サイトマップ

畑アカラの「高松塚とキトラ古墳の真実」

BLOG新着トップ

第2回「高松塚概要と北斗八星が描かれていなかった真実」

第2回 
「高松塚概要と北斗八星が描かれていなかった真実」

1.高松塚古墳概要
2.北斗星(八星)が描かれていないことの真実
    ・・・高松塚古墳の本義・動機を表現している

1.高松塚古墳概要


高松塚古墳壁画の発見は、当時の人々を熱狂させ、大興奮を
巻き起こしました。そして、多くの学者、作家が意見を述べ、
被葬者についても言及しました。
◎発見日時・場所・当時の状況
昭和47年(1972年)3月26日、奈良県明日香村の高松塚古墳
を発掘調査していた奈良県橿原(かしはら)考古学研究所は、
男女の群像や四神が、石室の壁面に描かれていたと発表しました。
当時のマスコミは、< 日本考古学界の戦後最大の発見 >と、
大々的に報道したのです。

藤原宮の中心部分から真南に向かった方位に、天武・持統(じとう)
陵があります。
この軸は、いわゆる「聖なるライン」と呼ばれています。
このラインから西方には、天武天皇ゆかりの天皇、皇子、臣下たち
の墓が存在します。
この地域は、天武天皇の「陵園(りょうえん)」ともいわれています。

hata_blog_20200918-asukamap.jpg

◎築造年代と古墳の大きさ
7世紀末から8世紀初頭にかけて築造された終末期古墳で、
直径23m(下段)及び18m(上段)、高さ5mの二段式の円墳です。
石槨(せっかく)・・・長さ2.65m、幅1.03m、高さ1.13m。
凝灰岩の切石。漆喰(しっくい)が塗られ、その上に壁画を描く。
出土の乾漆棺(かんしつかん)片は、長さ1.94m。
「高松塚壁画館」にそのレプリカがありますが、誰もが、墓室内の
空間の狭さに、驚いてしまいます。
そして、狭い空間で壁画を描いた苦労が分かります。

hata_blog_20200918-takamatuhekiga.jpg

◎壁画
石壁の表面には約5ミリの真っ白な漆喰(しっくい)が塗られていて、
その壁面には、7色以上を使った豪華な絵が描かれています。
北面は玄武(げんぶ)、東面中央には青龍(せいりゅう)と太陽が、
西面中央には白虎(びゃっこ)と月が描かれています。
なお、築造当時、南壁には朱雀(すざく)が描かれていましたが、
鎌倉時代に盗掘され、そのときあけられた穴とともに、消滅した
とみられています。

◎八人ずつの男女
壁面には、男女八人ずつ、合計十六人の人物が描かれています。
西壁の女子群像は、さまざまな場所でカラー写真が紹介され、
「飛鳥(あすか)美人」のニックネームで親しまれています。
何故、八人ずつの男女が描かれていたのでしょうか?
高松塚古墳発掘者の網干(あぼし)善教氏は、永遠に分からない
であろうと、述べていました。
この謎を解いた者は、吉野裕子氏でした。吉野裕子氏が初めて、
その謎を解いたのです。まさに、卓見です。
私は、吉野氏のおかげで、完全なる謎解き解明が可能となったのです。
この八人ずつの男女群像は、「北斗八星」を表現していたのです。
吉野裕子氏は、基本的には、「北斗七星」として捉えていて、
残念ながら、完全なる解明には、至りませんでした。

◎天文図
天井(てんじょう)は、金箔(きんぱく)の星を朱線(しゅせん)
でつないだ星座で構成されています。天文図中央には、北極五星
と四輔四星(しほよんせい)からなる、紫微垣(しびえん)が
描かれています。
天文図の周りには、二十八宿(しゅく)が描かれています。
これらは古代中国の思想に基づくもので、中央の紫微垣(しびえん)
は、天帝(てんてい)の居所を意味しています。

◎この天文図には、歴史上、あり得ないことが存在
北斗星(八星)が描かれていないのです。天文図に北斗星が
描かれていない例は、過去、無いと断言できます。
この北斗星(八星)が描かれていない理由も、吉野裕子氏が
喝破しました。何と、素晴らしい閃きであることか!!
描かれていないのは、墓そのものが、北斗星であると解明したのです。
ただ、吉野氏は、「高松塚古墳=北斗星」としながら、被葬者は、
草壁(くさかべ)皇太子(天皇号追贈)であるとして、北斗星
そのものとしなかったのです。(詳しくは、後述)

壁画は、「天文図、日月図、四神図」、をセットとして描いて
います。つまり、「完全天皇図・完全天帝図」なのです。
墓室一箇所に、完全天皇図が描かれている壁画の事例は、
中国にも、朝鮮半島にも、存在しません。
日本独自に表現した最高グレードの古墳壁画、ともいえるのです。
ここは、大いに強調すべきことなのです。

hata_blog_20200918-tenmonzu.jpg

◎出土品
棺(ひつぎ)は、漆塗(うるしぬり)木棺(もっかん)。
出土品は、棺に使われていた金具類、銅釘、副葬品の大刀(たち)
金具、海獣葡萄鏡(かいじゅうぶどうきょう)、玉類、骨、など
があります。

hata_blog_20200918-chytudobutu.jpg

◎解体修理
発掘調査以降、壁画は現状のまま現地保存することに決定。
文化庁が石室内の温度や湿度の調整、防カビ処理などの保存管理、
定期点検を行ってきました。
しかし、壁画の退色・変色が、明らかにされました。
その結果、墳丘(ふんきゅう)の発掘調査と石室の解体修理は、
2006年10月に開始されました。
2020年3月26日、文化庁は、奈良県明日香村で行っていた高松塚
古墳壁画の修復作業が終わったと発表しました。
国は今後、古墳近くに保存展示の新施設を建てる計画です。


