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畑アカラの「大嘗祭と伊勢神宮・稲の祭」

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第11回目 『大八洲瑞穂国(おおやしまみずほのくに)の国柄』

第11回目 
『大八洲瑞穂国(おおやしまみずほのくに)の国柄』


(1)神様はお酒が大好き・・・お酒も稲(米)から作られている
(2)稲の祭典における、御飯とお酒の重なり
(3)神聖童女(さかつこ)とお酒
(4)女性の霊力
(5)本居宣長の食前・食後の感謝の歌の素晴らしさ
(6)夜空に輝く、北極星と北斗八星を眺め、日本の国柄を描いている
       世界最強の呪術を思い出して欲しい

連載は8回で終了を考えていたのですが、やはり、
八のことを書き続けているうちに、
つい欲が出てしまいました。
八の世界を、とりあえず一覧表記出来たことで、
八の探究家として満足しています。
資料として、皆様に提供できたこと、嬉しく思います。
(勿論、八について書きたいことは、まだまだあります)
日本においては、最高グレードの儀礼・神事は八の世界で
表現されていることが、お解りいただけたと思います。

『大嘗祭と伊勢神宮・稲の祭』の連載ブログは、
今回をもって最終回といたします。
お酒についても記したいと思います。
何故ならば、お酒も稲(米)から出来ているからです。


(1)神様はお酒が大好き・・・お酒も稲(米)から作られている


お酒も、稲(お米)から作られるから、なおさらのこと、
稲が大切な物になっているのです。
特に大嘗祭は、「御飯と酒」のお祭りと言っても
過言ではありません。

伊勢神宮に比べ、大嘗祭においては、
お酒の占める度合いが半端ではありません。

平安京の北野の地に、悠紀国(ゆきこく)と
主基国(すきこく)の稲や
御贄(みにえ・神饌食物の総称)を保管しておく
斎場をつくります。
その斎場においては、お酒に関係する建物の占有率が
高いのです。
図を見てみましょう。
白酒(しろき)殿・黒酒(くろき)殿・
麹室殿(かむたちのむろや)・
臼殿(うすのとの・御飯と共通)の
建物があります(赤く囲った建物)。
大炊寮(おおいいのや)もお酒と関係あるといえます。
祭には、お酒が欠かせないのです。

hata_blog_200626-kitano.jpg

※麹室殿(かむたちのむろや)とは、次の通りです。
米にカビが生えたものを〝かびたち〟といい、
これが麹を使ったお酒の始まりというわけです。
この〝かびたち〟が時代と共に語源変化し、
〝かむたち〟から〝かむち〟、明治時代には
〝かうじ〟と呼ばれ、いまの〝こうじ〟になりました。
したがって、日本の麹は日本で発見され造られたもので、
現在の日本酒に繋がっているのです。
(発酵学者 小泉武夫より)


(2)稲の祭典における、御飯とお酒の重なり


大嘗祭においては、天皇と神様が一緒に神饌(しんせん)を
召し上がることで、天皇継承の資格を得るわけですが、
お酒をそそぐ所作があります。
とても興味深いことですので、あえて取り上げます。

小生が子供の頃、我が家で宴会があったときのことです。
近所に大変酒好きな方がいました。
その方は、驚いたことに、御飯の上に日本酒を注いで
食べ始めたのです。
今でもしっかりと記憶しています。
酒飲みの極致、いやいや、とんでもない飲んべえ、
なんて勝手に思っていたわけです。
しかし、同じことが、何と、大嘗祭でも、
行われていたのです。
『大嘗祭・天皇号・伊勢神宮』に記してある部分から
転載します。

<< 天皇は、陪膳(ばいぜん・最上位の采女・うねめ)
と称する一人から渡された「八葉盤(やひらで)」
(柏の葉などを重ねて作った皿状の食器)の上に、
米と粟の御飯その他を盛り、陪膳(ばいぜん)がそれを
「神食薦(かみのけこも)」の上に載せます。
それに箸(ピンセット型)を立てたのち、
肴(こう・火を通した魚など)と
菓子(このみ・干し柿など)を重ね、
白酒(しろき)・黒酒(くろき)を四度そそぎます。
これを十回行います。>>

八葉盤(やひらで)と
「白酒(しろき)・黒酒(くろき)を四度」
が出てきますから、八の世界ですね。
しかし、驚いたことは、箸を立てた御飯の上に
白酒・黒酒をそそぐことです。

