匙(おおさじ)となり、
神饌(しんせん)を永遠に中尾山古墳の被葬者・文武(もんむ)天皇(北極星)に、届けて
いるのです。


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このような格調高い陪塚(ばいちょう)、そして出行図は、中国でも朝鮮半島でも見当たり
ません。
まさに、高松塚古墳は、世界一のロマン溢れる陪塚(ばいちょう)であり、世界一の出行図を
描いている古墳なのです。

世界一格調高い「陰陽・北斗八星帝車陪塚(ばいちょう)高松塚・天皇乗車出行図」は、日本
独自のものです。

天皇陵を「北極星古墳」とし、自分の墓を、「北斗八星陪塚(ばいちょう)」にするなんて、
あまりにも粋(いき)すぎます。
石上麻呂(いそのかみのまろ)さん、何と、お洒落(しゃれ)な!! と声をかけたくなります。
「ヨッ、世界一!!」ですね。

臣下最高位の石上麻呂(いそのかみのまろ)が、自らの古墳に、世界一格調高い、陪塚(ばい
ちょう)出行図(しゅっこうず)・「北極星(太極)北斗八星(八卦)」を描くことを、
前もって天皇[当時は元正(げんしょう)天皇]に届け出たからこそ、陪塚(ばいちょう)と
して築造することを許されたのです。

元正(げんしょう)天皇は、石上麻呂(いそのかみのまろ)の世界一のプランを見て、その尊皇心
(そんのうしん)・忠誠心の壮大さに、感激したに違いありません。
よって、天皇(元正)は、中尾山古墳(文武天皇・707年)の兆域(ちょういき・墓域)に
接して築造することを、許したのです。

そして、だからこそ、石上麻呂(いそのかみのまろ)は、平城京遷都(せんと・710年)後
7年も経(た)っていたのに(717年)、帰葬(きそう)が許されたのです。
※藤原京の留守司(るすのつかさ)として残ったことも要因ですが。

私は、これで、やっと高松塚古墳、そしてキトラ古墳の全ての問題が解明できた、と確信
しています。

今は亡き秋山日出雄先生と、この件について話し合ってみたかった、とつくづく思います。


今回をもって、『高松塚とキトラ古墳の真実』の連載を、終了とさせていただきます。
長文にお付き合いくださり、ありがとうございました。


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<PDFファイルはこちらから>



畑アカラ先生『高松塚古墳とキトラ古墳の壁画が語る真実』

2021年8月18日(水)
  
受付17:30~ 
講演18:00~20:00 

参加費 5,000円 (定員15名様)

会 場 船井本社 大会議室 
東京都港区芝4-5-10EDGE芝四丁目ビル8階 
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本社ビル地図-2.jpg
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https://www.ningenclub.jp/blog01/archives/2021/06/818.html

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畑アカラ氏 プロフィール

昭和22年生まれ。静岡県出身。藤枝東高校卒。
明治大学政経学部卒業(蒲生ゼミ・村落社会調査)。
広告制作会社(株・漫画社)に勤務後、フリー。イラスト・ライター。
日本児童出版美術家連盟会員。
「8の世界」と「ハートの世界」の、オンリーワンの探究者。
「一般社団法人8月8日はハートの日協会」理事長。
「8月8日はハートの日」を全世界に広めるため活動中。
世界を一つに繋げることの出来るツール・・
それが「8月8日はハートの日」。
著作・歴史書:『古代天皇家「八」の暗号』(徳間書店)。
『古代天皇家の謎は「北斗八星」で解ける』(徳間書店)
著作・エッセイ(画・文):『猫ノーテンキ』(草思社)、
『猫っ可愛がりのことわざ草紙』(毎日新聞)、
『きょうも猫日和』(徳間書店)。 
月間絵本・作絵:『ハーリーちゃんとハーティちゃん』
『にじをつくろう』(チャイルド本社)。
かみしばい:『からすのかーすけ』(教育画劇)。等々。
趣味はテニス。素人作曲(楽器は演奏できません)。サッカー観戦。

【最新著書ご紹介】

【大嘗祭・天皇号・伊勢神宮】 この国永遠の疑問を解く

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第9回「キトラ古墳の被葬者・阿倍御主人(みうし)の心意気」      

第9回 「キトラ古墳の被葬者・
             阿倍御主人(みうし)の心意気」

1 キトラ古墳・被葬者は皇子(みこ)ではない、その理由
2 阿倍御主人(みうし)の心意気――その動機と言祝(ことほ)ぎ
3 最後のお勤め――臣下最高位・阿倍御主人(みうし)の心意気と美学

キトラ古墳の被葬者は、阿倍御主人(あべのみうし)であろうと、あえて言い切ります。
私のキトラ古墳被葬者の検証方法は、高松塚古墳の本義が既に分かっていましたから、
その本義(被葬者は、お仕えした天皇を北極星として、永遠に守護すること)をキトラ
古墳にも当てはめることです。
すると、キトラ古墳の全ての謎が、即座に解明されます。

1 キトラ古墳・被葬者は皇子(みこ)ではない、その理由

2017年5月12日、NHKテレビ放送の歴史秘話ヒストリア『飛鳥美人 謎の暗号を解け~
高松塚壁画のヒミツ~』が、放映されました。

そこでは、結論として、猪熊兼勝先生は、高松塚古墳の被葬者は忍壁皇子(おさかべの
みこ)、キトラ古墳の被葬者は高市皇子(たけちのみこ)とされていました。
この説に直木孝次郎先生や王仲珠(中国社会科学院考古研究所研究員)先生も賛成されて
います。

猪熊先生、直木先生、王先生の説は、高松塚古墳もキトラ古墳も、皇子説です。

私は、皇子説は、成り立たないと、思います。
その理由を、これから述べることとします。

(1)天皇を永遠に守護していくという立場の人は、臣下最高位の人がふさわしい

キトラ古墳の場合も、被葬者自らが十二支獣頭人身像(じゅうにしじゅうとうじんしん
ぞう)となり、死後も、天井の天文図に描かれている、天皇(北極星)を永遠に崇敬守護
していこうとする人物ですから、高松塚古墳同様、臣下最高位の官僚が、最もふさわしい
と思われます。

高松塚古墳は、中尾山古墳(文武天皇陵推定)の陪塚(ばいちょう)です。
被葬者は、臣下最高位の官僚・石上麻呂(いそのかみのまろ)。

よって、キトラ古墳の場合も同様に、死後も天皇を崇敬守護していこうとした高級官僚の
墓である、と考えるのがスジであろう、と思われます。

キトラ古墳も陪塚的な性格を持っています。
阿倍御主人(あべのみうし)が、本貫地(ほんがんち・奈良県桜井市阿部?)への埋葬を
拒否したことも、そのためなのです。

(2) 何故、キトラ古墳は、天武天皇の陵園と思われるこの区域に、葬られたのか?
・・・それは、唐の陵園制度に倣(なら)ったからです

高松塚古墳も、キトラ古墳も、唐の陵園制度に倣(なら)ったもの思われます。
それまでは、豪族の長・氏上(うじのかみ)は、本貫地に葬られるのが、普通でした。

しかし、唐の陵園制度によると、臣下も、お仕えした皇帝の墓の周辺に埋葬されたのです。
勿論、その中には、壁画古墳もあったのです。

高松塚古墳も、キトラ古墳も、唐の陵園制度の影響を受け、天武天皇の陵園と思われる
この地域に、古墳に壁画を描いているという制度も真似て、そして、永遠に、天皇崇敬
守護していくという、陪塚的な気持ちがあったればこそ、この地域に葬られたのです。

※白石太一郎先生は、考古学的な見地から、高松塚古墳とキトラ古墳の被葬者を推定して
います。
高松塚古墳の被葬者は、石上麻呂(いそのかみのまろ)、キトラ古墳の被葬者は、阿倍御
主人(あべのみうし)と推定しています。
白石先生は、類い希なる分析力・想像力の持ち主であり、考古学の資料のみで、ここまで
本質を突いた慧眼の素晴らしさは、ただ、ただ、感服するほかありません。

私の場合は、高松塚古墳が解明されていたからこそ、キトラ古墳の被葬者を、特定できた
のです。
解明された高松塚古墳の本義を、キトラ古墳に当てはめれば、済むことなのです。

高松塚古墳の本義をキトラ古墳に当てはめるならば、被葬者は、次のように、推定できます。

① キトラ古墳の被葬者は、天皇を北極星として言祝ぐ気持ちを持った、当時の臣下
  最高位の豪族

② キトラ古墳の被葬者は、十二支獣頭人身像になり、天皇(北極星)を永遠に言祝
  (ことほ)ぎ守護するにふさわしい、臣下・豪族

キトラ古墳の被葬者条件を考えるならば、これ以外の条件は、あり得ないわけです。

では、当時の臣下をピックアップしてみましょう。

(3)キトラ古墳の被葬者は、高級官僚・・・その候補者名

高松塚古墳同様、キトラ古墳被葬者は、皇子でも、百済王でも、高句麗系の渡来人でもない、
と思われます。
臣下である高級官僚がふさわしいのです。

当時の大臣クラスの中から、被葬者を捜せばよいことになります。
当時の大臣クラスとなると、次の通りです。

 701年、大納言(だいなごん)・大伴御行[おおとものみゆき・贈・正広弐右大臣、
 薨去(こうきょ)]
 701年、左大臣・多治比島[(たじひのしま)・正二位、薨去]
 703年、右大臣・阿倍御主人[(あべのみうし)・従(じゅ)二位、薨去]
 705年、大納言・紀麻呂[(きのまろ)・正三位、薨去]
 717年、左大臣・石上麻呂[(いそのかみのまろ)・贈従(じゅ)一位、薨去]
 720年、右大臣・藤原不比等[(ふじわらのふひと)・贈太政大臣正一位、薨去]

717年薨去(こうきょ)した石上麻呂(いそのかみのまろ)は、高松塚古墳の被葬者
として除かれますから、大伴御行(おおとものみゆき)、多治比島(たじひのしま)、
阿倍御主人(あべのみうし)、紀麻呂(きのまろ)の四人が、候補者となります。

※延喜式(えんぎしき)によれば、藤原不比等(ふじわらのふひと)の墓は多武峯(とう
のみね)墓とあり、大和国十市(やまとのくにといち)郡に所在している、とされています。

この中で、①②に最も当てはまる人物は、

多治比島(たじひのしま)は、臣下最高位といっても、宣化天皇の直系子孫の貴族であり、
豪族では無い。
よって、天皇を北極星として言祝(ことほ)ぐには、臣下最高位の豪族よりは当てはまり
にくい。
また、大伴御行(おおとものみゆき)と紀麻呂(きのまろ)は、大納言であり、臣下最高位
ではない。

よって、この中では、臣下最高位の豪族であった。
阿倍御主人(みうし)が、最も、ふさわしいのです。

(4)キトラ古墳は、阿部山の中に含まれており、阿倍御主人(みうし)が、最有力となる

キトラ古墳は、「阿部(あべ)山」の中に含まれます。
被葬者候補者四人の中には、既に、最もふさわしい候補、阿倍御主人(みうし)がいます。
ならば、阿部山と阿倍御主人(みうし)との関係が、思い浮かびます。

よって、キトラ古墳の被葬者は、阿倍御主人(みうし)と推定できるのです。

地名・阿部山の事実は、かなり重大であり、この事実を無視できるほどの勇気を、私は
持てないほどです。

(5)高松塚古墳の蓋(きぬがさ)の色は深緑・・・皇子ではない証拠

律令制度では、蓋(きぬがさ)の色・深緑は、第一位の位の人が掲げることになっています。
しかし、NHKテレビ放送の歴史秘話ヒストリアで、猪熊先生は、忍壁皇子(おさかべの
みこ)が当てはまる、と述べて、目が点になりました。
このテレビ番組では、皇子は紫の色と記してある、資料を見せているのにかかわらず、です。
勿論、皇子も一位の位であるからでしょうが、これでいいのかなぁ、と部屋にため息が
いっぱいになりました。

私は、蓋(きぬがさ)の深緑の色は、臣下第一位の人物であることを証拠づけているものと、
理解しています(白石太一郎先生も、そのように述べています)。
つまり、高松塚古墳の被葬者は、皇子ではない、ということです。

(6)キトラ古墳の位置は、微妙な位置にある・・・陪塚的な古墳である

キトラ古墳の位置を、地図で表してみましょう。
キトラ古墳は、距離は天武・持統陵から離れていますが、いわゆる、聖なるラインに、
近いところに位置しています。

※京都大学名誉教授であった故・岸俊男氏(1920年~1987年)は、藤原宮の中軸線の南延長
線上に天武・持統天皇陵がぴったり収まると主張。
この説を受け、藤原宮と天武・持統天皇陵を結ぶ線は「聖なるライン」と呼ばれてきた。

持統天皇は、703年1月13日〈大宝2年12月22日〉崩御されました。
そして、その約4ヶ月後、阿倍御主人(あべのうし)は、西暦703年5月20日、薨去され
ました。
持統天皇は、殯(もがり)は約1年間行われましたが、火葬後は天武天皇陵に合葬され
ました。

阿倍御主人(みうし)は、持統天皇の殯(もがり)の期間に無くなっています。
はたして、阿倍御主人(みうし)は、持統天皇の陵は、どこにするのか、分かっていたの
でしょうか?
結局、持統天皇は、天武天皇陵の中に葬られましたが、天武天皇の横に造る予定もあった
という説もあります。
いずれにしろ、天武天皇の陵と同じ位置ということは、知っていたと思います。

阿倍御主人(みうし)がお仕えした天皇は、天武天皇、草壁皇子[(死後に岡宮御宇天皇
(おかのみやにあめのしたしらししすめらみこと)と追尊]、持統天皇、文武天皇、です。

天武天皇・持統天皇と草壁皇太子の陵は、ほぼ、確定していると思ってもかまいません。

ならば、キトラ古墳の天井の天文図に描かれた、北極星(天皇)は、天武天皇・持統天皇
と草壁皇太子(天皇号追尊)であろうと、想像できます。

では、陵園といわれる範囲内でのキトラ古墳の位置を見てみましょう。

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この地図でキトラ古墳の位置を見てみますと、「天武・持統陵」と「草壁皇子(くさかべの
みこ・天皇号追尊)の陵(束明神古墳・つかみょうじんこふん)」とは離れていますが、
中間に位置していることが分かります。

私は、牽強付会と思われますが、この中間的な位置が、何故か、天武持統陵と草壁皇子
陵に対する、陪塚(ばいちょう)的な表現である、思うわけです。

高松塚古墳は、既に、何度も述べていますが、中尾山古墳(文武天皇推定)の陪塚です。
私は、天武天皇から元明天皇までの当時の臣下が、ここの陵園に葬られることは、陪塚的な
気持ちがあるからこそ、許可されたと思っています。

(7)天皇陵に、壁画を描く伝統はありません。よって、皇子の墓は、その伝統に従ったと
思われます

まだ一例でだけですが、マルコ山古墳は六角形です。
八角形ではなく、角が少ないことで、皇子の古墳であることを窺わせています。むろん、
壁画は描かれていないのです。
※マルコ山古墳は、川島皇子(かわしまのみこ)とも、推測されています。

2 阿倍御主人(みうし)の心意気――その動機と言祝(ことほ)ぎ

阿倍御主人(みうし)は、天皇とは天皇(てんこう)大帝のことであり、北極星神である
ことを知っていました。

阿倍御主人(みうし)は、「天武天皇が正式に天皇号を採用し、天皇とは何たるもので
あるかを人々に知らしめるために、全力を注いでいた」ことを、知っていました。

勿論、阿倍御主人(みうし)は、天武天皇が天皇(北極星神)の証拠たる呪術を、伊勢神宮
と大嘗祭に施したことをも、知っていました。

宮廷歌人・柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)は、天皇を神として言祝(ことほ)ぎました。
 < 大君は 神にしませば 天雲(あまくも)の 雷(いかづち)の上に いほりせる
 かも >(万3-235)

 「わが大君は 神でいらっしゃるので 天雲の 雷の上に 仮宮をつくっていらっしゃる」
<『新編日本古典文学全集・萬葉集』(小学館・小島憲之・他)>

大将軍であった高級官僚の大伴御行[(おおとものみゆき)・701年薨去、正広弐
(しょうこうに)右大臣を追贈]も、天皇を神として言祝(ことほ)ぎました。

 < 大君(おおきみ)は 神にしませば 赤駒(あかごま)の 腹這(はらば)ふ田居
 (たゐ)を 都と成(な)しつ >(万19-4260)

 「大君は 神でいらっしゃるので 赤駒の 腹這(はらば)っていた田んぼでも 都と
 なさった」
<『新編日本古典文学全集・萬葉集』(小学館・小島憲之・他)>

阿倍御主人(みうし)も、天皇を神として言祝(ことほ)ぐことに関しては、歌人・柿本
人麻呂(かきのもとのひとまろ)や大将軍高官であった大伴御行(おおとものみゆき)に、
負けてはいられなかったのです。

3 最後のお勤め――臣下最高位・阿倍御主人(みうし)の心意気と美学

阿倍御主人(みうし)は、最後のお勤めとして、天皇の何たるかを、永遠に言祝(ことほ
)ぎする方法を、思いつきました。その方法とは、自らの古墳に、天皇崇敬守護の壁画を
描くことであったのです。

キトラ古墳壁画とは、天皇とは北極星神(天皇大帝)であることを描き、被葬者自身は
武器を持った十二支獣頭人身像(じゅうにしじゅうとうじんしんぞう)となり、天皇を
死後も崇敬守護していくという、臣下最高位にあった武人・阿倍御主人(みうし)の
尊皇心(そんのうしん)の心意気を、表現するものであったのです。

阿倍御主人(みうし)は、天皇崇敬守護の言祝(ことほ)ぎ歌を、何と、「壁画歌(へきが
うた)」として表現したのです。

つまり、キトラ古墳壁画は、高松塚古墳壁画と同様、< 天皇崇敬守護言祝(ことほ)ぎ
壁画歌 >
であったのです。

阿倍御主人(あべのみうし)は、694年、氏上(うじのかみ)となりました。
阿倍御主人は、古墳壁画を描くことで、阿倍氏の頭領(とうりょう)として、宮廷歌人・
柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)のように、そして、高級官僚・武人大伴御行
(おおとものみゆき)のように、天皇を神(北極星)として< 大君は 神にし 坐(ま)
せば >と、言祝(ことほ)いだのです。

それは、阿倍御主人(みうし)の、武人(もののふ)としての、忠誠心溢(あふ)れる
美意識でもありました。

これらの呪術を図に表すと、次のように描けます。
中央の白色部分が天皇図であり、天皇の意味を表現しています。
武器を持った十二支獣頭人身像[(じゅうにしじゅうとうじんしんぞう)・(灰色部分・
被葬者・阿倍御主人(あべのみうし)]が、天皇図を囲み、天皇を永遠に循環守護して
いるのです。