2.北斗星(八星)が描かれていないことの真実
    ・・・高松塚古墳の本義・動機を表現している


※北斗八星とは、北斗七星に輔星(ほせい・アルコル)を加えた
場合をいいます。
北斗八星と解することで、高松塚古墳の呪術は解読されます。

高松塚古墳の天文図には、多くの星が描かれています。
北斗星(八星)が描かれていないのは、きわめて異常であり、
100%あり得ない、と言わざるを得ません。
ならば、そこには、それなりの重大な事情があると考え、その
原因を考察するのが、常道です。

※余談ですが、驚いたことに「高松塚古墳には北斗七星が
描かれていて」と論じていた歴史本を二冊以上読みました。
案外、高松塚古墳壁画には、北斗七星が描かれていると
思っている人が多いのです。

(1)有坂隆道の見解
私の知る限り、この件に関して、正面から向かい論考したのは、
吉野裕子氏だけです。
有坂隆道(ありさかたかみち)氏は、「北斗七星は政治的解釈
では天帝の乗る車を意味するにすぎないから、その有無には
こだわる必要はない」、と述べています。
つまり、考察から外しているのです。
詳しくは、次の通り。

有坂隆道『古代史を解く鍵』・講談社
<< また、中央部紫微垣(しびえん)に北斗七星がありますが、
北斗七星は天文学上、占星術(せんせいじゅつ)上ないし信仰上
とくに重要な星で、およそ星を描く場合にはまっ先に描かれる
といってよいほどのものです。
ただし、私の申します政治的解釈では天帝の乗る車を意味するに
すぎませんから、高松塚の場合のように描いていなくても
かまわないと思います。
むしろ、高松塚の場合は北斗七星がないから、政治的象徴と
解すべきだという私の論拠の一つとなったわけです。
とにかく、今の場合、その有無にこだわる必要はありません。
ここで問題なのは、点の中心である天極部の表現です。>>

確かに天極部が問題でもあります。それは天帝(天皇)を表現
している、という意味において。
でも、それでは、そこで思考停止となってしまいます。

「北極星=天帝・天皇」は、北斗星(八星)が存在してこそ、
真の「北極星=天帝・天皇」なのです。それが道教哲理なのです。
北斗七星は、どういう解釈であれ、「天帝の乗る車を意味するに
すぎません」と突っぱねられたら、高松塚古墳の真実は、全く
見えてこないのです。

(2)北斗星(八星)が描かれていないのは、高松塚古墳の
   本義・動機を表現している

私の説にとっては、「天帝の乗る車を意味する」ことこそが、
最重要なのです。
このことこそが、高松塚古墳の「本義」、つまり壁画制作の
「動機」なのです。
それは高松塚古墳の呪術でもあるのです。

考古学者は、北斗星が描かれていないことを、無視しています。
いえいえ、分からないから言及しないのです。
つまり、考古学者は、高松塚の呪術(北斗星が描かれていないこと、
そして八人ずつの男女が描かれていること)を受け入れない限り、
高松塚古墳の本義と壁画制作の動機は、永遠に解らない、
ということです。

高松塚の研究において、無学な小生など近寄れないほどの、
膨大な素晴らしい研究資料が残されました。
勿論、その先学の探究資料があったからこそ、私の説を論ずる
ことが出来るのです。
その学恩に感謝いたします。

(3)北斗八星が描かれている事例紹介
天文図に北斗星(八星)が描かれていないことが、どれほど、
正常でないのか、事例をあげて説明いたします。
そうしないと、読者には、解っていただけないと思うからです。

◎キトラ古墳天文図
キトラ天文図には、「北斗八星」が描かれています。
よって、高松塚古墳も、北斗七星ではなく、「北斗八星」が
描かれていなかったのです。

hata_blog_20200918-kitoratenmonzu.jpg

◎高麗王第二十代神宗(しんそう)陽陵の墓室
神宗の在位期間は、1197年~1204年。
この星辰(せいしん)図には、北極星は描かれていません。
中央に「北斗八星」だけが描かれています。
高麗王は、皇帝の制でなかったからだと思われます。

hata_blog_20200918-seisinzu.jpg

◎南宋淳祐(じゅんゆう)天文図・紫微垣(しびえん)内図
南宋淳祐天文図は、淳祐七年(1247年)に石刻(せっこく)
されたもの。1434星を刻んだ詳細な星図です。
この紫微垣(しびえん)内には、北極五星と「北斗八星」が
描かれています。

hata_blog_20200918-junyusibien.jpg

◎呉越(ごえつ)国の星象(せいしょう)図
呉越国文穆(ぶんぼく)王墓に、星象図が存在します。
北極星と北斗八星が描かれています。
揚子江(ようすこう)下流の浙江(せっこう)省を中心に建国。
杭州に都をたてた。942年陵墓が築造されました。
呉越国王は、地方政権にもかかわらず、中国伝統の「天子(皇帝)
の制」を採用していた、ことになります。

hata_blog_20200918-goetuoo.jpg

以上、天体図を見てきましたが、高松塚古墳に、北斗八星が
描かれていないのは、ただ事ではないということです。
※北朝鮮国立博物館に展示されている、有名な「天象列次分野之図
(てんしょうれつじぶんやのず)」には、勿論、北斗星が
描かれています。
しかし、輔星(ほせい)が描かれているのかどうか、その複写図を
見ても判断が付きませんでした。