子供の時見た、御飯にお酒を掛けて食べる様は、
日本最高の神事でも行われていたとは、何とも、
不思議なことです。
ならば、稲から出来た「御飯」と「お酒」の合体とも
言えるのです。
稲に対する最高の敬意の表現ともとれます。


(3)神聖童女(さかつこ)とお酒


大嘗祭における、造酒童女(さかつこ・造酒児とも)の
名前が印象的です。
童女にお酒とは、何事かと思われることでしょう。
古来、お酒を造るには、御飯を口でかみ砕いて
発酵させて作ったとの説がありますが、かみ砕く役目を
童女が担っていたようです。
このように考えれば、造酒童女(さかつこ)のネーミングも、
不思議ではないのかも知れません。

大嘗祭において、造酒童女(さかつこ)は、
稲舂(いねつき)の儀、抜穂(ぬいぼ)の儀、
京の斎場の地を鎮める儀、
大嘗宮を造る用材を伐(き)る儀、
草を刈る儀、御井(みい)を掘る儀、等々、
緒儀みなこの造酒童女(さかつこ)が
最初に手を下すことになっています。

にもかかわらず、お酒の名を付けています。
勿論、酒造りにも率先します。
十一月上旬、黒酒(くろき)・白酒(しろき)の
酒造が始まります。
そのとき、造酒童女(さかつこ)が最初に酒造り用の
稲を舂(つ)きます。

造酒童女(さかつこ)は、宮廷、中央官庁の人物では
在りません。
造酒童女は、地方の豪族の未婚の女性・・・
悠紀国(ゆきこく)と主基国(すきこく)の二人です。

大嘗祭の造酒童女(さかつこ)は、伊勢神宮の
「大物忌(おおものいみ)」という神聖童女と、
地位は違いますが、似ています。
伊勢神宮の「大物忌(おおものいみ)」は、
最高神官としての斎内親王(いつきないしんのう)
にさえ先んじて祭事に手を付けるほどの神聖性を
保持している意味において、特別な存在です。

伊勢神宮と大嘗祭はセットであることが、
「大物忌(おおものいみ)」と
「造酒童女(さかつこ)」の件からも
首肯(しゅこう)できるのです。

伊勢神宮においても、お酒は勿論出てきます。
『伊勢神宮の衣食住』(矢野憲一)を参考に記します。

大嘗祭と同じように、内宮では、白酒(しろき)・
黒酒(くろき)です。
古(いにしえ)においては、この二種。
外宮においては、火无浄酒(ほなしのきよざけ)、
火向神酒(ほむけのかんみき)です。
火向(ほむけ)とは火にかけ、火无(ほなし)とは、
火を用いないで造った酒のこと。
そして今日においては、醴酒(れいしゅ)と清酒も
加わります。
火向神酒(ほむけのかんみき)は、
現在の醴酒(れいしゅ)のことかと、言われています。

この醸造には専門の職掌があり、
清酒作物忌(きよさかとこのものいみ)、
酒作物忌(さかとこのものいみ)といって、
清浄無垢な少女が主となって従事しました。
大嘗祭における造酒童女(さかつこ)ですね。
勿論、物忌(ものいみ)の童女では困難だから
その父が補佐し親子で奉仕しました。

このほかにも、諸国の神戸(かんべ)から貢進された
多くの神酒が供えられます。

大嘗祭も伊勢神宮も清浄無垢な「神聖童女」によって、
お酒は作られるのです。

◎豊受大神は、お酒作りの名人

外宮の豊受大神(八天女・北斗八星を象徴している)
のルーツは、次のように言われています。
<< 八人の天女が比治山の真井(まない)で
水浴している間に一人の衣裳を老夫婦が隠したので、
天に上がれなくなった天女は地上にとどまった。
彼女は「善く醸酒(かみざけ)」をつくり、
それは一ぱい飲めば万病ことごとく癒(い)える
という不思議な酒であった。彼女はのちに「荒塩」
という村に行き、哭木(なきき)村を経て
「奈具(なぐ)」の村に至った。
これがいま、奈具社に祀るトヨウカノメという神である。>>
これが天降りした八天女のあら筋である。
(『伊勢の大神』・編者・上田正昭・筑摩書房・参考)
ならば、外宮の御饌津神(みけつかみ)である豊受大神は、
酒造りの名人ということになります。