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キトラ古墳の十二支獣頭人身像(じゅうとうじんしんぞう)は、永遠に十二支を循環する
呪術です。
阿倍御主人(あべのみうし)は、武器を持った十二支獣頭人身像となり、子、丑、寅・・・
酉、戌、亥という順序で、天井(てんじょう)に描かれた北極星(天皇)を、毎日、一周
しながら守護している、と考えてよいのです。

そして、高松塚古墳の呪術も、北斗八星の呪術ですから、永遠の循環です。
高松塚古墳の被葬者(石上麻呂・いそのかみのまろ)は、北斗八星となり、北極星(天皇)
を毎日一周して、天皇を補弼(ほひつ・守護)しているのです。

ならば、キトラ古墳も、そして高松塚古墳も、被葬者が北極星(天皇)を循環して呪術的
に守護している、ということで共通しているのです。


次回は、高松塚古墳の被葬者・石上麻呂と、キトラ古墳の被葬者・阿倍御主人の、何故、
壁画を描こうとしたのか、その心理(動機)について、本人になりきって語ります。
また、この両古墳の壁画制作の監督として活躍したであろう、黄文本実(きぶみのほんじつ)
についても語ります。


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畑アカラ氏 プロフィール

昭和22年生まれ。静岡県出身。藤枝東高校卒。
明治大学政経学部卒業(蒲生ゼミ・村落社会調査)。
広告制作会社(株・漫画社)に勤務後、フリー。イラスト・ライター。
日本児童出版美術家連盟会員。
「8の世界」と「ハートの世界」の、オンリーワンの探究者。
「一般社団法人8月8日はハートの日協会」理事長。
「8月8日はハートの日」を全世界に広めるため活動中。
世界を一つに繋げることの出来るツール・・
それが「8月8日はハートの日」。
著作・歴史書:『古代天皇家「八」の暗号』(徳間書店)。
『古代天皇家の謎は「北斗八星」で解ける』(徳間書店)
著作・エッセイ(画・文):『猫ノーテンキ』(草思社)、
『猫っ可愛がりのことわざ草紙』(毎日新聞)、
『きょうも猫日和』(徳間書店)。 
月間絵本・作絵:『ハーリーちゃんとハーティちゃん』
『にじをつくろう』(チャイルド本社)。
かみしばい:『からすのかーすけ』(教育画劇)。等々。
趣味はテニス。素人作曲(楽器は演奏できません)。サッカー観戦。

【最新著書ご紹介】

【大嘗祭・天皇号・伊勢神宮】 この国永遠の疑問を解く

[新装版]古代天皇家「八」の暗号

【DVD】畑アカラ先生 「初めて語る天皇と大嘗祭の真実」 (2枚組)
【DVD】畑アカラ先生 「初めて語る天皇と大嘗祭の真実」 (2枚組)

第8回「キトラ古墳の壁画創作<動機・本義>は、高松塚と同じ」      

第8回 「キトラ古墳の壁画創作<動機・本義>は、
                   高松塚と同じ」

1 キトラ古墳の概要
2 キトラ古墳の被葬者は阿倍御主人(あべのみうし)

突然、閃(ひらめ)いたのです。キトラ古墳の壁画制作の動機・本義は、高松塚古墳壁画制作の
それと同様である、と。
私は、この閃(ひらめ)きと勘が、当たったと思います。
まずは、キトラ古墳の概要について述べます。


1 キトラ古墳の概要


キトラ古墳は、奈良県高市(たかいち)郡明日香(あすか)村字(あざ)阿部山に位置しています。
高松塚古墳の、やや西より南・約1.2㎞の場所にあります。
いわゆる、「聖なるライン」と呼ばれている線上に近い所に、位置しています。
※聖なるラインとは、藤原京中央と天武(てんむ)・持統(じとう)陵を結ぶ線。

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文化庁のHPには、次のように記してあります。
<< 7世紀末頃の壁画古墳。
古墳の天井(てんじょう)に描かれている天文図は東アジア最古の現存例であり、青龍・白虎・
玄武・朱雀(すざく)の四神すべてが現存している例は国内初。
四神の下に人身獣首の十二支像も描かれており、歴史的・学術的にも価値の高いものである。
 >>

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(1)四神(ししん)図
高松塚古墳の朱雀(すざく)図は、盗掘穴によって消滅していましたが、キトラ古墳には、四神
(ししん)図全てが揃(そろ)っています。
◎東壁・青龍(せいりゅう)

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◎南壁・朱雀(すざく)

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◎西壁・白虎(びゃっこ)

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◎北壁・玄武(げんぶ)

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(2)十二支(じゅうにし)獣頭人身像(じゅうとうじんしんぞう)

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十二支獣頭人身像(じゅうとうじんしんぞう)とは、頭が十二支の動物で、それ以外が人間の体
をしている像のことです。

十二支獣頭人身像(じゅうとうじんしんぞう)は、東西南北の垂直壁面に、三支ずつ描かれて
います。
着衣の色は、四神図の色と同じ。つまり、五行(ごぎょう)説によって色分けされています。

高松塚古墳発掘者の故・網干(あぼし)善教(よしのり)氏は、次のように述べています。
< 簡単に、「北朝鮮の高句麗古墳壁画が日本の壁画古墳に影響を与えた」などと言っている
けども、誰がそのようなこと調べたのか。
調べもしないのにそのようなことを言ったらいけない、というのが僕の意見です。>

< 今、その高句麗の壁画古墳は七十ぐらい壁画が分かっている。
その中に獣頭人身像は一つもないのです。何もないのに影響を及ぼすのか。
そのようないいかげんな話はないと思う。>

また、新羅(しらぎ)にも獣頭人身像があるが、形も日本のものと違い、日本よりも後で作られて
いる、と記しています。
そして次のように述べています。
< 日本のキトラ古墳は、少なくとも、いくら遅くみても八世紀の初めです。
八世紀の初めに作られたものが八世紀後半に作られたものから影響を受けることなど、
どのようにして考えられるのか。>

(『古代大和の謎』編者・大和文化会・学生社/「獣頭人身像を考える」・網干善教)

どうやら、隋代にも獣頭人身像があり、唐代になると非常に多く作られるようになったことから
して、中国からの影響が考えられます。

(3)キトラ古墳天文図
キトラ古墳天文図は、東アジア最古の現存例です。
「外規」「赤道」「内規」「黄道(こうどう)」までもが、描かれています。
このように、多くの星座を描いた古墳壁画天文図は、中国、朝鮮半島にも存在しません。
北斗七星も描かれていますが、輔星(ほせい)を加えてあるから「北斗八星」です。

この天文図は、天皇(北極星)とは天の中心である、ということを意味します。
つまり、二十八宿、北斗八星(七星)、日・月、そして四神の中心軸として支配しているのが、
天皇(北極星)である、という主張が込められているのです。

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◎北斗八星
北斗七星だけではなく、輔星(ほせい)も描かれており、北斗星は、北斗八星であることを
主張しています。
この北斗八星こそ、天武天皇の呪術は北斗八星の呪術であったことを証明する、一つの事例
です。
いままで、何度も記してきたように、高松塚古墳、伊勢神宮、大嘗祭(新嘗祭)、日光東照宮
は、北斗八星の呪術なのです。

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2 キトラ古墳の被葬者は阿倍御主人(あべのみうし)


(1)キトラ古墳の壁画制作の動機(本義)発見とは
前述していますが、私は閃(ひらめ)きました。 
高松塚古墳壁画の動機(本義)が、「死後も天皇を崇敬(すうけい)守護していくこと」である
ならば、キトラ古墳壁も同様であろう、と。

ならば、キトラ古墳壁画の中から、天皇を崇敬守護している呪術を、探せばいいわけです。
高松塚古墳の場合の動機(本義)は、八人ずつの男女群像が、北斗八星(帝車)となり、
天井に描かれている北極星(天皇)を、崇敬守護していく、ということでした。
その八人ずつの男女群像は、被葬者自身・石上麻呂(いそのかみのまろ)でした。

ならば、男女群像に代わるものを、キトラ古墳壁画の中から探せばいいわけです。
あるではないか!! 十二支獣頭人身像(じゅうとうじんしんぞう)が!!


(2)十二支獣頭人身像と、八人ずつの男女・・・呪術方法は違っても、動機(本義)は
    「天皇崇敬護持」で同じ

獣頭人身像(じゅうとうじんしんぞう)とは、頭部が動物で、体が人間である像のことを
いいます。
十二支獣頭人身像とは、獣頭が子(ね)・丑(うし)・寅(とら)・・・と、十二支揃っている
獣頭人身像のことです。
一壁三支ずつ、四壁で、十二支の獣頭人身像が描かれていた、と推測されます。
残念ながら欠落していて、十二支全てが壁画として残っていませんでした。

故・網干(あぼし)善教氏は、次のように述べています。
高松塚古墳の人物像の意味と、キトラ古墳の獣頭人身像(じゅうとうじんしんぞう)の意味が
分からないことを、告白しています。(『高松塚への道』草思社)

< この十二支獣頭人身像をどのように解釈するか。
なぜ高松塚古墳では人物画が描かれ、キトラ古墳では十二支獣頭人身像になったのか。
それがわからない。非常に難しい問題です。>

< 天文図、四神図に関しては、表現の違いこそあれ、基本的な考え方では通じるところが
ある。
けれど、十六人の人物像と、十二支獣頭人身像は全く違うものだと思います。>

網干(あぼし)氏は、「十六人の人物像と、十二支獣頭人身像は全く違うものだと思います」
と述べていますが、私の見解は、その逆で、全く同じものである、との見解です。

ただ、呪術形式が違うだけで、「描こうとした動機(本義)は、全く同じ」なのです。

その同じ動機(本義)とは、死後も、墓室内の天井(てんじょう)に描いた天皇(北極星)を、
永遠に崇敬守護していきたいという、被葬者自身の強い願いであったのです。
 
高松塚古墳の八人ずつの男女は、被葬者自身であり、北斗八星となり、天井に描かれた北極星
(天皇)を補弼(ほひつ・守護)しているのです。

キトラ古墳の十二支獣頭人身像は、被葬者自身であり、天井に描かれた北極星(天皇)を、
十二支循環という呪術で守護しているのです。

※高松塚古墳の場合の北極星(天皇)は、近くに存在する中尾山古墳(文武天皇)が加わり、
二カ所となります。
※高松塚古墳は中尾山古墳の陪塚(ばいちょう)。

ならば、次のことも言えます。
私は、両古墳とも人物像が描かれていることは、そこに被葬者が投影されている証拠、と
みます。
そして、天井に描かれた北極星(天皇)を、永遠に、一日一回循環しているのです。
 
八人ずつの男女(高松塚古墳)=被葬者(石上麻呂・いそのかみのまろ)=天皇守護=呪術
(北斗八星循環・帝車・八卦)=北極星(天皇)を一日一回循環

獣頭人身像(キトラ古墳)=被葬者(阿倍御主人・あべのみうし)=天皇守護=呪術(十二支
循環)=北極星(天皇)を一日一回循環


(3)何故、天皇図・「天文図(星宿図+日月図)+四神図のセット図」を描けたのか?
「天文図(星宿図+日月図)+四神図のセット図」の意味については、高松塚古墳において、
既に何度も述べていますが、再度記します。

「天文図(星宿(せいしゅく)図+日月図)+四神図のセット図」は、< 大宇宙を支配して
いる天皇(天帝)の様子 >を、表現しています。
このセット図は、完全天皇図、と言えます。

一つの墓室(石槨・せっかく)内に、これほど完全に揃(そろ)ったセット図・「天文図
(星宿図+日月図)+四神図」は、皇帝の国・中国においてさえ見られません。


従来の説は、「完全天皇図は、天皇に対してのみ描ける」、という前提条件を無視しています。

何故、被葬者は天皇でないのに、完全なる天皇図を描けたのか・・・この大問題をスルーして
いるのです。
よくよく考えてみれば、スルーするなんて、大変、おかしな話です。

キトラ古墳の場合は、次の通りです。

< 死後、被葬者自らが十二支(じゅうにし)獣頭人身像(じゅうとうじんしんぞう)となり、
天皇を神(北極星)として永遠に崇敬守護していく、という美学を持った、臣下最高位の
人物であったからこそ、天皇図を描けたのです。 >

つまり、被葬者が< 大君(おほきみ)は 神にし 坐(ま)せば >と墓の中でも言祝
(ことほ)ぎ、天皇を永遠に守護していこうとしている、という条件があってのみ、天皇図・
「天文図(星宿図+日月図)+四神図のセット図」を描くことが、許されたのです。

これでは、完全天皇図を描いたからといって、文句の付けようがありません。
天皇図を描いているが天皇陵ではない、との矛盾はこれで解消できます。
 
しかも、被葬者は、臣下最高位の官僚が最も相応(ふさわ)しい、と特定できるのです。


(4)キトラ古墳壁画の呪術(暗号)が解けた!!
私は、宇宙に向かって声を発したい。
高松塚古墳とキトラ古墳の呪術が、解明できた!!と。
網干(あぼし)善教氏が、あれほどまで言いつつ悩んでいた問題が、解決したのだ!!と。

ただ、言えることがあります。
もし、高松塚古墳の呪術が明らかにならなかったならば、キトラ古墳の呪術は分からなかった、
と。
網干(あぼし)氏が言われたように、永遠に分からなかった、と思われます。

高松塚古墳の呪術は、高度な難しい呪術でした。
しかし、既に伊勢神宮の呪術を解読していたからこそ、高松古墳の呪術の全てが、解明できた
のです。

伊勢神宮、大嘗祭(だいじょうさい)、日光東照宮、八角形天皇陵、高松塚古墳、キトラ古墳は、
「天皇のデザイン(天武天皇の呪術)」ということで、繋(つな)がっていたのです。

キトラ古墳の呪術は、分かりましたが、まだまだ喜ぶのは早い。
さらなる、被葬者(阿倍御主人・あべのみうし)の証明作業が、残っています。


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畑アカラ氏 プロフィール

昭和22年生まれ。静岡県出身。藤枝東高校卒。
明治大学政経学部卒業(蒲生ゼミ・村落社会調査)。
広告制作会社(株・漫画社)に勤務後、フリー。イラスト・ライター。
日本児童出版美術家連盟会員。
「8の世界」と「ハートの世界」の、オンリーワンの探究者。
「一般社団法人8月8日はハートの日協会」理事長。
「8月8日はハートの日」を全世界に広めるため活動中。
世界を一つに繋げることの出来るツール・・
それが「8月8日はハートの日」。
著作・歴史書:『古代天皇家「八」の暗号』(徳間書店)。
『古代天皇家の謎は「北斗八星」で解ける』(徳間書店) 
著作・エッセイ(画・文):『猫ノーテンキ』(草思社)、
『猫っ可愛がりのことわざ草紙』(毎日新聞)、
『きょうも猫日和』(徳間書店)。 
月間絵本・作絵:『ハーリーちゃんとハーティちゃん』
『にじをつくろう』(チャイルド本社)。
かみしばい:『からすのかーすけ』(教育画劇)。等々。
趣味はテニス。素人作曲(楽器は演奏できません)。サッカー観戦。

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【大嘗祭・天皇号・伊勢神宮】 この国永遠の疑問を解く

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【DVD】畑アカラ先生 「初めて語る天皇と大嘗祭の真実」 (2枚組)
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第7回「天皇を 永久に守るは 高松に 眠りし臣下 北斗八星」     

第7回 「天皇を 永久に守るは 高松に
                眠りし臣下 北斗八星」


1 海獣葡萄鏡により、年代を特定できるのか?
2 海獣葡萄鏡は、704年帰国の遣唐使によってもたらされた
3 王仲殊氏と直木孝次郎氏は、歌を交換し、被葬者を特定できたと喜びを分かち合った
4 高松塚古墳の呪術を整理・・・真実発見の経緯
5 高松塚古墳の真実発見を拙歌で披露

1 海獣葡萄鏡により、年代を特定できるのか?

海獣葡萄鏡(かいじゅうぶどうきょう)が、陝西省(せんせいしょう)西安の独孤思貞
(どっこしてい)墓より、出土しています。

この鏡は、高松塚古墳出土の海獣葡萄鏡と、同笵(どうはん)関係にあるということが
わかりました。
墓誌により697年埋葬、698年に改葬されたことが分かりました。
※同笵(どうはん)鏡とは、同じ鋳型(いがた)から鋳造(ちゅうぞう)された鏡のこと。

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◎王仲殊(おうちゅうしゅ)氏説
中国人の王仲殊(おうちゅうしゅ)氏は、高松塚古墳の被葬者は、忍壁皇子(おさかべのみこ)
とする説(705年)です。

王氏は、海獣葡萄鏡(かいじゅうぶどうきょう)は704年帰国の遣唐使(けんとうし)
によってもたらされた可能性が高い、と述べています。

よって、7世紀に亡くなった皇子(みこ)たちは、この鏡を埋葬できず、忍壁皇子
(おさかべのみこ)だけが被葬者の対象となり得る、と推測しています。

つまり、704年帰国の遣唐使によって将来され、705年、忍壁皇子(おさかべのみこ)
の墓、つまり高松塚古墳に納められた、と説いたのです。

◎土淵正一郎説
高市皇子(たけちのみこ)説の土淵(つちぶち)正一郎氏は、海獣葡萄鏡について、次の
ように述べています。

< 7世紀後半の制作であれば、それが696年に築造された高松塚に埋蔵されることは、
慶雲元年(704年)の遣唐使を経(へ)ずとも可能である。
おそらく、新羅王(しらぎおう)は唐から海獣葡萄鏡(かいじゅうぶどうきょう)を入手
し、これを太政大臣(だじょうだいじん)だった高市皇子(たけちのみこ)に献上した
のであろう >と述べています。

この土淵氏の説は、全く可能性はないとは言えませんが、新羅王から高市皇子(たけちの
みこ)へ献上したとの推測は、さすがに、違和感を覚えます。

いつ日本に海獣葡萄鏡が将来したかは、

①中国の西安にある墓の中から、「海獣葡萄鏡が出土。墓誌により697年埋葬、
 698年改葬」
②高松塚古墳から、その同笵鏡である海獣葡萄鏡が出土

・・・という条件からは、おおよその年代しか分からない、といえます。


2 海獣葡萄鏡は、704年帰国の遣唐使によってもたらされた


精査してみましょう。
遣唐使の派遣年と帰国年を調べてみると、次のようになっています。


669年・・・第六回遣唐使が派遣される。帰国不明。
702年・・・第七回遣唐使として、粟田真人(あわたのまひと)、
       山上憶良(やまのうえのおくら)が派遣される。704年帰国。
717年・・・第八回遣唐使として、阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)、
       吉備真備(きびのまきび)、玄昉(げんぼう)等が
       派遣される。帰国718年