(4)北斗七星を描いていないこと――その重大な意味
1)吉野裕子(ひろこ)説
吉野裕子氏は、次のように述べています。
(『持統天皇』・吉野裕子・人文書院)

<< 中国古代哲学は天帝を北極星になぞられるから、この
動けない天帝は、その周りを規則正しく回転する北斗七星を
その輔弼(ほひつ)として絶対に必要とする。
日本の天皇はこの天帝に重ね合わされているから、北斗七星に
象(かたど)られた墓は太子の墓として最もふさわしい。
いずれにしてもこの墓の主は、北斗七星の車に乗り得るほどの
高位の人、天皇、もしくはそれに準ずる人でなければならない。
草壁皇子(くさかべのみこ)はこの世で既に皇太子といっても、
並の太子ではなく、天皇の称号を追贈されている。
しかも、母の持統天皇はこの皇太子の来世のために、呪術の
限りをつくした。
北斗七星の車は天井の壁画からは隠されているが、実は墓
そのものが北斗七星なのであろう。
この八人の婦人がもし北斗の精であるならば、この墓はまさに
北斗の車そのものである。>>

吉野裕子氏は、< 高松塚古墳に、北斗七星が描かれていない
のは、墓そのものを北斗七星としているからである >
と述べています。
何と秀逸な想像力であることか!!素晴らしい閃きです!!

ただ、吉野氏は、高松塚古墳そのものを北斗七星に擬(なぞら)えた
と述べながらも、被葬者を北斗七星という帝車(ていしゃ)に乗る
人物・草壁皇子(くさかべのみこ)と、推論しています。

つまり、「高松塚=被葬者=北斗七星(帝車)に乗る人物=
草壁皇子(くさかべのみこ)」 としています。
吉野氏は、「高松塚古墳そのものを北斗七星に擬(なぞら)えた」
と記していますから「被葬者=高松塚古墳=北斗星」としなければ
ならないのに、何故か、被葬者を「北斗七星に乗る人物」、
としています。
ここに、吉野氏の矛盾があり、訂正の必要が生じてくるのです。

※また、草壁皇子(天皇号・追贈)の墓は、天皇陵の象徴である
八角形の束明神(つかみょうじん)古墳とされています。
よって、吉野氏の草壁皇子・被葬者説は、成り立たないのです。
また、後日述べますが、海獣葡萄鏡(かいじゅうぶどうきょう)
の出土品の年代考証からも、あり得ないのです。

2)漢代の帝車と伊勢神宮の帝車
帝車(ていしゃ)とは、天帝(天皇・北極星)が乗る北斗七星
(八星)の車のことです。
中国の伝承によると、天帝(天皇・北極星)は北斗七星(八星)
という車に乗り、宇宙を駆(か)け巡(めぐ)る、とされて
いるのです。

伊勢神宮は、この中国の伝承を採り入れました。
天武天皇(即位・673年)は、内宮を、「北極星(天皇)・天照大神」
とし、外宮を、「北斗八星・豊受大神・帝車」としました。
つまり、日本における北斗八星・帝車とは、「天照大神と天皇の
専用自家用車」なのです。

漢代に描かれた帝車図と、伊勢神宮の帝車図を比較してみましょう。
伊勢神宮の帝車図は、牛車図で、外宮ご遷宮(せんぐう)の際、
門外不出とされていた、み正体(しょうたい)を蔽(おお)う
錦(にしき)の刺車(さしぐるま)紋として、描かれています。

hata_blog_20200918-teichakangekuu.jpg

3)畑アカラ説の発見
私は、高松塚古墳そのものを北斗八星、とするならば、
「高松塚古墳 = 被葬者= 八人ずつの男女(陰陽)=北斗八星
 = 帝車(ていしゃ)」
としなければならない、と思います。

八人ずつの男女は、高松塚古墳そのものであり、被葬者を象徴し、
さらに、「陰陽の北斗八星」をも象徴しているのです。

このように解釈することによって、高松塚古墳壁画の全ての
呪術(暗号)が、瞬時に解けるのです。

高松塚の被葬者が、北斗八星(八人ずつの男女)で帝車となれば、
被葬者は北極星(天皇)を輔弼(ほひつ)する人物ということに
なります。

◎北極星(天皇)は、どこに存在しているのでしょうか?
北極星(天皇)は、天井に描かれた天文図の中心に位置して
います。勿論、墓の中心点です。

ならば、天皇(北極星)を、北斗八星となって輔弼(ほひつ)
する人物とは? 
被葬者捜しの第一歩が、始まることとなります。
先に、結論を述べます。
文武(もんむ)天皇(即位697年)、です。
それは、前回、述べましたが(後日さらに詳しく述べます)、
高松塚古墳は、高松塚古墳の真北200Mにある中尾山古墳
(文武天皇・八角形)の陪塚(ばいちょう)であるからです。
天井に描かれた北極星(天皇)は、その中尾山古墳の被葬者・
文武天皇なのです。