(4)女性の霊力


大嘗祭神事に至るまでの準備段階における
造酒童女(さかつこ)、大嘗祭神事における最高位
「陪膳(ばいぜん)」采女(うねめ)、
そして伊勢神宮における大物忌(おおものいみ)は、
政治的地位は低くても、権威の高さはまるで
天皇に次ぐようでもあります。
天皇と同等のような位と言えば、
伊勢神宮の斎王(斎宮)でしょう。

このように見ますと、大嘗祭・伊勢神宮の神事には
女性の活躍が目立ちます。

天照大御神と豊受大御神の性別について、いろいろと
説があり、あれこれと言われています。
(私は、天武天皇以前の色々な説を否定するつもりは
全くありません。色々な説があって当然です)
しかし、天武天皇が創設した大嘗祭と、天武天皇が
リニューアルした伊勢神宮において施した
世界最強の呪術では、間違いなく、天照大御神も
豊受大御神も女性と言えるのです。

ならば、大嘗祭と伊勢神宮(リニューアル)の祭は、
女性を主とする祭典とも言えるのです。
日本においては、縄文時代から女性を神として
祀ってきたと思われます。
その証拠は、土偶は全て女性だと言われているからです。

天武天皇は、縄文時代にも思いを馳せていたと思われます。
女性の霊力は、子供を生み出すという神秘な力でも
あるわけです。
天武天皇は、女性の霊力を知っていて、活用したのでは
ないでしょうか。

◎なぜ、内宮、外宮とも女性の神様なのか?

内宮と外宮ということならば、男女の神に分けて
祀るのが自然です。
内宮が男神、外宮が女神とすれば、
陰陽ですっきりします。

勿論、陰陽寮(おんみょうりょう・スタッフ88人前後)と
占星台(せんせいだい)を作った呪術のエキスパート
である天武天皇は、伊勢神宮をリニューアルするに
当たって、合理的に処理しています。


内宮においては、天照大神は、
荒祭宮(あらまつりのみや・太一・北極星神)と
習合していて、陰陽を示しています。
また、心御柱は北極星の神を降ろしています。
つまり、天照大御神と北極星は、陰陽太極であり
習合しているのです。

よって、陰陽太極八卦の呪術からみれば、
内宮=陰陽太極=女神(天照大御神=太陽)・男神(北極星)
外宮=八卦=女神(豊受大神=北斗八星)

となり、天武天皇の呪術として、見事に成立しています。
しかし、これは隠密裡の呪術でありますから、
表だっては、女神二神となります。

だとしたら、この矛盾をあえて推し進めるほど、
「女神」の力は「男神」より優れた神威を持っている、
と天武天皇は考えていたと思わざるを得ません。
やはり、< 万物を産み出し、万物を育み、万物を
抱擁する霊力を持ったものが女神である >として
捉(とら)えていたに違いありません。

伊勢神宮の女神二神は、弥生時代の女性霊力信仰のみ
ならず、縄文時代から続いている女性霊力信仰(土偶)
を取り入れている、と推測できるのです。

伊勢神宮の斎王(さいおう)は女性です。
女性の血の穢(けが)れがことさらに忌(い)まわれた
時代に、日本の神社の総元締めともいうべき伊勢神宮は、
この点を忌避(きひ)しませんでした。
それは、とりもなおさず女性の霊力信仰を優先したことに
他ならないと思われます。
神様は、女性上位。
大嘗祭と伊勢神宮を探究して、率直な、直観、として
以上のように思わざるを得ませんでした。


(5)本居宣長の食前・食後の感謝の歌の素晴らしさ


いつ頃始まったのか分かりませんが、神職関係の
研修会などにおいて、食事の際、
本居宣長(もとおりのりなが)の和歌を詠い、
食前感謝と食後感謝のお祈りをしているようです。

この和歌に天照大御神と豊受大御神が出てきますので、
まさに、伊勢神宮、そして大嘗祭のことを詠っている、
ととらえることが出来ます。

今日において、この作法を広めて行くことは、
素晴らしい日本文化の精神、国柄を
知らしめることになりますから、
あえて、このブログで記します。

◎食前感謝のうた

たなつもの 百(もも)の木草(きぐさ)も 
天照(あまてら)す 日の大神の 恵(めぐ)み得てこそ

「たなつもの」とは、五穀を指すもので、
木草は木の実や作物のことでしょう。

この意味は、「稲(五穀を代表)や全ての木草の育みは、
天照大御神の恵みによってこそであり、
日々の糧を得られることに感謝します」でしょう。

◎食後感謝のうた

朝宵(あさよひ)に もの喰(く)ふごとに 
豊受(とよう)けの 神の恵みを 思へ世(よ)の人

この歌の意味は、「毎朝毎晩の食事のたびに、
豊受大御神からの恵みを感謝しましょう、
瑞穂の国の人々よ」という意味でしょう。

※深読みですが、世(よ)は、米・稲の意味が
 ありますから、瑞穂の国の民よ、という意味も
 含まれているのではないでしょうか?
※この二首は、どちらも、
 短歌集『玉鉾百首(たまぼこひゃくしゅ)/1786年』
 の中で本居宣長が詠んだ歌です。