こう見ますと、704年の帰国説が、有力となってきます。

遣新羅(けんしらぎ)使は、692年、695年、に派遣されています。
しかし、中国の鏡が、新羅王を通して、伝わるのでしょうか?
高市皇子は、696年、薨去(こうきょ)されています。

中国の西安で、698年に造られたお墓に治められた鏡の同笵鏡(どうはんきょう)が、
それより2年前の、696年に、高松塚古墳に納められた可能性は、低いと考えざるを
得ません。


3 王仲殊氏と直木孝次郎氏は、歌を交換し、被葬者を特定できたと
    喜びを分かち合った


王仲殊(おうちゅうしゅ)氏は、橿原(かしはら)考古学研究所で、高松塚古墳について
講演したさい、自作の短歌を披露しました。

檜隈(ひのくま)の 草場の陰に 光しは 高松塚の 宝の鏡

海獣葡萄鏡により、被葬者は特定できたとの思いで、この歌をつくったのです。
これに直木孝次郎氏は、次の歌で答えました。

外(と)つ国の 鏡かがやき 高松の 塚に眠りし 人を顕す

高松の 塚の主を 照らせしは 海獣葡萄の鏡の光

王仲殊氏と直木孝次郎氏は、704年の遣唐使帰国によってもたらされた海獣葡萄鏡は
「高松塚古墳の被葬者は忍壁皇子(おさかべのみこ)である、とのことを証明するもの」
として、捉(とら)えたのです。

まさに、自信満々の歌なのです。
海獣葡萄鏡により、王仲殊氏と直木孝次郎は、高松塚古墳の被葬者は特定できたと大喜び
しているのです。

これによって、704年前の被葬者説は、あり得ないこととしたのです。

以上のように検討してきますと、確かに、遣唐使が帰国した704年に、海獣葡萄鏡は
日本にもたらされた、ということは、説得力のある説ではあります。

しかし、それは、石上麻呂説(いそのかみのまろ・717年)を否定するものではなく、
むしろ、石上麻呂説にとっても有利に解釈できる説なのです。


4 高松塚古墳の呪術を整理・・・真実発見の経緯


私も、王仲殊氏、直木孝次郎氏と同じように、真実発見の喜びを拙歌で、伝えたいと思い
ます。

しかし、その前に、既に何度も述べてきたことですが、高松塚古墳の呪術は、天武天皇の
呪術ですから、天武天皇の呪術を整理して、真実発見の道筋を明らかにしたいと、思います。

高松塚古墳の真実証明は、人物立ち位置を繋げると、北斗八星か描かれる、ということに
あります。

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この北斗八星の出現は、高松塚古墳の真実証明だけではなく、天武天皇が伊勢神宮
(リニューアル)と大嘗祭(創設)・新嘗祭(リニューアル)に施した、呪術の確かさの
証明にもなるのです。

つまり、人物立ち位置北斗八星は、「北極星と北斗八星の呪術」が、高松塚古墳にも、
伊勢神宮にも、大嘗祭・新嘗祭にも、施されていることの証明になるのです。

高松塚古墳の被葬者・石上麻呂(いそのかみのまろ)は、伊勢神宮の呪術を真似したの
ですから、「人物立ち位置・北斗八星」が描かれていても、当然なことなのです。

◎日光東照宮の呪術
日光東照宮を造営するにあたり、天海大僧正(てんかいだいそうじょう)は、伊勢神宮の
呪術「北極星・北斗八星」をそっくり真似て、家康を祀っています。

日光東照宮の奧社にある、家康の神廟(しんびょう)は、八角形の基壇で作られています。
それは、八角形天皇陵の真似でもあります。
その神廟の中には、八角形の御璽箱(ぎょじばこ)があり、その中に、三種の神器を梵字
(ぼんじ)で書いた、御璽内箱(ぎょじうちばこ)があります。
八角形の御璽箱は、まるで、天皇が即位式をする時に使用される、八角形の高御座(たか
みくら)の意味があるように、思われます。

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御璽内箱のその下に、極秘敷曼荼羅(ごくひしきまんだら)が敷かれています。
この曼荼羅は、普通の曼荼羅ではありません。
八卦(はっか)が八方に配されている、極秘の曼荼羅で、下に敷くの意味がある、極秘敷
曼荼羅です。
ここでの敷は、大地に敷くを意味し、大地の八卦となります。

つまり、日光東照宮は、天地に「北極星(太極)北斗八星(八卦)」を描いていることに
なります。

この八卦紋様は、伊勢神宮、大嘗祭(新嘗祭)、高松塚古墳、にも、太極八卦の呪術を、
密かにですが、含んでいる、ということを意味します。

私は、いままで、伊勢神宮、大嘗祭(新嘗祭)、高松塚古墳においては、「北極星・北斗
八星」の呪術はあっても、「太極・八卦」の具体的な紋様を発見することができなかった
ので、これは、隠密の呪術だと思っていました。
しかし、何処かに、その証拠が無いものだろうかと、探していました。

やっと、日光東照宮の徳川家康の神廟(しんびょう)の中で、それを見つけたのです。

天武天皇の呪術は、伊勢神宮、大嘗祭(新嘗祭)、高松塚古墳、日光東照宮をセットとして
考えて、初めて、読み解くことが出来るのです。
それぞれに、天武天皇の呪術の証拠を残しているのです。

以上、天武天皇の呪術は、高松塚古墳と日光東照宮にも使われていたことが、お分かり
いただけたと思います。

◎高松塚古墳の呪術
何度も記してきましたが、高松塚古墳の真実は、呪術からは次のように言えるのです。

高松塚古墳(被葬者・石上麻呂・いそのかみのまろ)は、中尾山古墳(被葬者・文武天皇)
の陪塚(ばいちょう)であり、高松塚古墳は北斗八星を意味し、中尾山古墳は北極星を
意味しています。

つまり、被葬者石上麻呂(いそのかみのまろ)は、自らが北斗八星となり、天井の天文図
に描かれている北極星(天皇)である文武天皇を、永遠に守護していこうとしたのです。

北斗八星の証拠は、東壁と西壁に描かれている、男女四人ずつの立ち位置を線で繋ぐと、
北斗八星になるからです。
東壁と西壁で、陰陽の北斗八星が存在しているのです。

高松塚古墳の被葬者、石上麻呂は、自らが、男女八人ずつで構成されている北斗八星と
なり、天井に描かれた北極星(文武天皇)と、北200メートルにある中尾山古墳の被葬者
・文武天皇(北極星)を、永遠に守護しているのです。

高松塚古墳の天文図に北斗八星が描かれていないのは、描かないことで墓全体を、北斗八星
としたからです。
その証拠として、八人ずつの男女の立ち位置で、北斗八星を描くことにしたのです。

また、北斗八星は、道教哲理により、北極星(天皇)の自家用車・帝車・宇宙船を意味
しています。

よって、八人ずつの男女で描かれている北斗八星・帝車(石上麻呂)に、天井に描かれて
いる北極星(文武天皇)をお乗せして、墓の外に出行するのです。

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何故、人物像の立ち位置で、北斗八星を描いたのでしょうか?

①それは、石上麻呂(いそのかみのまろ)が北斗八星となって、天井に描かれた北極星
 (文武天皇)を、永遠に守護しようとしたこと。

②そして、天井に描かれた北極星(文武天皇)を、時々、北斗八星帝車(石上麻呂・
 いそのかみのまろ)にお乗せして出行し、息抜きに、飛鳥(あすか)を、八州(日本)を、
 そして宇宙を駆け巡る、という趣向を凝らしていること。

高松塚古墳の天文図には北斗八星が描かれていなくて、人物の立ち位置として北斗八星が
描かれているのは、以上の二つの理由によるものなのです。

以上の説は、誰も、述べていません。
それは、仕方の無いことです。
呪術でしか、高松塚古墳の真実は、解明できないからです。
しかも、呪術を解く鍵は、「北斗八星」だったのです。


5 高松塚古墳の真実発見を拙歌で披露

万感の思いを込めて、拙歌を披露させていただきます。

天皇(おおきみ)を 永久(とわ)に守るは 高松に 眠りし臣下 北斗八星

画(え)は語る 高松塚の 真実(まこと)とは 臣下の発露(ロマン) 北斗八星

次回は、キトラ古墳について述べます。
キトラ古墳の壁画は、何故、描かれたのか? 描こうとした動機とは?
この答えは、高松塚古墳と全く同じです。
高松塚古墳には、何故、8人ずつの男女が描かれていて、キトラ古墳には、何故、十二支
獣頭人身像が描かれているのか? ・・・両古墳発掘者の網干(あぼし)善教氏は、
分からないと正直に述べています。
次回から、この答え、つまり真実発見を、記すこととします。


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畑アカラ氏 プロフィール

昭和22年生まれ。静岡県出身。藤枝東高校卒。
明治大学政経学部卒業(蒲生ゼミ・村落社会調査)。
広告制作会社(株・漫画社)に勤務後、フリー。イラスト・ライター。
日本児童出版美術家連盟会員。
「8の世界」と「ハートの世界」の、オンリーワンの探究者。
「一般社団法人8月8日はハートの日協会」理事長。
「8月8日はハートの日」を全世界に広めるため活動中。
世界を一つに繋げることの出来るツール・・
それが「8月8日はハートの日」。
著作・歴史書:『古代天皇家「八」の暗号』(徳間書店)。
『古代天皇家の謎は「北斗八星」で解ける』(徳間書店) 
著作・エッセイ(画・文):『猫ノーテンキ』(草思社)、
『猫っ可愛がりのことわざ草紙』(毎日新聞)、
『きょうも猫日和』(徳間書店)。 
月間絵本・作絵:『ハーリーちゃんとハーティちゃん』
『にじをつくろう』(チャイルド本社)。
かみしばい:『からすのかーすけ』(教育画劇)。等々。
趣味はテニス。素人作曲(楽器は演奏できません)。サッカー観戦。

【最新著書ご紹介】

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【DVD】畑アカラ先生 「初めて語る天皇と大嘗祭の真実」 (2枚組)
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第6回「天地に描く、北極星古墳(中尾山)と北斗八星古墳(高松塚)」     

第6回 「天地に描く、北極星古墳(中尾山)と
                北斗八星古墳(高松塚)」


1 中尾山古墳と高松塚古墳は、セットとして整備し、手厚く祀るべし
2「高松塚古墳陪塚(ばいちょう)説」の存在を知る
3 秋山日出雄氏―高松塚古墳・陪塚(ばいちょう)説とは
4 自説の正しさを証明する秋山日出雄氏の陪塚説
5 驚きの、中尾山古墳の兆域と、高松塚古墳の兆域

1 中尾山古墳と高松塚古墳は、セットとして整備し、手厚く祀るべし


昨年の9月に、「令和4年・2022年に、高松塚古墳発掘50周年記念の
イベントを、明日香村教育委員会と関西大がタイアップして行う」、との
記事が新聞に掲載されました。
また、同じ昨年の、11月に、「中尾山古墳、50年ぶりの再調査の結果発表」
という記事も掲載されました。

これを機会として、高松塚古墳と中尾山古墳の関係についての議論の場を求めて
止みません。
網干善教氏は、両古墳は、ただならぬ何らかの関係がある、と述べています。

現在、宮内庁は、文武天皇陵は、「檜隈安古岡上陵 (ひのくまあこのへのみささぎ)
(栗原塚穴古墳)」と治定しています。
しかし、今回の調査の結果から、やはり、中尾山古墳が、文武天皇の墓である
事が、ほぼ確定されましたので、まことに畏れ多く、心安まらないことですが、
文武天皇陵は、中尾山古墳として主張・展開することとします。

となれば、高松塚古墳と中尾山古墳、この両古墳はセットとして考えること、
このことが大切であると、痛切に感じています。

なぜならば、高松塚古墳は、天皇陵・北極星古墳である中尾山古墳に対する、
陪塚(ばいちょう)・北斗八星古墳であるからです。

特に、保存整備の心構えは、セットとして手厚く考える、というのが基本姿勢
だと思います。
何故、両古墳をセットとして、手厚く保存整備しなければならないか、
その理由を、記すこととします。

既に、当ブログで、高松塚古墳は、中尾山古墳の陪塚(ばいちょう)である事は、
記していて、重複しますが、上記した記事が出たということで、あえて、今回、
秋山日出雄氏の説を元に、さらなる説明をしたいと思います。


2「高松塚古墳陪塚(ばいちょう)説」の存在を知る


高松塚古墳は、陪塚(ばいちょう)だと述べましたが、実は、それに気づいたのは、
高松塚古墳の呪術を解いて、被葬者を石上麻呂(いそのかみのまろ)と推定した後
だったのです。

秋山氏の陪塚説があることは、不覚にも知らなかったのです。
陪塚説を知らなくても、呪術からして、「被葬者は、死後も天皇を崇敬守護
しようとした人物である」、ということは解けていました。
そして白石太一郎氏の説によって、被葬者は石上麻呂(いそのかみのまろ)と
推定したのです。

ところが、私の仮説をさらに後押しする説「陪塚説」が存在していた、という
ことが分かりました。
それは、『末永(すえなが)先生米壽(べいじゅ)記念獻呈(けんてい)論文集』の
なかで論じられていたのです。
さっそくそれを入手し、拝読。
まさにその通り!! 鬼に金棒、これで私の説は、完璧なものになったと、私は、
余りの嬉しさで、思わずガッツポーズをするほどでした。

今は亡き秋山日出雄氏の、私を狂喜乱舞させてくれた陪塚説を、紹介します。


3 秋山日出雄氏―高松塚古墳・陪塚(ばいちょう)説とは


秋山日出雄説は、「高松塚古墳は中尾山古墳(文武天皇)の陪塚である」という
仮説です。

高松塚古墳の発掘調査参加者の一人であった秋山日出雄氏は、『末永先生米壽
(べいじゅ)記念獻呈(けんてい)論文集』のなかで、大変興味深いことを記して
います。

『延喜式(えんぎしき)』に
< 文武天皇陵・檜隈安古岡上陵(ひのくまあこのへのみささぎ)は、
在大和高市郡 兆域(ちょういき・墓域) 東西三町 南北三町 >
と記してあることから、秋山氏は、次のように推測しています。
要旨(抜粋)を述べます。

< もし、中尾山古墳が、文武天皇陵とするならば、方三町の兆域(墓域)は、
高松塚古墳を含む。
よって、高松塚古墳は、文武天皇陵の陪塚(ばいとょう)にあたると考えられる。
ならば、高松塚は、文武天皇陵の陪塚であるがゆえ、707年に築造された
文武天皇陵を遡(さかのぼ)ることはあり得ない。
即ち、高松塚古墳の築造の上限を年代的に決定し得ることになる。>

ならば、私の「北極星(太極)北斗八星(八卦・はっか)」説は、陪塚説として
成立する!!
やったぜ!!というのが、この時の正直な気持ちです。

そして秋山氏は、被葬者を石上麻呂(いそのかみのまろ)と推定しています。

再度、記しますが「ならば、高松塚は、文武天皇陵の陪塚であるがゆえ、
707年に築造された文武天皇陵を遡(さかのぼ)ることはあり得ない。
即ち、高松塚古墳の築造の上限を年代的に決定し得ることになる。」

このことも含めた幾つかの理由で、秋山氏は、高松塚古墳の被葬者は、石上麻呂
(いそのかみのまろ)と推定したのです。
この説は、石上麻呂説を除いた、全ての被葬者説を年代的に否定するものです。

文武天皇が崩御した、707年より前の年代の被葬者はあり得ないと述べている
からです。

石上麻呂を除いて、これまでの被葬者説の人物は、全て、707年前に没して
います。

今日でも有力な被葬者説である、忍壁皇子(おさかべのみこ)、高市皇子
(たけちのみこ)、はあり得ないことになります。

高松塚古墳発掘者の一人であった秋山氏が、被葬者の名前を推定したのは、
よくよくのことであったと思われます。

墓誌が出土しない限り被葬者を特定できないから、考古学者は被葬者を推定する
のは差し控えるべきだ、という風潮があります。
ましてや、発掘担当者は被葬者名をあげるべきではない、と高松塚古墳発掘者で
あった網干(あぼし)善教氏は、発言しています。
高松塚古墳の発掘を指揮した末永雅雄氏も、最後まで被葬者名を口にしません
でした。

こうしたなか、高松塚古墳発掘担当者・秋山氏があえて被葬者を推測したのは、
重みがあります。
よほどの覚悟があって、論じたことと思われます。
そして、あえて、発言しなければならないという、事の重大さに気づいていた
のでは、ないでしょうか。
しかし、あくまでも謙虚で、皇陵のことゆえ、その悩みも伝わってきます。

※文武(もんむ)天皇
文武天皇は、名を軽皇子(かるのみこ)といい、 草壁(くさかべ)皇太子の長男。
母は阿閉皇女(あへのひめみこ)で後の元明(げんめい)天皇。
697年立太子、同年持統(じとう)天皇の譲位を受けて文武天皇となった。
藤原不比等(ふひと)の娘宮子を夫人(ぶにん)として、首(おびと)親王、
後の聖武(しょうむ)天皇をもうけた。
当時15歳という先例のない若さだったため、持統が初めて太上(だいじょう)天皇
を称し、後見役についた。707年、崩御(ほうぎょ)。


4 自説の正しさを証明する秋山日出雄氏の陪塚説


繰り返しますが、秋山氏の陪塚(ばいちょう)説は、「高松塚古墳は、中尾山古墳
(文武天皇陵・推定)の陪塚である」という説です。

この陪塚(ばいちょう)説と私の「北極星(太極)北斗八星(八卦)」説は、
一致します。

高松塚古墳が陪塚であったならば、私の仮説、
< 高松塚古墳壁画は、「北極星(太極)北斗八星(八卦)」の呪術であり、
死後も、お仕えした天皇(天井に描かれた北極星)を崇敬守護していこうと
した、石上麻呂(いそのかみのまろ)(北斗八星)のロマンの所産である >
の正しさが証明されたことになります。

両古墳の関係を分かりやすく書くと、次の通り。

中尾山古墳(被葬者・文武天皇・もんむてんのう)707年=「北極星古墳」

高松塚古墳(被葬者・石上麻呂・いそのかみのまろ)717年=「北斗八星古墳」
=陪塚

つまり、高松塚古墳(被葬者・石上麻呂・いそのかみのまろ)は、北斗八星
(帝車・八人ずつの男女)となり、北極星(文武天皇)の中尾山古墳を、
永遠に言祝(ことほ)ぎ守護しているのです。

ならば、陪塚であることが、完璧に証明されたことになります!!

しかも、北極星の周りを毎日一周する「北斗八星・陪塚(ばいちょう)」と
なれば、世界一美しい陪塚です!!