このことは、前回述べた通り、秋山日出雄氏の陪塚説によって、
証明されるのです。
つまり、高松塚古墳は「北斗八星古墳」であり、中尾山古墳は
「北極星古墳」でもあることから、天皇(文武天皇)と臣下
(石上麻呂・いそのかみのまろ)の関係にあるのです。
これまで述べた、高松塚古墳と北斗八星の関係を、
図にしてみました。

hata_blog_20200918-kofunzu.jpg

北斗八星が描かれていないのは、高松塚古墳全体を、北斗八星
としたからです。
その象徴として、八人ずつの男女が描かれたのです。
これが、高松塚古墳の基本呪術なのです。

4)何故、壁画呪術絵を描いたのか?・・・当時の世相による
それは、前回のブログでも述べたように、高松塚古墳被葬者・
石上麻呂(いそのかみのまろ)が、死後も天皇を永遠にお守り
していこうとした、その気持ちの発露なのです。
当時は、臣下が天皇を神として言祝(ことほ)ぐ世相であった
のです。
宮廷(きゅうてい)歌人・柿本人麻呂[かきのもとのひとまろ
(生没年不詳・主な作品は689‐700年頃)]と、
大将軍であった高級官僚・大伴御行[おおとものみゆき・
701年薨去(こうきょ)]は、
『大君は神にしませば・・・』と、天皇を神として歌い言祝
(ことほ)いでいます。

高松塚古墳壁画とキトラ古墳壁画は、具体的に天皇を神(北極星)
として言祝(ことほ)ぎ、死後も天皇(北極星)を崇敬(すうけい)
守護していこうとした、「呪術画(じゅじゅつが)」でもあった
のです。

天皇を神として言祝ぐことは、当時、豪族間の競争ともなって
いました。
後日、詳しく述べますが、臣下第一位になった阿倍御主人
[あべのみうし・703年薨去(こうきょ)・右大臣]は
キトラ古墳壁画を描き、天皇(北極星)を神として、死後も
永遠にお守りしようとしたのです。
14年後、それを真似たのが、高松塚古墳被葬者の石上麻呂
[いそのかみのまろ・717年薨去(こうきょ)・左大臣]です。

私は、この説こそが、高松塚古墳壁画とキトラ古墳壁画の本義
であり、真実であると思っています。
いつか、考古学者からも私の説が認められることを願っています。

次回は、さらに、高松塚古墳壁画は、死後も永遠に天皇(北極星)
をお守りしていこうとした表現絵画であることを、証明します。
八人ずつの男女が、北斗八星を表現している、驚くべき決定的な
証拠を発見したので、図として示します。


畑さん.jpg

畑アカラ氏 プロフィール

昭和22年生まれ。静岡県出身。藤枝東高校卒。
明治大学政経学部卒業(蒲生ゼミ・村落社会調査)。
広告制作会社(株・漫画社)に勤務後、フリー。イラスト・ライター。
日本児童出版美術家連盟会員。
「8の世界」と「ハートの世界」の、オンリーワンの探究者。
「一般社団法人8月8日はハートの日協会」理事長。
「8月8日はハートの日」を全世界に広めるため活動中。
世界を一つに繋げることの出来るツール・・
それが「8月8日はハートの日」。
著作・歴史書:『古代天皇家「八」の暗号』(徳間書店)。
『古代天皇家の謎は「北斗八星」で解ける』(徳間書店) 
著作・エッセイ(画・文):『猫ノーテンキ』(草思社)、
『猫っ可愛がりのことわざ草紙』(毎日新聞)、
『きょうも猫日和』(徳間書店)。 
月間絵本・作絵:『ハーリーちゃんとハーティちゃん』
『にじをつくろう』(チャイルド本社)。
かみしばい:『からすのかーすけ』(教育画劇)。等々。
趣味はテニス。素人作曲(楽器は演奏できません)。サッカー観戦。

【最新著書ご紹介】

【大嘗祭・天皇号・伊勢神宮】 この国永遠の疑問を解く

[新装版]古代天皇家「八」の暗号

第1回「高松塚古墳説の不思議」

第1回
「高松塚古墳説の不思議」

(1)何故、「高松塚とキトラ古墳の真実」を知ることが出来たのか?
    ・・・それは動機と暗号を解明したから

(2)高松塚古墳探究に対する不可解な疑問点を提起します

にんげんクラブさんから、高松塚古墳とキトラ古墳について
記す機会を、与えていただきました。
喜んで、論じさせていただきます。

高松塚古墳は、奈良県明日香(あすか)村に位置し、
昭和四十七年(1972年)、発掘調査され、その壁画には、
四神図(朱雀・すざく・欠け)、天文図、日月図、
八人ずつの男女像、が描かれていました。
当時のマスコミは、< 日本考古学界の戦後最大の発見 >
と、大々的に報道しました。


(1)何故、「高松塚とキトラ古墳の真実」を知ることが出来たのか?
    ・・・それは動機と暗号を解明したから


傲慢(ごうまん)無礼者との非難囂々(ごうごう)を
覚悟して、あえて述べます。
「高松塚古墳とキトラ古墳の真実について語れるのは
小生のみ」、と自信を持って言えます。

①それは、被葬者は何故壁画を描こうとしたのか?
 その動機を語ることが出来たからです。
 (壁画制作の動機を語った人はいません)
②また、その壁画制作の動機を表現した、呪術絵の暗号を
 解読出来たからです。
 (呪術絵の暗号を解読した人はいません)

高松塚古墳壁画の暗号を解読出来たのは、私が特別優れた
才能を持っていたからではありません。
それは、偶然、私が「数字8の探究者」であったからです。
高松塚古墳壁画は呪術絵であり、8の暗号、つまり8の
周波数で語っていたのです。