私は、高松塚古墳のことを、「北斗八星陪塚」と名づけたい。

さらに言えば、蓋(きぬがさ)の色が深緑(一位)であるから、高松塚古墳は、
「深緑色の北斗八星陪塚」といえるのです。

高松塚古墳壁画は、「陪塚表現図」であったのです!!
陪塚グランドデザインを図で表現すると、次の通りです。

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5 驚きの、中尾山古墳の兆域と、高松塚古墳の兆域


中尾山古墳の兆域(墓域)について、記します。

※ 兆域(ちょういき・墓域) 「東西三町 南北三町」とは、約300メートル
四方の兆域(墓域)のこと。

次のように解釈できます。
中尾山古墳(文武天皇陵推定)と高松塚古墳は、南北約200メートル離れて
います。

ならば、中尾山古墳(文武天皇陵推定)の兆域は、中心点から約150メートル
ですから、残り約50メートルが高松塚古墳の兆域(墓域)、と考えられます。
 
つまり、中尾山古墳と高松塚古墳は、兆域(墓域)で接している、と考えられます。

中尾山古墳の兆域辺と、高松塚古墳の兆域辺が接していることは、「中尾山・
北極星古墳(北斗八星も含む)」と、「高松塚・北斗八星古墳」が接している、
ということになります。

◎八角形天皇陵については、既に述べていますが、再度説明します。

八角形天皇陵の八角形の中心部分は、北極星と太極、つまり天皇を意味し、
八角形の外辺部分が、北斗八星と八卦を意味します。

つまり、八角形天皇陵は、「北極星(天皇・太極)北斗八星(八卦)」の呪術
を採用しているのです。
さらに、詳しく述べますと、次の通りです。

八角形天皇陵の中心部=北極星=天皇=太極
八角形天皇陵の周辺部八角・八辺=北斗八星=八州(日本)=八卦(はっか)

とするならば、中尾山古墳の兆域辺は、北斗八星を意味していることになります。

ならば、中尾山古墳と高松塚古墳の兆域は、北斗八星(八角形外辺と高松塚)が
共通となり接していることになります。

中尾山古墳と高松塚古墳の関係の奥深さには、ただただ、感心するほかないの
です。
図で表現すると、次のようになります。

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高松塚古墳は、北極星古墳・中尾山古墳に対する、高度な呪術を施(ほどこ)した
「北斗八星陪塚(ばいちょう)」であることが、これで証明できました。

秋山日出雄氏は、中山古墳は文武天皇陵の可能性を述べ、高松塚古墳は、その
中尾山古墳の陪塚であり、被葬者は、臣下最高位であった石上麻呂と推定して
います。
まさに、卓見です。
しかし、秋山日出雄氏のこの陪塚説は、何故か、無視されてきました。
何故、議論の対象にならなかったのでしょうか?
まさかと思いますが、自分にとって都合の悪い説は、批判もせずに、議論も
せずに、徹底的に無いものとして無視されてきたのでしょうか?

ただ、秋山氏も、皇陵のことであり、積極的に主張しなかった、とも思われます。

故・秋山日出雄氏は、中尾山古墳と高松塚古墳の発掘に直接関わった学者です。
高松塚古墳発掘50周年記念において、もし、高松塚古墳についての討論会、
発表会の機会がありましたら、ぜひとも、秋山説を取り上げていただきたいと
願うばかりです。
以上、高松塚古墳発掘50周年記念にあたり、また中尾山古墳の50年ぶりの
再調査の結果発表がありましたので、これを機会に、高松塚古墳と中尾山古墳の
整備と保存の心構えについて参考になれば、と記した次第です。


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畑アカラ氏 プロフィール

昭和22年生まれ。静岡県出身。藤枝東高校卒。
明治大学政経学部卒業(蒲生ゼミ・村落社会調査)。
広告制作会社(株・漫画社)に勤務後、フリー。イラスト・ライター。
日本児童出版美術家連盟会員。
「8の世界」と「ハートの世界」の、オンリーワンの探究者。
「一般社団法人8月8日はハートの日協会」理事長。
「8月8日はハートの日」を全世界に広めるため活動中。
世界を一つに繋げることの出来るツール・・
それが「8月8日はハートの日」。
著作・歴史書:『古代天皇家「八」の暗号』(徳間書店)。
『古代天皇家の謎は「北斗八星」で解ける』(徳間書店) 
著作・エッセイ(画・文):『猫ノーテンキ』(草思社)、
『猫っ可愛がりのことわざ草紙』(毎日新聞)、
『きょうも猫日和』(徳間書店)。 
月間絵本・作絵:『ハーリーちゃんとハーティちゃん』
『にじをつくろう』(チャイルド本社)。
かみしばい:『からすのかーすけ』(教育画劇)。等々。
趣味はテニス。素人作曲(楽器は演奏できません)。サッカー観戦。

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第5回「これまでの高松塚・キトラ古墳・被葬者説は、全て謀(む)大逆罪?」     

第5回 「これまでの高松塚・キトラ古墳・被葬者説は、
                   全て謀(む)大逆罪?」

1.中尾山古墳の調査結果と、高松塚古墳発掘50周年(令和4年)記念
    イベント予定が、発表されました

2.何故、被葬者は天皇でもないのに完全天皇図を描けたのか?・・・
    このことを不思議と思わなかったことが不思議

3.これまでの全ての高松塚被葬者説は、「謀(む)大逆罪」であることを、
    スルーしている・・・その不思議

4.被葬者は、天皇として葬られていないという証明が必要
5.完全天皇図を描いても天皇として葬られているのではない、という
    具体的な証明が必要・・・
    それが北斗八星・帝車図(八人ずつの男女)

6.「謀(む)大逆罪」をスルーしていては、高松塚とキトラ古墳の
    壁画制作の動機も分からないのが当然

1.中尾山古墳の調査結果と、高松塚古墳発掘50周年(令和4年)
    記念イベント予定が、発表されました


令和2年11月26日、50年ぶりの中尾山古墳の調査が終わったとの
発表がありました。
古墳内容のグレードの高さ、火葬された墓、そして、天皇陵の証拠でもある
正八角形墳・・・
ということで、文武天皇の墓であるとの、確証を得たようです。

ならば、今回の中尾山古墳の調査によって、私の説・・・
< 中尾山古墳は、文武天皇の墓であり、「北極星古墳」を表現していて、
南、200m離れている高松塚古墳(石上麻呂・いそのかみのまろ)は、
中尾山古墳の陪塚(ばいちょう)であって「北斗八星古墳」を表現している>・・・
の正しさが、確認されることにもなったのです。

また、令和4年(2022年)に、高松塚古墳発掘50周年記念の
イベントを、明日香村教育委員会と関西大がタイアップして行う、
との記事も出ていました。

50周年記念には、講演もあると想像されます。
傲慢不遜でこのようなことを言うのもはばかられますが、50周年記念に
おいて、私の説・高松塚古墳壁画の真実が広まることを願っています。
この件については、1月のブログで記します。

前回は、高松塚古墳壁画に描かれた、八人ずつの男女は、その立ち位置に
より、「北斗八星・帝車」を表現していることを、記しました。

このことは、天武天皇が、伊勢神宮・大嘗祭に施した呪術の確かさの証明
になる、歴史的な大発見でもあります。

今回は、高松塚古墳被葬者は、天皇でもないのに、なぜ、完全天皇図を
描けたのか、について記します。


2.何故、被葬者は天皇でもないのに完全天皇図を描けたのか?・・・
    このことを不思議と思わなかったことが不思議


(1)素朴な疑問
大変、不思議です。
今までの高松塚・キトラ古墳研究者は、誰も、「天皇でもないのに、なぜ、
完全天皇図を描く事ができたのか?」について、疑問を呈していないのです。

私は、このことを疑問に思わなかったことが、不思議なのです。

古墳の中の一つの墓室空間の壁画に、①天文図(二十八宿図)、②四神図、
③日月図を描いた古墳は、中国にも、朝鮮半島にも存在しません。
(古代中国の古墳壁画において、四神図の青龍と白虎は、出行図の警護
としての意味を含んでおり、墓道に描かれている場合が多い。)

ましてや、墓室自体がほぼ北を向き、東西南北にきちっと位置している
四神図、東西に描かれている日月図、そして、北極星がお墓の中心に
描かれている天文図(二十八宿)・・・
これは、古墳壁画として、前例のない「完全天皇図」なのです。
キトラ古墳も同様です。
高松塚古墳の「完全天皇図」に対する、先学の説を紹介します。

(2)直木孝次郎氏の天皇図説
直木氏は、次のように述べています。
『直木孝次郎 古代を語る9』・吉川弘文館

< 北極星をふくむ二八宿の星座は宇宙を象徴する。これにさらに日、
月・四神をあわせて墓室の装飾とすることは、常人には許されることとは
思われない。本来、皇帝、日本でなら天皇にふさわしい図様である。>

直木氏は、「本来、皇帝、日本でなら天皇にふさわしい図様である」と
述べています。
なのに、直木氏は、理由もなく、被葬者は忍壁皇子(おさかべのみこ)
とし、皇子の中から選んでいるのです。
その後、穂積皇子(ほづみのみこ)も候補者に加えています。

(3)有坂隆道氏の天皇図説
有坂氏は、次のように述べています。(『古代史を解く鍵』・講談社)

< 高松塚の星は、天帝が全天を支配しているシンボルマークであり、
それはまた、地上における皇帝=天皇が全国土を支配しているという
シンボルマークになる、といわねばなりません。
天皇のことを「治天下(あめのしたしろしめす)天皇」と申しますが、
まさにこれは「治天下」を象徴するシンボルマークと言えましょう。>

と、いいながら、有坂氏は、理由もなく、被葬者を皇子(みこ)(被葬者
推定・蚊屋皇子・かやのみこ)としています。

ちょっと、待って欲しい。
何故、ここまで言いながら、つまり、天皇を象徴する図といいながら、
理由もなく、被葬者を天皇でもない皇子(みこ)に当てはめるの?

つまり、有坂氏は、被葬者は天皇ではないのに、なぜ天皇図を描けたのか
・・・その理由を、直木氏同様、述べていないのです。

それでは話が違うのではないの? と茶々(ちゃちゃ)を入れたくなります。
しかし、多分、いままで誰もこの件で茶々を入れた者は、いないのです。

次図は、高松塚古墳の完全天皇図です。
(天文図には北斗八星が描かれていなかったのですが、そのかわり、八人
ずつの男女が、北斗八星として描かれています。
高松塚古墳の真実はここにあります。)

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3.これまでの全ての高松塚被葬者説は、「謀(む)大逆罪」であることを、
    スルーしている・・・その不思議


「天文図(星宿図+日月図)+四神図のセット図」は、ズバリ天皇の表現
です。完全天皇図です。

尊貴な皇子だからといって、はたして、完全天皇図を理由もなく描く事が
出来るのでしょうか?

◎理由もなく古墳壁画に完全天皇図を描いたら、被葬者は天皇として
葬られたことになります。

これって、八虐(はちぎゃく)の罪のうち、謀大逆(むだいぎゃく)罪か、
大不敬(だいふきょう)罪ではないの?という疑問が湧いてきます。

※謀大逆(むだいぎゃく)-皇居や陵墓の損壊
※大不敬(だいふきょう)- 神社や天皇に対する不敬にあたる罪

私は、高松塚古墳壁画とキトラ古墳壁画において、この「謀(む)大逆罪」
の問題は、あまりにも単純な疑問でありながら、なぜ、誰も問題にしな
かったのだろうか、という不思議さに驚いています。

つまり、これまでの全ての被葬者説は、謀(む)大逆罪である事をスルー
している、とも言えるのです。

何故ならば、「完全天皇図を描く事が出来た理由を述べていない」からです。

このようなとんでもない「謀(む)大逆罪」を表現している壁画(完全天皇図)
が、高松塚古墳とキトラ古墳の二箇所に存在するなんて、有り得ないでは
ないか?と思わざるを得ません。

この件について、疑問と同時に不安なのは、高松塚とキトラ古墳の関係書物
を読むと、どうやら私一人だけがそう思っているようなのです。


4.被葬者は、天皇として葬られていないという証明が必要


実は、私も、「被葬者は天皇でもないのに、何故、天皇図を描けたのか?」
を最初に考えることが順序・スジである、ということには、気がついて
いませんでした。
高松塚古墳の真実を発見した後、整理して、初めてこの重大な順序・スジ
というものに、気づいたのです。

◎被葬者が天皇でもないのに、完全天皇図を描ける条件・・・
それは天皇崇敬護持

天皇でない被葬者が古墳壁画に完全天皇図を描ける条件は一つあります。

< 被葬者が、死後においても、壁画(古墳)に描いた天皇図・「天文図
(星宿図+日月図)+四神図のセット図」を、天皇(北極星)として、
永遠に崇敬守護していこうという、気概を示した場合です。>

被葬者が、死後も永遠に天皇を崇敬守護していこうとするために完全天皇図
を利用した、となれば、天皇を神(天井に描かれた北極星)として言祝
(ことほ)ぐことであり、不敬のための完全天皇図利用、ということには
なりません。


5.完全天皇図を描いても天皇として葬られているのではない、という
    具体的な証明が必要・・・
    それが北斗八星・帝車図(八人ずつの男女)


完全天皇図を描いているならば、被葬者は天皇として葬られていないことを、
具体的に表現していなければなりません。

その具体的な表現とは、天文図からわざわざ「北斗八星」を除き、
そのかわりに、八人ずつの男女を「北斗八星」として描いたことです。

それは、北斗八星の意味を分からせる方法であった、とも思われます。
この意味は、次の通りです。
「八人ずつの男女=北斗八星=被葬者自身=高松塚古墳=帝車」

天皇(北極星)を永遠に崇敬守護していく具体的な方法とは・・・
「被葬者が、北斗八星・帝車となり、北極星である天皇を、一日一周しながら、
永遠に、輔弼(ほひつ)・崇敬護持、していくという方法」・・・
なのです。

そして、時として、被葬者は、つまり北斗八星・帝車は、天皇をお乗せして、
宇宙へと出行するのです。

前回も述べましたが、高松塚古墳発掘者であった、網干(あぼし)善教氏は、
なぜ、八人ずつの男女が描かれているのか、ずっと考え続けてきたが、
分からなかったと、正直に述べています。

◎網干氏の疑問に対する答えは、次のようにも言えるのです。

< 八人ずつの男女が描かれていた理由は(勿論、永遠に天皇を崇敬護持
していくということですが)、北斗八星・帝車(被葬者自身)を意味して
いて、天皇として葬られていない、という具体的な証明のためであった。
つまり、「被葬者は、謀(む)大逆罪ではない」という証明のためであった
のです。>

壁画を描いた、官僚である画工司(えだくみのつかさ)は勿論のこと、
葬儀に参列した人々は、このことを知っていたのです。

キトラ古墳壁画も、まったく同様なのです。
キトラ古墳被葬者は、十二支獣頭人身像となり、北極星である天皇を、
一日一周しながら、永遠に崇敬護持していこうとしたのです。

つまり、キトラ古墳被葬者は、壁画に完全天皇図を描いていても「謀(む)
大逆罪ではない」という証明のため、十二支獣頭人身像(天皇崇敬護持)を
描いているのです。


6.「謀(む)大逆罪」をスルーしていては、高松塚とキトラ古墳の
    壁画制作の動機も分からないのが当然


何度も述べて恐縮ですが、これまでの高松塚古墳(キトラ古墳も同様)の
被葬者説は、理由もなく、完全天皇図を描くことが出来る、とした説です。
私は、それは、天皇として葬られたことになり、「謀(む)大逆罪」に相当
すると指摘しています。

高松塚古墳・被葬者論(キトラ古墳も同様)ですが、被葬者は天皇でもない
のに完全天皇図をなぜ描けたのか、その理由を述べない限り、「謀(む)大逆罪」
に相当する葬られ方をしたままの論述となります。

よって、この疑問に答えていないこれまでの被葬者論では、壁画制作の
動機と本義を述べることが出来なかったのです。

高松塚古墳(キトラ古墳も同様)の真実の発見は、被葬者は天皇でもない
のに、なぜ、完全天皇図を描く事が出来たのか・・・
その答えの中にあったのです。

◎柿本人麻呂の天皇に対する言祝(ことほ)ぎ
宮廷歌人、柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)は、「大君(おおきみ)は
 神にし 坐(ま)せば」と、和歌によって、天皇を神として言祝(ことほ)
 いでいます。
これと同じように、高松塚とキトラ古墳の被葬者は、壁画(古墳)において、
天皇を神(天井に描かれた北極星)として言祝(ことほ)いだのです。

つまり、高松塚古墳被葬者・石上麻呂(いそのかみのまろ)とキトラ古墳の
被葬者・阿倍御主人(あべのみうし)は、古墳壁画によって、「大君
(おおきみ)は 神にし坐(ま)せば」と、言祝(ことほ)いだのです。

高松塚古墳とキトラ古墳は、「天皇言祝ぎ古墳」、とも言えるのです。

だからこそ、両古墳の被葬者、石上麻呂と阿倍御主人は、天皇でもないのに、
堂々と、誇りを持って、完全天皇図を描くことが出来たのです。


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畑アカラ氏 プロフィール

昭和22年生まれ。静岡県出身。藤枝東高校卒。
明治大学政経学部卒業(蒲生ゼミ・村落社会調査)。
広告制作会社(株・漫画社)に勤務後、フリー。イラスト・ライター。
日本児童出版美術家連盟会員。
「8の世界」と「ハートの世界」の、オンリーワンの探究者。
「一般社団法人8月8日はハートの日協会」理事長。
「8月8日はハートの日」を全世界に広めるため活動中。
世界を一つに繋げることの出来るツール・・
それが「8月8日はハートの日」。
著作・歴史書:『古代天皇家「八」の暗号』(徳間書店)。
『古代天皇家の謎は「北斗八星」で解ける』(徳間書店) 
著作・エッセイ(画・文):『猫ノーテンキ』(草思社)、
『猫っ可愛がりのことわざ草紙』(毎日新聞)、
『きょうも猫日和』(徳間書店)。 
月間絵本・作絵:『ハーリーちゃんとハーティちゃん』
『にじをつくろう』(チャイルド本社)。
かみしばい:『からすのかーすけ』(教育画劇)。等々。
趣味はテニス。素人作曲(楽器は演奏できません)。サッカー観戦。

【最新著書ご紹介】

【大嘗祭・天皇号・伊勢神宮】 この国永遠の疑問を解く

[新装版]古代天皇家「八」の暗号

第4回「歴史が変わる-高松塚の[北斗八星帝車・陪塚・出行図]発見」     

第4回 「歴史が変わる-高松塚の
          [北斗八星帝車・陪塚・出行図]発見」

※このブログの最後に、北斗八星を描いた出行図を載せていますので、
時々、ご参照のほどを。

1.既説・高松塚壁画制作の動機・本義論は
    「人物立ち位置・北斗八星図」発見で、全てがボツとなる

2.さらなる出行図の意味-驚愕の呪術-昼夜兼用の出行図
3.高松塚古墳壁画は、歴史を変える、日本独自の大ロマン
    「陪塚・壁画絵」であった

4.高松塚古墳壁画の出行図・提示-これでも、北斗八星・帝車の
    存在を否定できるのか

前回は、高松塚古墳壁画に描かれた「八人ずつの男女の立ち位置」
を線で繋ぐと、北斗八星が出現することを記しました。
今回は、「人物立ち位置・北斗八星図」には、どのような意味が含
まれているのか、さらに追求します。
高松塚古墳壁画は、世界に誇るべき、高度な、驚愕すべき、
「呪術・壁画絵」だということが分かります。


1.既説・高松塚壁画制作の動機・本義論は
    「人物立ち位置・北斗八星図」発見で、全てがボツとなる


(1)衝撃の「人物立ち位置・北斗八星・帝車」図の発見
高松塚古墳壁画に描かれていた、「人物の立ち位置」を線で繋ぐと、
何と、東壁と西壁に、北斗八星が明確に、出現しました。

私は、その形からして、自信を持って「北斗八星」である、と断言
できます。
しかも、東壁と西壁が、ほぼ、同じように「北斗八星」として、
描かれているのですから、確実性は限りなく高い。

北斗八星は、天帝(天皇)が乗る帝車を意味します。
有坂隆道氏は、高松塚古墳の星宿図(天体図)において、北斗星が
描かれていないことについて、次のように述べています。
< また、このような天の政治的解釈においては、北斗星は、天帝が
用いる乗用車に過ぎないから、あえて描くまでもなかった、と解釈
すべきであろうと考えます。 >  『古代史を解く鍵』(講談社)

有坂氏が述べている、天帝(天皇)が用いる自家用車に過ぎない
北斗星が、即ち、「北斗八星・帝車」が、八人ずつの男女によって、
描かれているのです。

中国の古墳壁画に描かれている出行図(しゅっこうず)には、墓主が
車に乗って出行する姿が描かれています。
※出行図とは、墓主が墓の中から息抜きに外に出ていく様子を
描いたもの。

秋山日出雄氏の論文、来村多加史氏の本、関西大学博物館HPに
おいては、八人ずつの男女は、出行図を表現しているだろうと、
記しています。

よって、出行図ならば、当然、車が描かれていてもおかしくは
ありません。

このように、高松塚古墳壁画が出行図とするならば、北斗八星・
帝車が描かれている可能性が高い、という条件も加わるのです。

考古学者・歴史学者、そして高松塚古墳に関係する研究者は、
「高松塚古墳壁画に描かれている八人ずつの男女は、北斗八星・
帝車を表現している」、と認めざるをえません。

このことは、これまでの高松塚古墳本質論がひっくり返ってしまう、
ということを意味します。
この「人物立ち位置・北斗八星図」たった一つの発見で、これまで
発表された多くの高松塚古墳壁画制作の動機・本義論は、全て否定
されてしまうのです。

なにしろ、天帝(天皇)が乗る車、「北斗八星・帝車」の出現なのです。
当然、問題になります。この北斗八星・帝車に乗る天皇とは?
被葬者は天皇でもないのに、帝車に乗れるはずがない。
まさに、大問題です。

今後、私の発見した、「人物立ち位置・北斗八星」図を引用しないで、
高松塚古墳壁画制作の動機・本義の探求はあり得ないことになります。
それほど衝撃を与える発見です。

何故ならば、壁画制作の動機・本義が「北斗八星・帝車の持つ意味
そのもの」、だからです。

高松塚古墳の被葬者は、壁画において何を語ろうとしていたのか?
被葬者の壁画制作の動機は?本義は?
「人物立ち位置・北斗八星図」の意味深さを、さらに追求します。

(2)関西大学は、「高松塚古墳壁画の八人ずつの男女は、出行図を表現」
   と推察しているのに、何故、「人物像は、北斗八星・帝車を表現している」
   と分からなかったのか?

関西大学博物館のHPを見ると高松塚古墳壁画は
「出行図(しゅっこうず)」であろうと記してあります。
よって、関西大学は、東壁と西壁の人物は、南に向かって出行する
出行図と認識していることになります。
私は、前回「八人ずつの男女は、その立ち位置を線で結ぶと、北斗
八星が出現」することを発見した、と記しました。
よって、このことから、道教哲理である、北斗八星は帝車(天皇の
乗る車)を表現している、ということを述べました。
関西大学の、「高松塚古墳壁画は出行図を表現している」という説は、
私にとって、大変、力強い応援なのです。

また、前回のブログで、中国古代の秦の始皇帝以来、出行図に描かれた
貴人の乗る車には、蓋(きぬがさ)を掲げる事例があることを記し、
高松塚に描かれた蓋は、「人物立ち位置・北斗八星帝車」に対して
掲げられた可能性がある、ということを証明しました。

(3)高松塚古墳壁画出行図にも、貴人の乗り物を描くという、
   中国哲理が表現されている

中国の古墳壁画においては、墓主は、馬車に乗って、出行するのが
普通です。
よって、貴人が乗る、出行のための移動手段・車が描かれているのです。

高松塚古墳も、この点は、中国古墳壁画と同様でした。
しかし、高松塚古墳の場合は、誰にでも分かるような形では、
描かれていませんでした。
大変、特殊な方法でした。

人物立ち位置によって、「北斗八星・帝車」という形で、表現して
いたのです。
それは、まるで、暗号のような表現方法でした。

残念なことに、関西大学の場合、「八人ずつの男女は出行を表現して
いる」、と論じているのに、ここから先へ進めませんでした。

関西大学が「人物立ち位置・北斗八星図」を発見出来なかったのも
仕方ないことです。

それは、被葬者が主として出行するのではなく、被葬者自らが北斗
八星となって、天井に描かれた天皇(北極星)をお乗せして出行する
のですから、想像外のことであり、あまりにも特殊過ぎたからです。

(4)高松塚古墳壁画の「出行図」の印象
来村多加史(きたむらたかし)氏は、
『高松塚とキトラ』(講談社・2008.1.30)のなかで、人物画は、
外出を意味する、「出行図(しゅっこうず)」であると記して
います。
また、中国壁画に描かれている、儀仗隊(ぎじょうたい)に先導
されるなどして威儀(いぎ)を正して出かける「出行図」とは違い、
従属的な雰囲気が薄れ、被葬者を野外へと誘う親しい仲間のような
印象を受ける、と述べています。

高松塚古墳発掘者の一人でもあった、秋山日出雄氏も、八人ずつの
男女について、「何(いず)れにしても律令時代の朝賀あるいは
出行図の行進を図示したと考えて大過はない」と述べています。
来村氏が言うように< ピクニック気分の万葉人 >と解釈可能です。
男子像の中に、首から前にかけているカバンが描かれています。
私は、さすがに言い過ぎと思いますが、このカバンのなかの一つ
には、酒器などが入っているような気がしてなりません。
時々、帝車(北斗八星)から降りて、花見、紅葉狩り、雪見、
等々の宴などを楽しんでいただく、という趣向をこらしている
のではなかろうか。
物見遊山(ものみゆさん)、遊楽気分を満喫できるような、
粋(いき)な計らいを表現している壁画である、と感じるのです。

しかし、来村氏も、北斗八星図を見つけることが出来なかった。
被葬者が北斗八星・帝車となって、天井に描かれた北極星(天皇)
をお乗せして出行するとは、考えもつかなかったのです。

(5)出行図・否定説
しかし、高松塚古墳壁画は出行図ではない、と否定する説もあります。
山本忠尚(ただなお)氏は、出行図説に対して否定的です。
次のように述べています。

< たしかに南(すなわち入り口)へむいた人物が多い。しかし、
顔のむきは定まっていないし、男性は足をそろえて止まっている。
むしろおたがいに談笑しているようにみえる。男性が持つ細長い
袋の中身が大刀であるとすれば、出向するのに袋のままのはずが
ないだろう。
また、唐墓壁画において男女がまじりあうことは初期にはなく、
墓室内に男性はいない。逆に女性が出行する場面は皆無である。
・・・・中略・・・・
唐ではあり得ないことである。女性は出行しないのだ。>
   『高松塚・キトラ古墳の謎』山本忠尚・吉川弘文館

確かに高松塚の出行図は、山本忠尚氏が記しているように、中国壁画に
見られる出行図とは違っています。
高松塚古墳は、墓道空間のない横口式石槨(せっかく)様式です。
描き方が違ってくるのは、当然です。

しかし、なによりも、この出行図は、中国の呪術原理を活用した、
中国でもあり得ないほどグレードの高い、日本独自の< 高松塚古墳・
被葬者・石上麻呂が、北斗八星・帝車となって、天皇をお乗せして、
出行するという、天皇(文武)乗車出行図 >なのです。

このことを理解すれは、出行図は、日本独自のものとして、全ての
疑問が氷解します。
この出行図を中国人に説明したら、驚愕(きょうがく)し、そして
魂消(たまげ)てしまうことでしょう。


2.さらなる出行図の意味-驚愕の呪術-昼夜兼用の出行図


東壁と西壁の壁画をさらに、検討しましょう。

東壁には、日像と青龍が描かれていて、西壁には月象と白虎が
描かれています。

この日像と月象は、何を意味しているのか、ちょっと考えて
いましたら、次のような考えが浮かんできました。

東壁は、日像と青龍が描かれています。
ならば、昼間用の帝車であり、「青龍に守護された昼間の出行図」
と言う意味に取れます。

同様に、西壁は、月象と白虎が描かれていることから、夜用の帝車
であり、「白虎に守護された夜用の出行図」を描いている、という
ことになります。

いずれにしても、この東壁と西壁に描かれた、「人物立ち位置・
北斗八星帝車」は、昼夜かまわず一日中、活動出来るという意味を
持っているのです。

多分、出行する姿は、東壁と西壁の両方が合体した、立体的な
ダブルの四輪帝車ということになり、昼も夜も、一日中運行が
出来る優れものの帝車、ということになります。

このような、意味深い帝車は、世界中探しても、ないでしょう。


3.高松塚古墳壁画は、歴史を変える、日本独自の大ロマン
   「陪塚・壁画絵」であった


以前にも記しましたが、秋山日出雄氏は、高松塚古墳は、この古墳の
北200mに位置する中尾山古墳の陪塚(ばいちょう)であると、論じて
います。
わたしも、諸手を挙げて、この説に賛成いたします。

中尾山古墳は、八角形であることから天皇陵であることが分かり、
被葬者は、文武天皇であると、推定されています。

高松塚古墳に描かれている壁画は、文武天皇の墓・中尾山古墳の
陪塚であるからには、それなりの壁画の内容であることが、想像
されます。

つまり、高松塚古墳壁画には、「陪塚(ばいちょう)・壁画絵」が
描かれていて、当然なのです。

中尾山古墳(文武天皇)は、「北極星古墳」であり、陪塚・高松塚
古墳(石上麻呂)は「北斗八星古墳」、なのです。

高松塚古墳壁画には、次のような陪塚を表現した内容が描かれて
いたのです。

◎高松塚古墳壁画の陪塚(ばいちょう)的表現-その一覧
①高松塚古墳壁画には、天文図が描かれているが、北斗八星を天文図に
 描かないことで、高松塚古墳全体を北斗八星としました。
 つまり、「高松塚古墳=北斗八星」。

②「高松塚古墳=北斗八星」である証拠として、東壁と西壁それぞれに、
 四人の男と四人の女を描き、男女の立ち位置を、北斗八星になるよう
 に配置しました。
 「高松塚古墳=北斗八星=八人ずつの男女」

③この人物北斗八星に一位の位を示す、深緑色の蓋(きぬがさ)を掲げ、
 この北斗八星は、被葬者自分自身(石上麻呂・いそのかみのまろ)で
 あることを示しました。
 「高松塚古墳=北斗八星=八人ずつの男女=石上麻呂」

④中国天文哲理により、北斗八星(石上麻呂)は、北極星である天帝
 (天皇・文武)をお乗せする帝車を意味します。
 「高松塚古墳=北斗八星=八人ずつの男女=石上麻呂=帝車」

⑤高松塚古墳は、中尾山古墳(文武天皇)の陪塚(ばいちょう)である
 事から、陪塚・高松塚古墳と言えます。
 「高松塚古墳=北斗八星=八人ずつの男女=石上麻呂=帝車=陪塚・
 高松塚古墳」

⑥天皇は北極星であるから、中尾山古墳は、「北極星古墳」と言えます。
 また、その陪塚である高松塚古墳は、「陪塚・北斗八星古墳」と
 言えます。
 「高松塚古墳=北斗八星=八人ずつの男女=石上麻呂=帝車=陪塚・
 高松塚北斗八星古墳」

つまり、高松塚古墳の被葬者石上麻呂(いそのかみのまろ)は、
北斗八星(八人ずつの男女)となり、お仕えした、北極星(天井の
北極星と中尾山古墳)である文武天皇を、死後も、永遠に、崇敬護持
しようとしたのです。

北斗八星(八人ずつの男女)となった石上麻呂は、北極星の文武天皇を、
永遠に、一日一周しながら、崇敬守護しているのです。
そして、時として、北斗八星帝車である石上麻呂は、文武天皇を
お乗せして、息抜き遊覧のため、飛鳥、八州、宇宙に向け、出行
するのです。

後日、キトラ古墳のことも述べますが、壁画制作動機と本義は、
キトラ古墳も高松塚古墳とまったく同じです。
次の通りです。

キトラ古墳被葬者・臣下である阿倍御主人(あべのみうし)は、
死後も、十二支獣頭人身像となり、北極星である天皇を、永遠に
崇敬守護していこうとしたのです。

なぜ、高松塚古墳壁画とキトラ古墳壁画は、描かれたのか?
その意味と本義は?このことについて、明確に論じた人は誰もいません。

◎網干(あぼし)善教氏が、生涯にわたって分からないと嘆いた、
   重大なことの一覧

高松塚古墳発掘者・網干善教氏は、高松塚古墳についての第一の
探究者でした。
その探究心に対して、敬服と尊敬の念でいっぱいです。
そして、素晴らしいことに、分からないことは、分からないと、
素直に述べていることです。
その事を、一覧します。
①なぜ、北斗星が天文図に描かれていなかったのか?
②なぜ、八人ずつの男女が描かれていたのか?
③なぜ、高松塚古墳に人物像が描かれていて、キトラ古墳には
 十二支獣頭人身像が描かれているのか?
④なぜ、天皇でもないのに、完全天皇図を描けたのか?

「① ② ③」については、網干氏は分からないと、晩年、正直に
記しています。
ずっと考えてきたが分からなかった、と嘆いています。
「① ②」は、最初の頃は、無視してもかまわないという、意見でした。

④の「なぜ、天皇でもないのに、完全天皇図を描けたのか?」に
ついては、なぜか、疑問にも思わなかったようです。もっとも、
誰一人として、疑問に思ったひとはいないようです。
天皇図が描かれていると言いながら、天皇でもない人物を、
理由もなく」被葬者に推定しているのです。
(この件は、次回記します)

◎何故、私は、高松塚古墳の謎を解くことが出来たのか?
高松塚古墳壁画のキーワードは、北斗八星という、八の世界でした。
それは、天武天皇が、伊勢神宮と大嘗祭に施した呪術です。

高松塚古墳壁画が何を語っているのか、その声は、天武天皇の
八の呪術の声でした。
私は、天武天皇の世界最強の呪術を知っているからこそ、高松塚
古墳壁画の発している声を聞くことが出来たのです。

その天武天皇の世界最強の呪術とは、次の通り。
「北極星(太陽・太極)北斗八星(八州・八卦)」
この呪術の中の、「北極星・北斗八星」の呪術を、高松塚古墳は
選んだのです。

天武天皇が、伊勢神宮と大嘗祭に施した、世界最強の呪術である
基本形を知らない限り、高松塚古墳の謎は解けないのです。
何故ならば、高松塚古墳の被葬者は、天武天皇の呪術を使って、
壁画を描かせたのですから。

同様に、日光東照宮も、天武天皇の呪術を採用したので、この呪術
を知らない限り、日光東照宮の本義は、語れないのです。


4.高松塚古墳壁画の出行図・提示-これでも、北斗八星・帝車の
   存在を否定できるのか


これまで述べてきたことを、2枚の図に表示します。
高松塚古墳関係者は、この図を見てもなお、
「人物立ち位置・北斗八星」を、認めないのであろうか。

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次回は、高松塚古墳被葬者(石上麻呂・いそのかみのまろ)は、
天皇でもないのに、なぜ、完全天皇図を描く事が出来たのか?
キトラ古墳被葬者(阿倍御主人・あべのみうし)も同様です。
天皇でもないのに、なぜ、完全天皇図を描けたのか?
この疑問は、誰も持たなかったのです。不思議です。
高松塚古墳の壁画を解読して分かったことですが、最初に問題
提起すべき、大問題だったのです。


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畑アカラ氏 プロフィール

昭和22年生まれ。静岡県出身。藤枝東高校卒。
明治大学政経学部卒業(蒲生ゼミ・村落社会調査)。
広告制作会社(株・漫画社)に勤務後、フリー。イラスト・ライター。
日本児童出版美術家連盟会員。
「8の世界」と「ハートの世界」の、オンリーワンの探究者。
「一般社団法人8月8日はハートの日協会」理事長。
「8月8日はハートの日」を全世界に広めるため活動中。
世界を一つに繋げることの出来るツール・・
それが「8月8日はハートの日」。
著作・歴史書:『古代天皇家「八」の暗号』(徳間書店)。
『古代天皇家の謎は「北斗八星」で解ける』(徳間書店) 
著作・エッセイ(画・文):『猫ノーテンキ』(草思社)、
『猫っ可愛がりのことわざ草紙』(毎日新聞)、
『きょうも猫日和』(徳間書店)。 
月間絵本・作絵:『ハーリーちゃんとハーティちゃん』
『にじをつくろう』(チャイルド本社)。
かみしばい:『からすのかーすけ』(教育画劇)。等々。
趣味はテニス。素人作曲(楽器は演奏できません)。サッカー観戦。

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第3回「高松塚の人物像の立ち位置は、北斗八星(帝車)を表現」     

第3回 「高松塚の人物像の立ち位置は、
                北斗八星(帝車)を表現」

1.高松塚古墳の八人ずつの男女の立ち位置は、北斗八星帝車を
    象(かたど)っていた-その真実の大発見

2.蓋(きぬがさ)を掲げるのは、八人ずつの男女が帝車を表現
    していることの証拠

前回は、高松塚古墳壁画の天文図に北斗星(八星)が描かれていない
のは、古墳全体を北斗八星としていたからであることを記しました。
そして、「高松塚古墳=被葬者=北斗八星=八人ずつの男女(陰陽)
=帝車」である事を述べました。