8の周波数で語っている高松塚古墳壁画の声を聞くこと
が出来るのは、8の周波数を受信出来る耳を持っている、
小生のみが聞き取ることが出来るのです。
ただ、それだけのことです。
しかし、ただそれだけのことが、高松塚古墳壁画の真実の
扉を開く、唯一の鍵だったのです。
つまり、「8の周波数=真実の扉を開く鍵」であり、
その他の方法では、真実の扉を開くことが出来ないのです。

(キトラ古墳壁画の真実は、8の暗号ではないのですが、
高松塚古墳の真実が分かったことで解明出来たのです。
壁画制作の動機は全く同じです。)

例えば、高松塚古墳発掘者であった網干善教
(あぼしよしのり)氏は、何故、八人ずつの男女が
描かれているのか、いままでずっと考えてきましたが、
分からない・・・永遠に分かることが出来ないだろう、
と述べています。
しかし、8の探究家からしてみれば、簡単なことでした。

勿論、考古学者、歴史学者、美術学者、天文学者、
等々による、大変な労力の研究成果があったからこそ、
このように言えるのです。

8の暗号の解読方法と、8人ずつの男女の問題は、後日、
詳しく述べることとします。


(2)高松塚古墳探究に対する不可解な疑問点を提起します


ブログ第一回目は、本来ならば高松塚古墳の概要から
始めるべきですが、あえて研究者に対する疑問点から
スタートします。

1)自説に不利な事例も公開し、議論を深めることが大切

高松塚古墳について記されている本・論文を読んでいると、
あまりにも、資料を無視(スルー)した説が多いと
感じています。
自説にとって都合のよくない事例も、あえて載せ、公開し、
意見を正直に述べて言う、という態度の研究者が、
あまりにも少ないように思われます。

拙著『古代天皇家の謎は「北斗八星」で解ける』
(徳間書店)は、高松塚古墳とキトラ古墳についての
本ですが、自説に不利な事例も、全て載せ、意見を
述べたつもりです。

資料として無視されている、一番多い事例は、
①「蓋(きぬがさ・かさ)の色」です。
そして、次に無視されていることは、
②「北斗星が描かれていないことの不思議さ」と
「八人ずつの男女が描かれていること」についてです。
説として無視されるのは、
③「秋山日出雄氏の陪塚(ばいちょう)説」です。

※陪塚(ばいちょう)とは、主人の墓に伴う従者の墓
の意で、大きな墓のそばにある小さな墓。

では、まず、蓋(きぬがさ・かさ)について述べます。

2)蓋(きぬがさ・かさ)の色は第一級資料であり、無視
  するのは、研究者としてあるまじき姿勢です

※蓋(きぬがさ)・・・・絹で張った長柄(ながえ)の傘。

hata_blog_200818-kinugasa.png

高松塚古墳壁画には、蓋(きぬがさ・かさ)が描かれています。
第一級の資料です。
養老令(ようろうりょう・757年)儀制令第十八、
によれば、蓋(きぬがさ)は次のように決められています。

<< 凡(およ)そ 蓋(きぬがさ)は、
皇太子は、紫(むらさき)の表(うへ)
蘇方(すはう・紫がかった紅色)の裏(うら)、
頂(いただき)及び四角に、
錦(にしき)を覆(おほ)ひて総垂(ふさた)れよ。
親王は紫の大き纈(ゆはた・絞り染め)
一位は深(ふか)き緑(みどり)。 >>

蓋(きぬがさ)の色は、深緑色です(変色はしていない
から、深緑でOKとのことです)。
この深緑色は、一位の身分の人が使うものです(養老令)。
しかし、天皇・親王(皇子)は紫(養老令)です。

被葬者を皇子(みこ)としている山本忠尚氏は、「なぜ、
皇子(みこ)クラスではなく一位の人物にこだわるので
あろうか、大宝令下では親王も一位で有り得るのだ」と
述べています。
普通に考えたら、親王、つまり皇子の蓋(きぬがさ)の
色は、紫だと思いますが、いかがでしょうか?

また、色の区分は、養老令に記載されていることであって、
その前の、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)では、
その資料がないから分からないではないか、と主張する
人もいます。
さらに、「被葬者のために差しかけた蓋(きぬがさ)とは
言い切れず、忍部皇子(おさかべのみこ)を否定する根拠
にはならない」とする説もあります。

このように、蓋(きぬがさ)について主張する皇子説の
研究者は、まだいいほうです。

皇子説で、そして百済王説で、この蓋(きぬがさ)の色を
スルーしている研究者がいます。
全く言及しないで、被葬者を特定しているのです。
全く言及しないとは、研究者の姿勢として、いかがなものか、
と思うわけです。

ただ、被葬者について全く言及しない研究論文ならば、
蓋の色を無視してもかまいません。

被葬者をあげるならば、第一級の資料・蓋(きぬがさ)に
ついて、どんなことでもいいから、言及していただきたい、
と強く願うばかりです。

単純に、当時の一位の人物を探してみると、石上麻呂
(いそのかみのまろ)しかいないのです。

石上麻呂(いそのかみのまろ)は、
薨去(こうきょ)後(717年)、従(じゅ)一位を
追贈(ついぞう)されていますから、最有力候補者です。

一位の位(深緑色)にこだわるならば、石上麻呂しか
候補者は存在しないのです。

※諸臣一位に該当する者は、藤原鎌足(ふじわらのかまたり・
大織冠・たいしょくかん・669年薨去・こうきょ)以後、
717年、石上麻呂が薨去(こうきょ)して
「贈・従(じゅ)一位」を賜(たまわ)るまで、
誰もいません。

※藤原不比等(ふじわらのふひと)は、720年、
薨去(こうきょ)に際し、太政大臣(だじょうだいじん)
正(しょう)一位を贈られています。
しかし、延喜式(えんぎしき)によれば、
不比等(ふひと)の墓は多武峯(とうのみね)墓とあり、
大和国十市(やまとのくにといち)郡に所在しています。
よって、該当する一位(深緑色)の者は、石上麻呂
(いそのかみのまろ)のみ、となります。

梅原猛氏は、高松塚古墳について、『黄泉(よみ)の王
(おおきみ)』の中で、饒舌(じょうぜつ)に語っています。
被葬者候補は、弓削皇子(ゆげのみこ)。
しかし、蓋(きぬがさ)については、何故か言及していません。

被葬者を渡来系の者としている説においては、
蓋(きぬがさ)については、全く無視、といえます。
この重大な資料・蓋(きぬがさ)について言及すらしない
高松塚古墳の探究者は、フェアな態度ではない、
と思います。

蓋(きぬがさ)の色を、何故これほどまでに軽視するので
しょうか、というのが私の率直な感想です。

◎来村多加史・説の矛盾・・・その不思議さ

高松塚古墳とキトラ古墳について書かれた本としては、
最新であろうと思われる本『上下する天文』(来村多加史・
教育評論社・2019年)を拝読しました。

天文図を中心として書かれた本ですが、蓋(きぬがさ)に
ついて、次のように記しています。

<< 東男2の持つ傘蓋は・・・中略・・・
律令制度であれば、諸臣の一位に相当するが、一位に
相当する官は太政大臣で、飛鳥・奈良時代では大友皇子・
高市(たけち)皇子・藤原仲麻呂・道教の四人だけである。
該当するのは高市皇子だけであるが、高市皇子は親王で
あるため、紫系の傘蓋を用いたはずである。
このように制度化する前のこととしても、東男2が持つ
傘蓋は親王か左右大臣クラスでなければ、おそらく使用が
出来ない色である。>>

この中には、薨去(こうきょ)後に贈られた、
贈・従(じゅ)一位の石上麻呂(いそのかみのまろ)と、
同じように薨去後に贈られた、太政大臣・贈・正一位・
藤原不比等(ふじわらのふひと)の名前が上がっていません。

この二人は、薨去後すぐに位を贈られています。
つまり、来村氏にとって、薨去後すぐ贈られた位は、対象外
ということになります。

また、高市皇子は親王であるため、紫系の傘蓋を用いた
はずであると述べています。
(にもかかわらず、来村氏は、以前書かれた本のなかで、
高松塚古墳の被葬者は、天武天皇の皇子の一人であろう、
としています。矛盾しているのでは?)

この本の中では、被葬者名を推定していませんが、ここに
おいても、石上麻呂の名前は出てきません。
そればかりか、この本の中で蓋(きぬがさ)に言及している
のに、石上麻呂の名前は、一度も登場しないのです。

何か、不思議な気かしてならないのです。

◎石上麻呂(いそのかみのまろ)否定説の存在

高松塚古墳の被葬者として、石上麻呂(いそのかみのまろ)
はあり得ない、とする前提説があるのです。
それは、高松塚古墳は、藤原京期(697年~710年)の古墳
だと主張する説です。

この説は、蓋(きぬがさ)の色、つまり、従(じゅ)一位の
位の石上麻呂(いそのかみのまろ)を最初から外すことが
出来る、大変都合のよい説となります。
これを前提とすれば、石上麻呂説(717年・薨去・こうきょ)
は、間違いなく外れるからです。

3)高松塚古墳は、藤原京期(694年~710年)に作られた
    ・・・この説で打ち切っている説が、いまだに
       存在している不思議

高松塚古墳の被葬者を石上麻呂ではあり得ないという説は、
高松塚古墳が造られたのは、藤原京時代(674~710年)
までとすることによります。

平城京時代には、その奈良の地域で埋葬されるのが普通
であって、この時代に藤原京の地域に埋葬されるのは、
帰葬(きそう)といって、反逆罪に問われる意味を
持っている、とされるのです。
※帰葬(きそう)とは、故郷に戻って埋葬されることを
帰葬といいます。

◎帰葬(きそう・平城京遷都・せんと・710年下限説)は
 あり得ない説
 ・・・その反論
 ・・・ここにこそ、高松塚古墳壁画創作の動機がある
 ・・・大発見

再度述べますが、平城京(へいじょうきょう)へ移って
からの、藤原京への帰葬(きそう)は反逆行為であり、
平城京遷都(せんと・710年)後の築造はあり得ない、
とする意見です。(直木孝次郎氏、等)。

よって、高松塚古墳築造の下限を、710年とします。
ほとんどの学者がこの説を採っている、といっても過言
ではありません。

いやいや公共的なHP、そしてウキペディアでも、
710年までの墓と記してあり、驚きです。
今は違いますが、以前の文化庁のHPには、このような
ことが記してあり、私は嘆いていました。

ちなみに、石上麻呂を被葬者と推定している研究者は、
秋山日出雄氏、白石太一郎氏、岡本健一氏、勝部明生氏
などです。
また、森浩一氏、安本美典氏も、石上麻呂であろうと
しています。