北斗八星と八人ずつの男女は、八が共通していることから、
「北斗八星=八人ずつの男女(陰陽)」と推測してきました。

ところが、この推測・「北斗八星=八人ずつの男女(陰陽)」を、
ほぼ、断定できる発見があったのです。
この発見の喜びを記します。


1.高松塚古墳の八人ずつの男女の立ち位置は、北斗八星帝車を
    象(かたど)っていた-その真実の大発見


私は、本に掲載されている、高松塚古墳壁画に描かれていた、男女
八人ずつの絵を眺めていました。
男性群と女性群は、神獣(青龍と白虎)を挟んで離れています。
東壁の南に男四人、東壁の北に女四人、そして西壁の南に男四人、
そして西壁の北に女四人、描かれています。
人の向きは、ほぼ、南に向かっている様子で描かれています。
この図を、しげしげ眺めていましたら、突然、閃きが!!
男女の立ち位置を線で結んだら、北斗八星になるのでは?
離れている男子四人の群と女子四人の群を、近付けてみました。

(1)東壁の八人
まずは、下図のように、東壁の蓋(きぬがさ)を持っているほうの
男女を、線で結んでみました。
すると、何と、北斗八星が目の前に出現したではありませんか!!
偶然か?牽強付会か?
この「人物・北斗八星図」と、実際の北斗八星図を並べましたから、
比べてみてください。
⑧の女子像が、輔星の位置にいることが分かります。

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(2)西壁の八人
そして、西壁の方も線で繋いでみましょう。
下図を見てください。
やはり、「人物・北斗八星図」が形作られました。
⑧の女子像も離れた位置にあり、輔星を表現しています。

東壁と西壁で、同じような北斗八星の形が出来ましたから、北斗八星の
可能性は限りなく高いと思わざるを得ません。

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(3)何故、今まで気づかれなかったのか?
発見したからこそ言えることですが、何故、このような単純な事実に、
いままで誰も気づかなかったのでしょうか?
それは、八の神様が、八の暗号だったために、八の探究家の私のために
取っておいてくれたとしか、思わざるを得ません。

故・吉野裕子氏は、高松塚古墳壁画図の天文図に北斗星が描かれて
いないのは、古墳そのものを北斗星に見立てたからだと、喝破(かっぱ)
しました。まさに卓見です。

ならば、吉野裕子氏が、当然、「人物立ち位置・北斗八星」を
見つけるべきだったのです。
しかし、吉野氏は、北斗星はあくまでも北斗七星としてのこだわりが
あったようです。
ここが、不思議です。
吉野氏の本を何冊か読むと、どうしても北斗七星のこだわりが出ていて、
どうやら、数字の八には、さほど興味を持っておられなかったようです。
いえいえ、この件も、私のために吉野氏が残しておいてくれたのだと、
勝手に解釈しています。

(4)「八人(男四人+女四人)=北斗八星」の意味
男性群はきちんと並んでいながら、女性群は、ばらけている・・・
この理由が分からないと、記していた本もありましたが、これでその
理由も分かったことになります。
女性は男性に比べて、だらしないなぁ、との感想を持った方も
おられるようですが、これも解消です。

八人ずつの男女は、北斗八星を表現している、ということがこれで
証明されたことになります!! ならば、大発見と言えるのです!!
二つの北斗八星が出現したことは、陰陽の北斗八星、と解釈できます。
すなわち、「八人ずつの男女=陰陽・北斗八星」です。

被葬者の石上麻呂(いそのかみのまろ)は、北斗八星となり、お仕え
した文武(もんむ)天皇(北極星)を永遠に輔弼(ほひつ)
したかったのですから、八人ずつの男女は、石上麻呂自身(北斗八星)
を意味することになります。

その石上麻呂は、贈・従(じゅ)一位の位でしたので、誇りを持って
その位を証明する蓋(きぬがさ)を、北斗八星に掲げていたと推測
できます。
つまり、この北斗八星は、贈・従一位の位を表現しており、被葬者は
石上麻呂である、ということを意味しているのです。

ならば、天井の天文図に描かれた天皇(北極星・文武天皇)は、この
八人ずつの男女が描いている「北斗八星・帝車=石上麻呂」に乗って、
宇宙を駆け巡る、ということになります。

漢代の北斗八星帝車図(下図)がありますが、以上の内容をここに
記入してみましょう。

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(5)高松塚古墳発掘者・網干(あぼし)善教氏の八人ずつの男女に対する見解
高松塚古墳について、最も精力的に探求した学者は、故・網干善教氏
だと思います。
高松塚古墳発掘者の網干善教氏は、何故八人ずつの男女が描かれて
いるのかは、将来においても分からないだろうと、述べていました。
初期の頃(昭和57年10月12日)の論文では、八人ずつの男女は、
問題視しなくても全くかまわない、という立場でした。
次のように述べています。
< 人物は高松塚古墳では十六人であったけれど、それは五人でも八人
でも、あるいはもっと多数であってもよい筈である。
よりもむしろ墓室のなかに星宿・日月・四神が描かれていることの方が
より壁画構成の主題とすべきであるとの主張である。 >

しかし、晩年の頃の網干善教氏は、八人ずつの男女が描かれているのは、
何らかの意味があるだろうと思っていたようです。
残念ながら、結局、網干氏は、何故、八人ずつの男女が描かれていたか
の問題(本義)を解くことが出来なかったのです。

(6)高松塚古墳の八の暗号は、伊勢神宮、大嘗祭、日光東照宮と共通
ブログの1回目に、高松塚古墳壁画は、八の呪術暗号であり、八の
周波数で語っているから、八の周波数で聞き取る必要があると
述べました。

八の呪術暗号とは、「八の周波数=北斗八星・帝車=八人ずつの男女
=石上麻呂」のことだったのです。
この八の呪術暗号は、何度も記していますが、天武天皇が伊勢神宮
(リニューアル)と大嘗祭に施した呪術です。
具体的には、北極星(天皇)とそれを守護する北斗八星の呪術です。
この呪術を、臣下最高位にあった石上麻呂(いそのかみのまろ)が
高松塚古墳壁画に採り入れたのです。
なお、日光東照宮をデザインした天海大僧正も、この呪術(伊勢神宮)
を真似て、日光東照宮を造ったのです。

よって、高松塚古墳、伊勢神宮、大嘗祭、日光東照宮の本義は、
天武天皇の八の呪術を知らずして、語れないのです。
(この件は、後日、詳しく述べます)


2.蓋(きぬがさ)を掲げるのは、八人ずつの男女が帝車を表現
    していることの証拠


(1)何故、蓋(きぬがさ)を掲げているのか?その真実
何故、下図のように蓋を掲げているのでしょうか?

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蓋は、普通に考えれば、貴人に差し掛けている図、となります。
しかし、高松塚古墳の場合の蓋は、「貴人に差し掛けている図ではなく」
、大変特殊な事例となります。
高松塚古墳壁画の真実を解く鍵となります。
誰も述べていない、この件について記します。

蓋(きぬがさ)の色については、既に1回目のブログで記しています。
蓋の色は、深緑です。深緑は一位の位を示していて、被葬者(石上麻呂)
の地位を表現しています。
贈・従(じゅ)一位の石上麻呂が存在しているのに、考古学者には、
このことを無視している学者もいて、皇子(みこ)も一位の位だ
として(普通に考えたら律令に記してあるように皇子は紫色なのに)
、無理矢理?皇子を被葬者に充てている、ということも記しました。
今回、新たに、蓋(きぬがさ)と車に付いての段上達雄(だんじょう
たつお)氏の論文を拝読することが出来ましたので、このことについて
述べます。

(2)蓋(きぬがさ)は、①貴人に差し掛ける場合と、②車に備える場合がある
段上達雄(だんじょうたつお)氏の論文
『きぬがさ1- 傘鉾と風流傘の源流-』
(別府大学大学院紀要13, 13-28。日付 Created2011-06-21 )
を拝読しました。
蓋(きぬがさ)全般の歴史を記したものですが、その中に、蓋と車の
事例が記してあります。
この論文には、高松塚古墳のことは出ていませんが、私としては、
大変参考になりました。
私は、少しでも、八人ずつの男女は、北斗八星・帝車を表現している、
ということを証明しようとして、努力してきました。
その証明の一つとして、車と蓋についての事例が役に立つと思います
ので、記します。(「八人ずつの男女=北斗八星」は、人物の立ち位置で、
決着が付いていると思いますが)

古代中国において、車(貴人の行列)には、蓋(きぬがさ)が付きもの
でした。
私は、今まで、「帝車=石上麻呂」ですから、石上麻呂(帝車)の
地位を表現するものとしての、蓋だと思っていました。
このことは、間違いではありません。真実です。

しかし、そもそも、古代から、高貴な人の行列に使用される車には、
蓋が付いていたことを知ったのです。
古代中国には、そうした伝統哲理があったのです。
ならば、蓋と帝車は、相性が良いと言うことになり、東壁と西壁に
描かれた八人は、帝車の証拠ともなります。

蓋と車の事例を段上達雄(だんじょうたつお)氏の論文を引用して
論じます。

蓋のルーツは、エジプトにあると言われ、それが、インド・中国に
渡ったとされています。
中国における蓋のルーツは、伝説上の黄帝に始まるとされています。

1)中国最古の蓋(きぬがさ)の資料は、湖南省長沙(こなんしょう・ちょうさ)の
    子弾庫(しだんこ)より出土した『楚帛画(そはくが)』

戦国時代(B.C.403~221)の楚のものと推定され、この帛画
(はくが)は「人物御龍図」と名付けられています。
「龍舟」の形になり、その龍舟に男性が乗り、男性の頭上には、蓋が
描かれています。
※帛画(はくが)は、古代中国などで製作された帛と呼ばれた絹布に
描かれた絵画。

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2)秦始皇帝陵・墳丘西側出土・銅車馬の蓋
1980年、秦始皇帝陵の墳丘西側の坑から、実物の二分の一の
大きさをもつ青銅製の銅車馬2両が出土しました。
この車馬(中国では馬車を車馬という)には、蓋がデザインされて
います。

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3)「山東嘉祥宋山・小祠堂の西壁画像石」の蓋(きぬがさ)
漢代の画像石には、漢代の貴族たちの生活や歴史故実、神話などが
彫られています。
その代表として、「山東嘉祥宋山・小祠堂の西壁画像石」について
記します。
※祠堂(しどう)とは、先祖を祭る御霊屋,祖廟

画面は上下4段に区切られ、横長の画面4枚によって構成されています。
最上段は「西王母の仙人世界図」です。
2段目は「周公輔成王図」。中央に少年の成王が台上に立つ。
成王に向かって跪いている右手の人物は周公旦。左手の人物が垂下式の
蓋(きぬがさ)を少年王の上にかざしています。

最下段は「祠主車馬出行図」です。馬車には柱(柄)が立てられ、
蓋(車蓋)が御者と祠主を覆っています。
同一の画像石に垂下式蓋、それに馬車に立てられた柄付きの蓋が
刻まれています。
これによって、「前漢期には2種の蓋があった」ことがわかります。

※出行図とは、墓主が墓の中から息抜きに外に出ていく様子、あるいは
祠堂に行き子孫と対面する車馬出行図を画いたもの。
古代中国の墓には多くの出行図が描かれています。

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以上、蓋(きぬがさ)と車の事例・3つをあげました。
貴人が乗る車は、蓋を掲げる例が多い、ということがお分かりいただけた
と思います。

ならば、高松塚古墳の東壁に描かれた八人の人物像は、蓋を掲げて
いますから、「八人の人物像=北斗八星・帝車」の説を後押しする
ことになります。

(3)高松塚古墳に描かれた蓋は、「帝車=四人ずつの男女・二組=被葬者」
    であることから、帝車そのものの位を示す標識

高松塚古墳壁画の蓋については、今まで、次のような議論がありました。
蓋(きぬがさ)は、隣の男性、つまり①被葬者に差し掛けている、
という説がありました。
しかし、この説は、その隣の男性は、ふくろを首から掛けていますから、
全ての侍者(じしゃ)と共通の群像と言うことになり、成立しません。

ならば、この蓋は、②横たわっている被葬者に差し掛けているので
しょうか?
それにしては、被葬者の足下にさしかけていることなり、この説も
しっくりきません。
また、垂直に掲げていますから、横たわっている被葬者に差し掛けて
いるとは、思われません。

私は、次のような見解です。
一位の位を示す蓋は、被葬者・石上麻呂(いそのかみのまろ)を表現
しています。
石上麻呂自身が、北斗八星(帝車=四人ずつの男女・二組)そのもの
になり、天井の天文図に描かれた天皇[北極星(文武・もんむ)]を
お乗せする帝車となって、宇宙を駆け巡る、という姿を描いている
のです。

北斗八星帝車は、石上麻呂(いそのかみのまろ)自身そのものである、
ということを、威儀を正して、誇りを持って、蓋(きぬがさ)で示して
いるのです。

つまり、東壁の男性が垂直に掲げている蓋は、「一位の位を示す
北斗八星・帝車=石上麻呂」であることの、メッセージなのです。

勿論のこと、臣下最高位の石上麻呂は、北斗八星となり、お仕えした
北極星である文武天皇を、死後も言祝(ことほ)ぎ、永遠にお守りして
いこうとしたのです。
当時の世相は、天武天皇が天皇号を正式に採用し、柿本人麻呂
(かきのもとのひとまろ)のように、天皇を神として言祝いでいた
世相でした。
高松塚古墳とキトラ古墳(後日、述べる)は、「天皇言祝(ことほ)
ぎ古墳」
であったのです。


◎次回は、高松塚古墳壁画に描かれている、八人ずつの北斗七星帝車は、
出行図である事、そしてこの出行図は、世界一美しい大ロマン物語を
表現していること、を述べます。
天皇(文武天皇・北極星)を北斗八星帝車(石上麻呂)にお乗せして
宇宙に出行しようとしている、天皇言祝(ことほ)ぎ・大ロマン物語図
に期待してください。


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畑アカラ氏 プロフィール

昭和22年生まれ。静岡県出身。藤枝東高校卒。
明治大学政経学部卒業(蒲生ゼミ・村落社会調査)。
広告制作会社(株・漫画社)に勤務後、フリー。イラスト・ライター。
日本児童出版美術家連盟会員。
「8の世界」と「ハートの世界」の、オンリーワンの探究者。
「一般社団法人8月8日はハートの日協会」理事長。
「8月8日はハートの日」を全世界に広めるため活動中。
世界を一つに繋げることの出来るツール・・
それが「8月8日はハートの日」。
著作・歴史書:『古代天皇家「八」の暗号』(徳間書店)。
『古代天皇家の謎は「北斗八星」で解ける』(徳間書店) 
著作・エッセイ(画・文):『猫ノーテンキ』(草思社)、
『猫っ可愛がりのことわざ草紙』(毎日新聞)、
『きょうも猫日和』(徳間書店)。 
月間絵本・作絵:『ハーリーちゃんとハーティちゃん』
『にじをつくろう』(チャイルド本社)。
かみしばい:『からすのかーすけ』(教育画劇)。等々。
趣味はテニス。素人作曲(楽器は演奏できません)。サッカー観戦。

【最新著書ご紹介】

【大嘗祭・天皇号・伊勢神宮】 この国永遠の疑問を解く

[新装版]古代天皇家「八」の暗号

第2回「高松塚概要と北斗八星が描かれていなかった真実」      

第2回 「高松塚概要と北斗八星が描かれていなかった真実」

1.高松塚古墳概要
2.北斗星(八星)が描かれていないことの真実
    ・・・高松塚古墳の本義・動機を表現している

1.高松塚古墳概要


高松塚古墳壁画の発見は、当時の人々を熱狂させ、大興奮を
巻き起こしました。そして、多くの学者、作家が意見を述べ、
被葬者についても言及しました。
◎発見日時・場所・当時の状況
昭和47年(1972年)3月26日、奈良県明日香村の高松塚古墳
を発掘調査していた奈良県橿原(かしはら)考古学研究所は、
男女の群像や四神が、石室の壁面に描かれていたと発表しました。
当時のマスコミは、< 日本考古学界の戦後最大の発見 >と、
大々的に報道したのです。

藤原宮の中心部分から真南に向かった方位に、天武・持統(じとう)
陵があります。
この軸は、いわゆる「聖なるライン」と呼ばれています。
このラインから西方には、天武天皇ゆかりの天皇、皇子、臣下たち
の墓が存在します。
この地域は、天武天皇の「陵園(りょうえん)」ともいわれています。

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◎築造年代と古墳の大きさ
7世紀末から8世紀初頭にかけて築造された終末期古墳で、
直径23m(下段)及び18m(上段)、高さ5mの二段式の円墳です。
石槨(せっかく)・・・長さ2.65m、幅1.03m、高さ1.13m。
凝灰岩の切石。漆喰(しっくい)が塗られ、その上に壁画を描く。
出土の乾漆棺(かんしつかん)片は、長さ1.94m。
「高松塚壁画館」にそのレプリカがありますが、誰もが、墓室内の
空間の狭さに、驚いてしまいます。
そして、狭い空間で壁画を描いた苦労が分かります。

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◎壁画
石壁の表面には約5ミリの真っ白な漆喰(しっくい)が塗られていて、
その壁面には、7色以上を使った豪華な絵が描かれています。
北面は玄武(げんぶ)、東面中央には青龍(せいりゅう)と太陽が、
西面中央には白虎(びゃっこ)と月が描かれています。
なお、築造当時、南壁には朱雀(すざく)が描かれていましたが、
鎌倉時代に盗掘され、そのときあけられた穴とともに、消滅した
とみられています。

◎八人ずつの男女
壁面には、男女八人ずつ、合計十六人の人物が描かれています。
西壁の女子群像は、さまざまな場所でカラー写真が紹介され、
「飛鳥(あすか)美人」のニックネームで親しまれています。
何故、八人ずつの男女が描かれていたのでしょうか?
高松塚古墳発掘者の網干(あぼし)善教氏は、永遠に分からない
であろうと、述べていました。
この謎を解いた者は、吉野裕子氏でした。吉野裕子氏が初めて、
その謎を解いたのです。まさに、卓見です。
私は、吉野氏のおかげで、完全なる謎解き解明が可能となったのです。
この八人ずつの男女群像は、「北斗八星」を表現していたのです。
吉野裕子氏は、基本的には、「北斗七星」として捉えていて、
残念ながら、完全なる解明には、至りませんでした。

◎天文図
天井(てんじょう)は、金箔(きんぱく)の星を朱線(しゅせん)
でつないだ星座で構成されています。天文図中央には、北極五星
と四輔四星(しほよんせい)からなる、紫微垣(しびえん)が
描かれています。
天文図の周りには、二十八宿(しゅく)が描かれています。
これらは古代中国の思想に基づくもので、中央の紫微垣(しびえん)
は、天帝(てんてい)の居所を意味しています。

◎この天文図には、歴史上、あり得ないことが存在
北斗星(八星)が描かれていないのです。天文図に北斗星が
描かれていない例は、過去、無いと断言できます。
この北斗星(八星)が描かれていない理由も、吉野裕子氏が
喝破しました。何と、素晴らしい閃きであることか!!
描かれていないのは、墓そのものが、北斗星であると解明したのです。
ただ、吉野氏は、「高松塚古墳=北斗星」としながら、被葬者は、
草壁(くさかべ)皇太子(天皇号追贈)であるとして、北斗星
そのものとしなかったのです。(詳しくは、後述)

壁画は、「天文図、日月図、四神図」、をセットとして描いて
います。つまり、「完全天皇図・完全天帝図」なのです。
墓室一箇所に、完全天皇図が描かれている壁画の事例は、
中国にも、朝鮮半島にも、存在しません。
日本独自に表現した最高グレードの古墳壁画、ともいえるのです。
ここは、大いに強調すべきことなのです。

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◎出土品
棺(ひつぎ)は、漆塗(うるしぬり)木棺(もっかん)。
出土品は、棺に使われていた金具類、銅釘、副葬品の大刀(たち)
金具、海獣葡萄鏡(かいじゅうぶどうきょう)、玉類、骨、など
があります。

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◎解体修理
発掘調査以降、壁画は現状のまま現地保存することに決定。
文化庁が石室内の温度や湿度の調整、防カビ処理などの保存管理、
定期点検を行ってきました。
しかし、壁画の退色・変色が、明らかにされました。
その結果、墳丘(ふんきゅう)の発掘調査と石室の解体修理は、
2006年10月に開始されました。
2020年3月26日、文化庁は、奈良県明日香村で行っていた高松塚
古墳壁画の修復作業が終わったと発表しました。
国は今後、古墳近くに保存展示の新施設を建てる計画です。


2.北斗星(八星)が描かれていないことの真実
    ・・・高松塚古墳の本義・動機を表現している


※北斗八星とは、北斗七星に輔星(ほせい・アルコル)を加えた
場合をいいます。
北斗八星と解することで、高松塚古墳の呪術は解読されます。

高松塚古墳の天文図には、多くの星が描かれています。
北斗星(八星)が描かれていないのは、きわめて異常であり、
100%あり得ない、と言わざるを得ません。
ならば、そこには、それなりの重大な事情があると考え、その
原因を考察するのが、常道です。

※余談ですが、驚いたことに「高松塚古墳には北斗七星が
描かれていて」と論じていた歴史本を二冊以上読みました。
案外、高松塚古墳壁画には、北斗七星が描かれていると
思っている人が多いのです。

(1)有坂隆道の見解
私の知る限り、この件に関して、正面から向かい論考したのは、
吉野裕子氏だけです。
有坂隆道(ありさかたかみち)氏は、「北斗七星は政治的解釈
では天帝の乗る車を意味するにすぎないから、その有無には
こだわる必要はない」、と述べています。
つまり、考察から外しているのです。
詳しくは、次の通り。

有坂隆道『古代史を解く鍵』・講談社
<< また、中央部紫微垣(しびえん)に北斗七星がありますが、
北斗七星は天文学上、占星術(せんせいじゅつ)上ないし信仰上
とくに重要な星で、およそ星を描く場合にはまっ先に描かれる
といってよいほどのものです。
ただし、私の申します政治的解釈では天帝の乗る車を意味するに
すぎませんから、高松塚の場合のように描いていなくても
かまわないと思います。
むしろ、高松塚の場合は北斗七星がないから、政治的象徴と
解すべきだという私の論拠の一つとなったわけです。
とにかく、今の場合、その有無にこだわる必要はありません。
ここで問題なのは、点の中心である天極部の表現です。>>

確かに天極部が問題でもあります。それは天帝(天皇)を表現
している、という意味において。
でも、それでは、そこで思考停止となってしまいます。

「北極星=天帝・天皇」は、北斗星(八星)が存在してこそ、
真の「北極星=天帝・天皇」なのです。それが道教哲理なのです。
北斗七星は、どういう解釈であれ、「天帝の乗る車を意味するに
すぎません」と突っぱねられたら、高松塚古墳の真実は、全く
見えてこないのです。

(2)北斗星(八星)が描かれていないのは、高松塚古墳の
   本義・動機を表現している

私の説にとっては、「天帝の乗る車を意味する」ことこそが、
最重要なのです。
このことこそが、高松塚古墳の「本義」、つまり壁画制作の
「動機」なのです。
それは高松塚古墳の呪術でもあるのです。

考古学者は、北斗星が描かれていないことを、無視しています。
いえいえ、分からないから言及しないのです。
つまり、考古学者は、高松塚の呪術(北斗星が描かれていないこと、
そして八人ずつの男女が描かれていること)を受け入れない限り、
高松塚古墳の本義と壁画制作の動機は、永遠に解らない、
ということです。

高松塚の研究において、無学な小生など近寄れないほどの、
膨大な素晴らしい研究資料が残されました。
勿論、その先学の探究資料があったからこそ、私の説を論ずる
ことが出来るのです。
その学恩に感謝いたします。

(3)北斗八星が描かれている事例紹介
天文図に北斗星(八星)が描かれていないことが、どれほど、
正常でないのか、事例をあげて説明いたします。
そうしないと、読者には、解っていただけないと思うからです。

◎キトラ古墳天文図
キトラ天文図には、「北斗八星」が描かれています。
よって、高松塚古墳も、北斗七星ではなく、「北斗八星」が
描かれていなかったのです。

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◎高麗王第二十代神宗(しんそう)陽陵の墓室
神宗の在位期間は、1197年~1204年。
この星辰(せいしん)図には、北極星は描かれていません。
中央に「北斗八星」だけが描かれています。
高麗王は、皇帝の制でなかったからだと思われます。

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◎南宋淳祐(じゅんゆう)天文図・紫微垣(しびえん)内図
南宋淳祐天文図は、淳祐七年(1247年)に石刻(せっこく)
されたもの。1434星を刻んだ詳細な星図です。
この紫微垣(しびえん)内には、北極五星と「北斗八星」が
描かれています。

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◎呉越(ごえつ)国の星象(せいしょう)図
呉越国文穆(ぶんぼく)王墓に、星象図が存在します。
北極星と北斗八星が描かれています。
揚子江(ようすこう)下流の浙江(せっこう)省を中心に建国。
杭州に都をたてた。942年陵墓が築造されました。
呉越国王は、地方政権にもかかわらず、中国伝統の「天子(皇帝)
の制」を採用していた、ことになります。

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以上、天体図を見てきましたが、高松塚古墳に、北斗八星が
描かれていないのは、ただ事ではないということです。
※北朝鮮国立博物館に展示されている、有名な「天象列次分野之図
(てんしょうれつじぶんやのず)」には、勿論、北斗星が
描かれています。
しかし、輔星(ほせい)が描かれているのかどうか、その複写図を
見ても判断が付きませんでした。

(4)北斗七星を描いていないこと――その重大な意味
1)吉野裕子(ひろこ)説
吉野裕子氏は、次のように述べています。
(『持統天皇』・吉野裕子・人文書院)

<< 中国古代哲学は天帝を北極星になぞられるから、この
動けない天帝は、その周りを規則正しく回転する北斗七星を
その輔弼(ほひつ)として絶対に必要とする。
日本の天皇はこの天帝に重ね合わされているから、北斗七星に
象(かたど)られた墓は太子の墓として最もふさわしい。
いずれにしてもこの墓の主は、北斗七星の車に乗り得るほどの
高位の人、天皇、もしくはそれに準ずる人でなければならない。
草壁皇子(くさかべのみこ)はこの世で既に皇太子といっても、
並の太子ではなく、天皇の称号を追贈されている。
しかも、母の持統天皇はこの皇太子の来世のために、呪術の
限りをつくした。
北斗七星の車は天井の壁画からは隠されているが、実は墓
そのものが北斗七星なのであろう。
この八人の婦人がもし北斗の精であるならば、この墓はまさに
北斗の車そのものである。>>

吉野裕子氏は、< 高松塚古墳に、北斗七星が描かれていない
のは、墓そのものを北斗七星としているからである >
と述べています。
何と秀逸な想像力であることか!!素晴らしい閃きです!!

ただ、吉野氏は、高松塚古墳そのものを北斗七星に擬(なぞら)えた
と述べながらも、被葬者を北斗七星という帝車(ていしゃ)に乗る
人物・草壁皇子(くさかべのみこ)と、推論しています。

つまり、「高松塚=被葬者=北斗七星(帝車)に乗る人物=
草壁皇子(くさかべのみこ)」 としています。
吉野氏は、「高松塚古墳そのものを北斗七星に擬(なぞら)えた」
と記していますから「被葬者=高松塚古墳=北斗星」としなければ
ならないのに、何故か、被葬者を「北斗七星に乗る人物」、
としています。
ここに、吉野氏の矛盾があり、訂正の必要が生じてくるのです。

※また、草壁皇子(天皇号・追贈)の墓は、天皇陵の象徴である
八角形の束明神(つかみょうじん)古墳とされています。
よって、吉野氏の草壁皇子・被葬者説は、成り立たないのです。
また、後日述べますが、海獣葡萄鏡(かいじゅうぶどうきょう)
の出土品の年代考証からも、あり得ないのです。

2)漢代の帝車と伊勢神宮の帝車
帝車(ていしゃ)とは、天帝(天皇・北極星)が乗る北斗七星
(八星)の車のことです。
中国の伝承によると、天帝(天皇・北極星)は北斗七星(八星)
という車に乗り、宇宙を駆(か)け巡(めぐ)る、とされて
いるのです。

伊勢神宮は、この中国の伝承を採り入れました。
天武天皇(即位・673年)は、内宮を、「北極星(天皇)・天照大神」
とし、外宮を、「北斗八星・豊受大神・帝車」としました。
つまり、日本における北斗八星・帝車とは、「天照大神と天皇の
専用自家用車」なのです。

漢代に描かれた帝車図と、伊勢神宮の帝車図を比較してみましょう。
伊勢神宮の帝車図は、牛車図で、外宮ご遷宮(せんぐう)の際、
門外不出とされていた、み正体(しょうたい)を蔽(おお)う
錦(にしき)の刺車(さしぐるま)紋として、描かれています。

hata_blog_20200918-teichakangekuu.jpg

3)畑アカラ説の発見
私は、高松塚古墳そのものを北斗八星、とするならば、
「高松塚古墳 = 被葬者= 八人ずつの男女(陰陽)=北斗八星
 = 帝車(ていしゃ)」
としなければならない、と思います。

八人ずつの男女は、高松塚古墳そのものであり、被葬者を象徴し、
さらに、「陰陽の北斗八星」をも象徴しているのです。

このように解釈することによって、高松塚古墳壁画の全ての
呪術(暗号)が、瞬時に解けるのです。

高松塚の被葬者が、北斗八星(八人ずつの男女)で帝車となれば、
被葬者は北極星(天皇)を輔弼(ほひつ)する人物ということに
なります。

◎北極星(天皇)は、どこに存在しているのでしょうか?
北極星(天皇)は、天井に描かれた天文図の中心に位置して
います。勿論、墓の中心点です。

ならば、天皇(北極星)を、北斗八星となって輔弼(ほひつ)
する人物とは? 
被葬者捜しの第一歩が、始まることとなります。
先に、結論を述べます。
文武(もんむ)天皇(即位697年)、です。
それは、前回、述べましたが(後日さらに詳しく述べます)、
高松塚古墳は、高松塚古墳の真北200Mにある中尾山古墳
(文武天皇・八角形)の陪塚(ばいちょう)であるからです。
天井に描かれた北極星(天皇)は、その中尾山古墳の被葬者・
文武天皇なのです。

このことは、前回述べた通り、秋山日出雄氏の陪塚説によって、
証明されるのです。
つまり、高松塚古墳は「北斗八星古墳」であり、中尾山古墳は
「北極星古墳」でもあることから、天皇(文武天皇)と臣下
(石上麻呂・いそのかみのまろ)の関係にあるのです。
これまで述べた、高松塚古墳と北斗八星の関係を、
図にしてみました。

hata_blog_20200918-kofunzu.jpg

北斗八星が描かれていないのは、高松塚古墳全体を、北斗八星
としたからです。
その象徴として、八人ずつの男女が描かれたのです。
これが、高松塚古墳の基本呪術なのです。

4)何故、壁画呪術絵を描いたのか?・・・当時の世相による
それは、前回のブログでも述べたように、高松塚古墳被葬者・
石上麻呂(いそのかみのまろ)が、死後も天皇を永遠にお守り
していこうとした、その気持ちの発露なのです。
当時は、臣下が天皇を神として言祝(ことほ)ぐ世相であった
のです。
宮廷(きゅうてい)歌人・柿本人麻呂[かきのもとのひとまろ
(生没年不詳・主な作品は689‐700年頃)]と、
大将軍であった高級官僚・大伴御行[おおとものみゆき・
701年薨去(こうきょ)]は、
『大君は神にしませば・・・』と、天皇を神として歌い言祝
(ことほ)いでいます。

高松塚古墳壁画とキトラ古墳壁画は、具体的に天皇を神(北極星)
として言祝(ことほ)ぎ、死後も天皇(北極星)を崇敬(すうけい)
守護していこうとした、「呪術画(じゅじゅつが)」でもあった
のです。

天皇を神として言祝ぐことは、当時、豪族間の競争ともなって
いました。
後日、詳しく述べますが、臣下第一位になった阿倍御主人
[あべのみうし・703年薨去(こうきょ)・右大臣]は
キトラ古墳壁画を描き、天皇(北極星)を神として、死後も
永遠にお守りしようとしたのです。
14年後、それを真似たのが、高松塚古墳被葬者の石上麻呂
[いそのかみのまろ・717年薨去(こうきょ)・左大臣]です。

私は、この説こそが、高松塚古墳壁画とキトラ古墳壁画の本義
であり、真実であると思っています。
いつか、考古学者からも私の説が認められることを願っています。

次回は、さらに、高松塚古墳壁画は、死後も永遠に天皇(北極星)
をお守りしていこうとした表現絵画であることを、証明します。
八人ずつの男女が、北斗八星を表現している、驚くべき決定的な
証拠を発見したので、図として示します。


畑さん.jpg

畑アカラ氏 プロフィール

昭和22年生まれ。静岡県出身。藤枝東高校卒。
明治大学政経学部卒業(蒲生ゼミ・村落社会調査)。
広告制作会社(株・漫画社)に勤務後、フリー。イラスト・ライター。
日本児童出版美術家連盟会員。
「8の世界」と「ハートの世界」の、オンリーワンの探究者。
「一般社団法人8月8日はハートの日協会」理事長。
「8月8日はハートの日」を全世界に広めるため活動中。
世界を一つに繋げることの出来るツール・・
それが「8月8日はハートの日」。
著作・歴史書:『古代天皇家「八」の暗号』(徳間書店)。
『古代天皇家の謎は「北斗八星」で解ける』(徳間書店) 
著作・エッセイ(画・文):『猫ノーテンキ』(草思社)、
『猫っ可愛がりのことわざ草紙』(毎日新聞)、
『きょうも猫日和』(徳間書店)。 
月間絵本・作絵:『ハーリーちゃんとハーティちゃん』
『にじをつくろう』(チャイルド本社)。
かみしばい:『からすのかーすけ』(教育画劇)。等々。
趣味はテニス。素人作曲(楽器は演奏できません)。サッカー観戦。

【最新著書ご紹介】

【大嘗祭・天皇号・伊勢神宮】 この国永遠の疑問を解く

[新装版]古代天皇家「八」の暗号

第1回「高松塚古墳説の不思議」               

第1回 「高松塚古墳説の不思議」

(1)何故、「高松塚とキトラ古墳の真実」を知ることが出来たのか?
    ・・・それは動機と暗号を解明したから

(2)高松塚古墳探究に対する不可解な疑問点を提起します

にんげんクラブさんから、高松塚古墳とキトラ古墳について
記す機会を、与えていただきました。
喜んで、論じさせていただきます。

高松塚古墳は、奈良県明日香(あすか)村に位置し、
昭和四十七年(1972年)、発掘調査され、その壁画には、
四神図(朱雀・すざく・欠け)、天文図、日月図、
八人ずつの男女像、が描かれていました。
当時のマスコミは、< 日本考古学界の戦後最大の発見 >
と、大々的に報道しました。


(1)何故、「高松塚とキトラ古墳の真実」を知ることが出来たのか?
    ・・・それは動機と暗号を解明したから


傲慢(ごうまん)無礼者との非難囂々(ごうごう)を
覚悟して、あえて述べます。
「高松塚古墳とキトラ古墳の真実について語れるのは
小生のみ」、と自信を持って言えます。

①それは、被葬者は何故壁画を描こうとしたのか?
 その動機を語ることが出来たからです。
 (壁画制作の動機を語った人はいません)
②また、その壁画制作の動機を表現した、呪術絵の暗号を
 解読出来たからです。
 (呪術絵の暗号を解読した人はいません)

高松塚古墳壁画の暗号を解読出来たのは、私が特別優れた
才能を持っていたからではありません。
それは、偶然、私が「数字8の探究者」であったからです。
高松塚古墳壁画は呪術絵であり、8の暗号、つまり8の
周波数で語っていたのです。

8の周波数で語っている高松塚古墳壁画の声を聞くこと
が出来るのは、8の周波数を受信出来る耳を持っている、
小生のみが聞き取ることが出来るのです。
ただ、それだけのことです。
しかし、ただそれだけのことが、高松塚古墳壁画の真実の
扉を開く、唯一の鍵だったのです。
つまり、「8の周波数=真実の扉を開く鍵」であり、
その他の方法では、真実の扉を開くことが出来ないのです。

(キトラ古墳壁画の真実は、8の暗号ではないのですが、
高松塚古墳の真実が分かったことで解明出来たのです。
壁画制作の動機は全く同じです。)

例えば、高松塚古墳発掘者であった網干善教
(あぼしよしのり)氏は、何故、八人ずつの男女が
描かれているのか、いままでずっと考えてきましたが、
分からない・・・永遠に分かることが出来ないだろう、
と述べています。
しかし、8の探究家からしてみれば、簡単なことでした。

勿論、考古学者、歴史学者、美術学者、天文学者、
等々による、大変な労力の研究成果があったからこそ、
このように言えるのです。

8の暗号の解読方法と、8人ずつの男女の問題は、後日、
詳しく述べることとします。


(2)高松塚古墳探究に対する不可解な疑問点を提起します


ブログ第一回目は、本来ならば高松塚古墳の概要から
始めるべきですが、あえて研究者に対する疑問点から
スタートします。

1)自説に不利な事例も公開し、議論を深めることが大切

高松塚古墳について記されている本・論文を読んでいると、
あまりにも、資料を無視(スルー)した説が多いと
感じています。
自説にとって都合のよくない事例も、あえて載せ、公開し、
意見を正直に述べて言う、という態度の研究者が、
あまりにも少ないように思われます。

拙著『古代天皇家の謎は「北斗八星」で解ける』
(徳間書店)は、高松塚古墳とキトラ古墳についての
本ですが、自説に不利な事例も、全て載せ、意見を
述べたつもりです。

資料として無視されている、一番多い事例は、
①「蓋(きぬがさ・かさ)の色」です。
そして、次に無視されていることは、
②「北斗星が描かれていないことの不思議さ」と
「八人ずつの男女が描かれていること」についてです。
説として無視されるのは、
③「秋山日出雄氏の陪塚(ばいちょう)説」です。

※陪塚(ばいちょう)とは、主人の墓に伴う従者の墓
の意で、大きな墓のそばにある小さな墓。

では、まず、蓋(きぬがさ・かさ)について述べます。

2)蓋(きぬがさ・かさ)の色は第一級資料であり、無視
  するのは、研究者としてあるまじき姿勢です

※蓋(きぬがさ)・・・・絹で張った長柄(ながえ)の傘。

hata_blog_200818-kinugasa.png

高松塚古墳壁画には、蓋(きぬがさ・かさ)が描かれています。
第一級の資料です。
養老令(ようろうりょう・757年)儀制令第十八、
によれば、蓋(きぬがさ)は次のように決められています。

<< 凡(およ)そ 蓋(きぬがさ)は、
皇太子は、紫(むらさき)の表(うへ)
蘇方(すはう・紫がかった紅色)の裏(うら)、
頂(いただき)及び四角に、
錦(にしき)を覆(おほ)ひて総垂(ふさた)れよ。
親王は紫の大き纈(ゆはた・絞り染め)
一位は深(ふか)き緑(みどり)。 >>

蓋(きぬがさ)の色は、深緑色です(変色はしていない
から、深緑でOKとのことです)。
この深緑色は、一位の身分の人が使うものです(養老令)。
しかし、天皇・親王(皇子)は紫(養老令)です。

被葬者を皇子(みこ)としている山本忠尚氏は、「なぜ、
皇子(みこ)クラスではなく一位の人物にこだわるので
あろうか、大宝令下では親王も一位で有り得るのだ」と
述べています。
普通に考えたら、親王、つまり皇子の蓋(きぬがさ)の
色は、紫だと思いますが、いかがでしょうか?