これほど多くの石上麻呂(717年薨去・こうきょ)説
があるのに、今だ、高松塚古墳の築造下限は、710年
なのです。
何故、こだわっているのか、大変不思議です。

私は、この帰葬(きそう)の問題について、多くの学者間で、
議論を深めていただきたいと願うばかりです。

実は、高松塚古墳壁画の問題解明は、この帰葬の問題、
一点にかかっているのです。

私にとって、つまり、自説にとって一件不利なようですが、
全く違います。逆です。
この帰葬こそ、高松塚古墳・陪塚(ばいちょう)説の証拠
となるのです。
また、その逆の、陪塚だからこそ、帰葬が許されたのです。

帰葬の問題は、秋山日出雄氏の陪塚説と、私の発見した
独自の説により、解けます。

4)帰葬(きそう)が許されたという、その理由と証拠を発見

私は、この帰葬が許されたという、その理由と証拠を発見
したのです。
ここが、最大のポイントです。

このことで、帰葬が何故許されたかが、すんなりと解明
されたのです。
それは、高松塚古墳の根本的な本義の問題でもあるのです。

このことにより、被葬者は何故、高松塚古墳の壁画を
描こうとしたのか?その動機が分かったのです。

大変な大発見、と自分では思っています。
この帰葬の問題にこそ、動機が含まれているのです。

◎帰葬が許された理由

①まず、石上麻呂(いそのかみのまろ)の身分ですが、
 いまでいう総理大臣の位として、平城京遷都(せんと)
 後においても藤原京の留守司(るすのつかさ)として
 残っています。

②また、秋山日出雄説ですが、高松塚古墳は、高松塚
 古墳の真北200Mの位置にある中尾山古墳(実質の
 文武天皇の陵)の陪塚(ばいちょう)として
 葬(ほうむ)られた、と推測できるのです。

この二点を考慮すれば、帰葬は許されたのではないでしょうか。

③陪塚(ばいちょう)の確かさは、後日、詳しく
 述べますが、高松塚古墳壁画の呪術発見により、
 それは明確に証明されます。

②と③の結論を先に述べます。

◎八角形・中尾山古墳(実質、文武天皇陵)は、
 「北極星古墳」。
 高松塚古墳は、北極星古墳(中尾山古墳)の陪塚で、
 「北斗八星古墳」です。

「北極星古墳(中尾山古墳・文武天皇)」と「北斗八星
古墳(高松塚古墳・石上麻呂・いそのかみのまろ)」
・・・この見事な、天に描く陪塚(ばいちょう)コンセプトは、
   感動せずにはいられません。

※北極星は、北極星を輔弼(ほひつ)する北斗星が必要です
(道教哲理)。
よって、北斗星は陪塚(ばいちょう)に相応しいのです。

※この場合の北斗星は、北斗八星です。
北斗七星に輔星を加えると、北斗八星になります。
詳しくは、後日。

この呪術こそが、高松塚古墳の本義なのです。

そして、何故、壁画を描こうとしたのかの動機も、初めて
明確にされたのです。
誰も述べていない、「真実大発見」と言えます。

◎高松塚古墳・壁画呪術絵は、伊勢神宮と大嘗祭の呪術と
  共通したものです。

よって、高松塚古墳壁画の呪術を解明するには、天武天皇が
伊勢神宮と大嘗祭に施した呪術を知る必要があるのです。

ちなみに、天海大僧正(てんかいだいそうじょう)は、
この天武天皇の呪術を真似して、日光東照宮に家康公を
祀りました。

つまり、<< 高松塚古墳の呪術=伊勢神宮の呪術=
大嘗祭の呪術=日光東照宮の呪術 >>
なのです。
共通していることは、なによりも、天武天皇の呪術の確かさ
を証明するものでもあります。
私としては、この共通の呪術を日本の、いやいや、世界の
人々に知って欲しいのです。
この件は、後日、詳しく述べます。

※文武(もんむ)天皇・・・文武天皇は、名を軽皇子
(かるのみこ)といい、 草壁(くさかべ)皇太子
(天武天皇の皇子。、母は持統天皇)の長男。
707年、崩御(ほうぎょ)。

5)秋山日出雄氏の陪塚(ばいちょう)論は、私の説の確かさを
  証明してくれるものであった

秋山日出雄説は、高松塚古墳は中尾山古墳(文武天皇)の
陪塚(ばいちょう)である、という仮説です。

高松塚古墳の発掘調査に参加した一人であった秋山日出雄氏は、
『末永先生米壽(べいじゅ)記念獻呈(けんてい)論文集』
のなかで、大変興味深いことを記しています。

<< もし、中尾山古墳が、文武天皇陵(檜隈安古岡上陵・
ひのくまあこのおかのうえりょう)とするならば、
方三町の兆域(ちょういき・墓域)は高松塚古墳を含む。
よって、高松塚古墳は、文武天皇陵(檜隈安古岡上陵・
ひのくまあこのおかのうえりょう)の陪塚(ばいちょう)
にあたると考えられる。

ならば、高松塚は、文武天皇陵の陪塚であるがゆえ、
707年に築造された文武天皇陵を遡(さかのぼ)る
ことはあり得ない。
即ち、高松塚古墳の築造の上限を年代的に決定し得る
ことになる。>>