また、色の区分は、養老令に記載されていることであって、
その前の、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)では、
その資料がないから分からないではないか、と主張する
人もいます。
さらに、「被葬者のために差しかけた蓋(きぬがさ)とは
言い切れず、忍部皇子(おさかべのみこ)を否定する根拠
にはならない」とする説もあります。

このように、蓋(きぬがさ)について主張する皇子説の
研究者は、まだいいほうです。

皇子説で、そして百済王説で、この蓋(きぬがさ)の色を
スルーしている研究者がいます。
全く言及しないで、被葬者を特定しているのです。
全く言及しないとは、研究者の姿勢として、いかがなものか、
と思うわけです。

ただ、被葬者について全く言及しない研究論文ならば、
蓋の色を無視してもかまいません。

被葬者をあげるならば、第一級の資料・蓋(きぬがさ)に
ついて、どんなことでもいいから、言及していただきたい、
と強く願うばかりです。

単純に、当時の一位の人物を探してみると、石上麻呂
(いそのかみのまろ)しかいないのです。

石上麻呂(いそのかみのまろ)は、
薨去(こうきょ)後(717年)、従(じゅ)一位を
追贈(ついぞう)されていますから、最有力候補者です。

一位の位(深緑色)にこだわるならば、石上麻呂しか
候補者は存在しないのです。

※諸臣一位に該当する者は、藤原鎌足(ふじわらのかまたり・
大織冠・たいしょくかん・669年薨去・こうきょ)以後、
717年、石上麻呂が薨去(こうきょ)して
「贈・従(じゅ)一位」を賜(たまわ)るまで、
誰もいません。

※藤原不比等(ふじわらのふひと)は、720年、
薨去(こうきょ)に際し、太政大臣(だじょうだいじん)
正(しょう)一位を贈られています。
しかし、延喜式(えんぎしき)によれば、
不比等(ふひと)の墓は多武峯(とうのみね)墓とあり、
大和国十市(やまとのくにといち)郡に所在しています。
よって、該当する一位(深緑色)の者は、石上麻呂
(いそのかみのまろ)のみ、となります。

梅原猛氏は、高松塚古墳について、『黄泉(よみ)の王
(おおきみ)』の中で、饒舌(じょうぜつ)に語っています。
被葬者候補は、弓削皇子(ゆげのみこ)。
しかし、蓋(きぬがさ)については、何故か言及していません。

被葬者を渡来系の者としている説においては、
蓋(きぬがさ)については、全く無視、といえます。
この重大な資料・蓋(きぬがさ)について言及すらしない
高松塚古墳の探究者は、フェアな態度ではない、
と思います。

蓋(きぬがさ)の色を、何故これほどまでに軽視するので
しょうか、というのが私の率直な感想です。

◎来村多加史・説の矛盾・・・その不思議さ

高松塚古墳とキトラ古墳について書かれた本としては、
最新であろうと思われる本『上下する天文』(来村多加史・
教育評論社・2019年)を拝読しました。

天文図を中心として書かれた本ですが、蓋(きぬがさ)に
ついて、次のように記しています。

<< 東男2の持つ傘蓋は・・・中略・・・
律令制度であれば、諸臣の一位に相当するが、一位に
相当する官は太政大臣で、飛鳥・奈良時代では大友皇子・
高市(たけち)皇子・藤原仲麻呂・道教の四人だけである。
該当するのは高市皇子だけであるが、高市皇子は親王で
あるため、紫系の傘蓋を用いたはずである。
このように制度化する前のこととしても、東男2が持つ
傘蓋は親王か左右大臣クラスでなければ、おそらく使用が
出来ない色である。>>

この中には、薨去(こうきょ)後に贈られた、
贈・従(じゅ)一位の石上麻呂(いそのかみのまろ)と、
同じように薨去後に贈られた、太政大臣・贈・正一位・
藤原不比等(ふじわらのふひと)の名前が上がっていません。

この二人は、薨去後すぐに位を贈られています。
つまり、来村氏にとって、薨去後すぐ贈られた位は、対象外
ということになります。

また、高市皇子は親王であるため、紫系の傘蓋を用いた
はずであると述べています。
(にもかかわらず、来村氏は、以前書かれた本のなかで、
高松塚古墳の被葬者は、天武天皇の皇子の一人であろう、
としています。矛盾しているのでは?)

この本の中では、被葬者名を推定していませんが、ここに
おいても、石上麻呂の名前は出てきません。
そればかりか、この本の中で蓋(きぬがさ)に言及している
のに、石上麻呂の名前は、一度も登場しないのです。

何か、不思議な気かしてならないのです。

◎石上麻呂(いそのかみのまろ)否定説の存在

高松塚古墳の被葬者として、石上麻呂(いそのかみのまろ)
はあり得ない、とする前提説があるのです。
それは、高松塚古墳は、藤原京期(697年~710年)の古墳
だと主張する説です。

この説は、蓋(きぬがさ)の色、つまり、従(じゅ)一位の
位の石上麻呂(いそのかみのまろ)を最初から外すことが
出来る、大変都合のよい説となります。
これを前提とすれば、石上麻呂説(717年・薨去・こうきょ)
は、間違いなく外れるからです。

3)高松塚古墳は、藤原京期(694年~710年)に作られた
    ・・・この説で打ち切っている説が、いまだに
       存在している不思議

高松塚古墳の被葬者を石上麻呂ではあり得ないという説は、
高松塚古墳が造られたのは、藤原京時代(674~710年)
までとすることによります。

平城京時代には、その奈良の地域で埋葬されるのが普通
であって、この時代に藤原京の地域に埋葬されるのは、
帰葬(きそう)といって、反逆罪に問われる意味を
持っている、とされるのです。
※帰葬(きそう)とは、故郷に戻って埋葬されることを
帰葬といいます。

◎帰葬(きそう・平城京遷都・せんと・710年下限説)は
 あり得ない説
 ・・・その反論
 ・・・ここにこそ、高松塚古墳壁画創作の動機がある
 ・・・大発見

再度述べますが、平城京(へいじょうきょう)へ移って
からの、藤原京への帰葬(きそう)は反逆行為であり、
平城京遷都(せんと・710年)後の築造はあり得ない、
とする意見です。(直木孝次郎氏、等)。

よって、高松塚古墳築造の下限を、710年とします。
ほとんどの学者がこの説を採っている、といっても過言
ではありません。

いやいや公共的なHP、そしてウキペディアでも、
710年までの墓と記してあり、驚きです。
今は違いますが、以前の文化庁のHPには、このような
ことが記してあり、私は嘆いていました。

ちなみに、石上麻呂を被葬者と推定している研究者は、
秋山日出雄氏、白石太一郎氏、岡本健一氏、勝部明生氏
などです。
また、森浩一氏、安本美典氏も、石上麻呂であろうと
しています。

これほど多くの石上麻呂(717年薨去・こうきょ)説
があるのに、今だ、高松塚古墳の築造下限は、710年
なのです。
何故、こだわっているのか、大変不思議です。

私は、この帰葬(きそう)の問題について、多くの学者間で、
議論を深めていただきたいと願うばかりです。

実は、高松塚古墳壁画の問題解明は、この帰葬の問題、
一点にかかっているのです。

私にとって、つまり、自説にとって一件不利なようですが、
全く違います。逆です。
この帰葬こそ、高松塚古墳・陪塚(ばいちょう)説の証拠
となるのです。
また、その逆の、陪塚だからこそ、帰葬が許されたのです。

帰葬の問題は、秋山日出雄氏の陪塚説と、私の発見した
独自の説により、解けます。

4)帰葬(きそう)が許されたという、その理由と証拠を発見

私は、この帰葬が許されたという、その理由と証拠を発見
したのです。
ここが、最大のポイントです。

このことで、帰葬が何故許されたかが、すんなりと解明
されたのです。
それは、高松塚古墳の根本的な本義の問題でもあるのです。

このことにより、被葬者は何故、高松塚古墳の壁画を
描こうとしたのか?その動機が分かったのです。

大変な大発見、と自分では思っています。
この帰葬の問題にこそ、動機が含まれているのです。

◎帰葬が許された理由

①まず、石上麻呂(いそのかみのまろ)の身分ですが、
 いまでいう総理大臣の位として、平城京遷都(せんと)
 後においても藤原京の留守司(るすのつかさ)として
 残っています。

②また、秋山日出雄説ですが、高松塚古墳は、高松塚
 古墳の真北200Mの位置にある中尾山古墳(実質の
 文武天皇の陵)の陪塚(ばいちょう)として
 葬(ほうむ)られた、と推測できるのです。

この二点を考慮すれば、帰葬は許されたのではないでしょうか。

③陪塚(ばいちょう)の確かさは、後日、詳しく
 述べますが、高松塚古墳壁画の呪術発見により、
 それは明確に証明されます。

②と③の結論を先に述べます。

◎八角形・中尾山古墳(実質、文武天皇陵)は、
 「北極星古墳」。
 高松塚古墳は、北極星古墳(中尾山古墳)の陪塚で、
 「北斗八星古墳」です。

「北極星古墳(中尾山古墳・文武天皇)」と「北斗八星
古墳(高松塚古墳・石上麻呂・いそのかみのまろ)」
・・・この見事な、天に描く陪塚(ばいちょう)コンセプトは、
   感動せずにはいられません。

※北極星は、北極星を輔弼(ほひつ)する北斗星が必要です
(道教哲理)。
よって、北斗星は陪塚(ばいちょう)に相応しいのです。

※この場合の北斗星は、北斗八星です。
北斗七星に輔星を加えると、北斗八星になります。
詳しくは、後日。

この呪術こそが、高松塚古墳の本義なのです。

そして、何故、壁画を描こうとしたのかの動機も、初めて
明確にされたのです。
誰も述べていない、「真実大発見」と言えます。

◎高松塚古墳・壁画呪術絵は、伊勢神宮と大嘗祭の呪術と
  共通したものです。

よって、高松塚古墳壁画の呪術を解明するには、天武天皇が
伊勢神宮と大嘗祭に施した呪術を知る必要があるのです。

ちなみに、天海大僧正(てんかいだいそうじょう)は、
この天武天皇の呪術を真似して、日光東照宮に家康公を
祀りました。

つまり、<< 高松塚古墳の呪術=伊勢神宮の呪術=
大嘗祭の呪術=日光東照宮の呪術 >>
なのです。
共通していることは、なによりも、天武天皇の呪術の確かさ
を証明するものでもあります。
私としては、この共通の呪術を日本の、いやいや、世界の
人々に知って欲しいのです。
この件は、後日、詳しく述べます。

※文武(もんむ)天皇・・・文武天皇は、名を軽皇子
(かるのみこ)といい、 草壁(くさかべ)皇太子
(天武天皇の皇子。、母は持統天皇)の長男。
707年、崩御(ほうぎょ)。

5)秋山日出雄氏の陪塚(ばいちょう)論は、私の説の確かさを
  証明してくれるものであった

秋山日出雄説は、高松塚古墳は中尾山古墳(文武天皇)の
陪塚(ばいちょう)である、という仮説です。

高松塚古墳の発掘調査に参加した一人であった秋山日出雄氏は、
『末永先生米壽(べいじゅ)記念獻呈(けんてい)論文集』
のなかで、大変興味深いことを記しています。

<< もし、中尾山古墳が、文武天皇陵(檜隈安古岡上陵・
ひのくまあこのおかのうえりょう)とするならば、
方三町の兆域(ちょういき・墓域)は高松塚古墳を含む。
よって、高松塚古墳は、文武天皇陵(檜隈安古岡上陵・
ひのくまあこのおかのうえりょう)の陪塚(ばいちょう)
にあたると考えられる。

ならば、高松塚は、文武天皇陵の陪塚であるがゆえ、
707年に築造された文武天皇陵を遡(さかのぼ)る
ことはあり得ない。
即ち、高松塚古墳の築造の上限を年代的に決定し得る
ことになる。>>

嬉しいことに、私の「臣下第一の石上麻呂は、死後も
永遠に、天井に描かれた天皇(北極星)をお守りして
いこうとした」説は、陪塚説として成立するのです!!
やったぜ!!というのが、この時の正直な気持ちです。

高松塚古墳発掘者の一人であった秋山氏が、被葬者の
名前を推定したのは、よくよくのことです。
墓誌が出土しない限り被葬者を特定できないから、
考古学者は被葬者を推定するのは差し控えるべきだ、
という風潮があります。

ましてや、発掘担当者は被葬者名をあげるべきではない、
と高松塚古墳発掘者であった網干善教(あぼしよしのり)
氏は、発言しています。
高松塚古墳の発掘を指揮した末永雅雄(すえながまさお)
氏も、最後まで被葬者名を口にしませんでした。

こうしたなか、高松塚古墳発掘担当者・秋山日出雄氏が
あえて被葬者を推測したのは、重みがあります。
よほどの覚悟があって、論じたことなのであろうと、
想像できます。
そして、発言しなければならないという、事の重大さに
気づいていたのではなかろうかと、思われます。

6)高松塚古墳探究者が、秋山日出雄説を取り上げない理由

しかし、高松塚古墳の探究者は、秋山日出雄氏の陪塚説を、
取り上げません。
不思議です。何故、秋山日出雄説が無視されてきたので
しょうか?
考えてみたいと思います。

■スルーその①・・・707年以降だと、自説に不利になるから

秋山日出雄説は、
<高松塚古墳は、707年に築造された中尾山古墳
(実質の文武天皇陵)を遡(さかのぼ)ることは
あり得ない。>
との見解ですから、

①忍壁皇子(おさかべのみこ・薨去705年)、
②高市皇子(たけちのみこ・薨去696年)
③弓削皇子(ゆげのみこ・薨去699年)、
④葛野王(かどのおう・薨去706年)、
⑤大津皇子(おおつのみこ・薨去686年)、
⑥百済王禅広(くだらのこにきしぜんこう・薨去693年頃)
の説は、成り立たなくなります。

この中で最も有力な説は、忍壁皇子(おさかべのみこ・
薨去705年)説ですが、否定されてしまいます。

ズバリ言いましょう。陪塚(ばいちょう)説が論議されない
理由は、自説に不利だから、という気持ちが奥底にあるから
ではないでしょうか。

■スルーその②・・・壁画の内容が、陪塚(ばいちょう)表現と
           想像されるから

また、高松塚古墳が陪塚(ばいちょう)ならば、壁画は、
陪塚にそった、壁画内容になります。
つまり、天皇陵に対する陪塚表現です。
自虐史観の蔓延している今日のご時世、受け入れがたい
内容が想像され、忌避しているのではないでしょうか?

死後も、天皇を永遠にお守りしていくという、崇敬護持の
壁画内容(自説)ということが、想像されるからです。
私は、このことも、秋山日出雄説をスルーしている理由
だと推測しています。

イデオロギーによって、真実が霧の中に隠されてしまうこと
がないように、私自身を含め、各人が自戒をしなければ
ならないと思います。

次回は、順序が逆になりましたが、高松塚古墳の概要と
問題点について述べます。
何故、多くの星が描かれている天文図の中に北斗星が
描かれていないのか?これこそが、高松塚古墳の本義を
表現しているのです。
吉野裕子氏を除いて、誰も、この全てを語った者は
いませんでした。
吉野裕子氏も解けなかった真実を、小生が語ります。


畑さん.jpg

畑アカラ氏 プロフィール

昭和22年生まれ。静岡県出身。藤枝東高校卒。
明治大学政経学部卒業(蒲生ゼミ・村落社会調査)。
広告制作会社(株・漫画社)に勤務後、フリー。イラスト・ライター。
日本児童出版美術家連盟会員。
「8の世界」と「ハートの世界」の、オンリーワンの探究者。
「一般社団法人8月8日はハートの日協会」理事長。
「8月8日はハートの日」を全世界に広めるため活動中。
世界を一つに繋げることの出来るツール・・
それが「8月8日はハートの日」。
著作・歴史書:『古代天皇家「八」の暗号』(徳間書店)。
『古代天皇家の謎は「北斗八星」で解ける』(徳間書店) 
著作・エッセイ(画・文):『猫ノーテンキ』(草思社)、
『猫っ可愛がりのことわざ草紙』(毎日新聞)、
『きょうも猫日和』(徳間書店)。 
月間絵本・作絵:『ハーリーちゃんとハーティちゃん』
『にじをつくろう』(チャイルド本社)。
かみしばい:『からすのかーすけ』(教育画劇)。等々。
趣味はテニス。素人作曲(楽器は演奏できません)。サッカー観戦。

【最新著書ご紹介】

【大嘗祭・天皇号・伊勢神宮】 この国永遠の疑問を解く

[新装版]古代天皇家「八」の暗号

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