嬉しいことに、私の「臣下第一の石上麻呂は、死後も
永遠に、天井に描かれた天皇(北極星)をお守りして
いこうとした」説は、陪塚説として成立するのです!!
やったぜ!!というのが、この時の正直な気持ちです。

高松塚古墳発掘者の一人であった秋山氏が、被葬者の
名前を推定したのは、よくよくのことです。
墓誌が出土しない限り被葬者を特定できないから、
考古学者は被葬者を推定するのは差し控えるべきだ、
という風潮があります。

ましてや、発掘担当者は被葬者名をあげるべきではない、
と高松塚古墳発掘者であった網干善教(あぼしよしのり)
氏は、発言しています。
高松塚古墳の発掘を指揮した末永雅雄(すえながまさお)
氏も、最後まで被葬者名を口にしませんでした。

こうしたなか、高松塚古墳発掘担当者・秋山日出雄氏が
あえて被葬者を推測したのは、重みがあります。
よほどの覚悟があって、論じたことなのであろうと、
想像できます。
そして、発言しなければならないという、事の重大さに
気づいていたのではなかろうかと、思われます。

6)高松塚古墳探究者が、秋山日出雄説を取り上げない理由

しかし、高松塚古墳の探究者は、秋山日出雄氏の陪塚説を、
取り上げません。
不思議です。何故、秋山日出雄説が無視されてきたので
しょうか?
考えてみたいと思います。

■スルーその①・・・707年以降だと、自説に不利になるから

秋山日出雄説は、
<高松塚古墳は、707年に築造された中尾山古墳
(実質の文武天皇陵)を遡(さかのぼ)ることは
あり得ない。>
との見解ですから、

①忍壁皇子(おさかべのみこ・薨去705年)、
②高市皇子(たけちのみこ・薨去696年)
③弓削皇子(ゆげのみこ・薨去699年)、
④葛野王(かどのおう・薨去706年)、
⑤大津皇子(おおつのみこ・薨去686年)、
⑥百済王禅広(くだらのこにきしぜんこう・薨去693年頃)
の説は、成り立たなくなります。

この中で最も有力な説は、忍壁皇子(おさかべのみこ・
薨去705年)説ですが、否定されてしまいます。

ズバリ言いましょう。陪塚(ばいちょう)説が論議されない
理由は、自説に不利だから、という気持ちが奥底にあるから
ではないでしょうか。

■スルーその②・・・壁画の内容が、陪塚(ばいちょう)表現と
           想像されるから

また、高松塚古墳が陪塚(ばいちょう)ならば、壁画は、
陪塚にそった、壁画内容になります。
つまり、天皇陵に対する陪塚表現です。
自虐史観の蔓延している今日のご時世、受け入れがたい
内容が想像され、忌避しているのではないでしょうか?

死後も、天皇を永遠にお守りしていくという、崇敬護持の
壁画内容(自説)ということが、想像されるからです。
私は、このことも、秋山日出雄説をスルーしている理由
だと推測しています。

イデオロギーによって、真実が霧の中に隠されてしまうこと
がないように、私自身を含め、各人が自戒をしなければ
ならないと思います。

次回は、順序が逆になりましたが、高松塚古墳の概要と
問題点について述べます。
何故、多くの星が描かれている天文図の中に北斗星が
描かれていないのか?これこそが、高松塚古墳の本義を
表現しているのです。
吉野裕子氏を除いて、誰も、この全てを語った者は
いませんでした。
吉野裕子氏も解けなかった真実を、小生が語ります。


畑さん.jpg

畑アカラ氏 プロフィール

昭和22年生まれ。静岡県出身。藤枝東高校卒。
明治大学政経学部卒業(蒲生ゼミ・村落社会調査)。
広告制作会社(株・漫画社)に勤務後、フリー。イラスト・ライター。
日本児童出版美術家連盟会員。
「8の世界」と「ハートの世界」の、オンリーワンの探究者。
「一般社団法人8月8日はハートの日協会」理事長。
「8月8日はハートの日」を全世界に広めるため活動中。
世界を一つに繋げることの出来るツール・・
それが「8月8日はハートの日」。
著作・歴史書:『古代天皇家「八」の暗号』(徳間書店)。
『古代天皇家の謎は「北斗八星」で解ける』(徳間書店) 
著作・エッセイ(画・文):『猫ノーテンキ』(草思社)、
『猫っ可愛がりのことわざ草紙』(毎日新聞)、
『きょうも猫日和』(徳間書店)。 
月間絵本・作絵:『ハーリーちゃんとハーティちゃん』
『にじをつくろう』(チャイルド本社)。
かみしばい:『からすのかーすけ』(教育画劇)。等々。
趣味はテニス。素人作曲(楽器は演奏できません)。サッカー観戦。

【最新著書ご紹介】

【大嘗祭・天皇号・伊勢神宮】 この国永遠の疑問を解く

[新装版]古代天皇家「八」の暗号

カテゴリー

月別アーカイブ



  • にんげんクラブ入会キャンペーン
  • メルマガ登録(無料)
  • にんげんクラブストア
  • 舩井フォーラム 講演CD・DVD
  • Kan.ワークプログラムDVD
  • 黎明
  • やさしい ホツマツタヱ
  • 舩井幸雄記念館
  • 秋山峰男の世界
  • 船井幸雄.com
  • ザ・フナイ
  • ビジネス共済なら協同組合企業共済会
  • Facebookページはこちら
  • スタッフブログはこちら
グループ会社
  • 舩井幸雄.com
  • 本物研究所
  • エヴァビジョン
  • ほんものや