この二首ですが、天照大御神と豊受大御神が
出てくるところから、伊勢神宮と大嘗祭を意味している
と思われます。

それは、本居宣長の生まれて育ったところは、
伊勢神宮の近くであるからです。
(本居宣長が執筆していた頃は、大嘗祭が復活しています。
感激したことであろうと思います)

伊勢神宮と言えば、太陽と稲の神殿、とも言われています。
やはり、究極は、稲の実りに感謝しているものと思われます。

植物は、光合成、つまり、光と水と二酸化炭素で
澱粉を作ります。これが基本です。
< 本来、地球上のあらゆる動物が生きる原点は、
植物の光合成によって作られる糖類を食べることにある。>  
これは科学や技術がどんなに発展しても変わらない、
といわれています。地球上の食料バランスを
象徴するものでもあります。

つまり、太陽(光合成)が無くては、
稲は育たないのです。
稲は太陽の光を浴びながら成長していき、
熱い真夏の太陽の季節には、成長のピークに達します。
稲穂に太陽エネルギーをいっぱいに含んだ、
重く頭を垂れた稲を、私たちはいただくのです。
稲(米)は、太陽の恵みを宿した食べ物だと
言えるのです。
我々は、その稲を食べることで、間接的に
太陽の恵みを受けとることができるのです。
つまり、太陽=天照大御神の恵みを
受け取っているのです。

◎では、豊受大御神のありがたさとは?

伊勢神宮外宮に祀られている豊受大神は、
穀物や食物を司る神様で、
天照大御神の御饌津神(みけつかみ・食事の神)
として迎えられた神様です。

つまり、太陽=天照大御神のエネルギー(光合成)
によって育まれ、稔(みの)った稲は、
豊受大御神によって、見守られ、守護されているのです。
言葉を代えれば、稲の生長を担保する、安全保証の
神様なのです。
私は、そればかりではなく、稲そのものが
豊受大御神であると、思っています。
つまり、稲魂として祀られる豊受大神と、
稲魂を祀る豊受大神、です。

日本酒は、稲(米)から作られています。
天照大御神と豊受大神に感謝しながら、そして太陽の
エネルギーを感じながら、聞こし召していただきたい。
また、豊受大神は、酒造りの名人(神)である事も
思い出していただきたい、と思うわけです。


(6)夜空に輝く、北極星と北斗八星を眺め、日本の国柄を描いている
       世界最強の呪術を思い出して欲しい


最後に、何度も載せて恐縮ですが、天武天皇が
北極星・北斗八星に描いた世界最強の呪術絵を載せて
終わりにします。
この北極星・北斗八星の呪術絵の中に、天武天皇が
伊勢神宮と大嘗祭に施した日本の国柄が
描かれているからです。
千三百年もずっと、北斗八星(外宮・豊受大神)は、
北極星の周りを毎日一周しながら、万世一系の
天皇中心の、百姓(おおみたから)が飢えることのない
大八洲瑞穂国(おおやしまみずほのくに)として
永遠に続くよう、祈っているのです。
勿論、北極星(内宮・天照大御神)も宇宙の中心に
位置し、八州の百姓(おおみたから)の幸せを
祈っているのです。
本居宣長にとっては、天武天皇の呪術は
漢意(からごころ)だとして嫌うでしょうが、
前述している本居宣長の二首の歌も勿論、
この中に含まれます。

外国にいても、北半球ならば
北極星・北斗八星(肉眼では難しいが)は
見ることが出来ます。
外国においても、日本国の国柄を確認することが出来る、
天武天皇の世界最強呪術の壮大さに、
我々は感歎せざるを得ないのです。

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次のブログ連載は、高松塚古墳とキトラ古墳の真実
について、記します。
いままで、なぜ、高松塚古墳壁画とキトラ古墳壁画は
描かれたか、の動機と本義について語った者はいません。
壁画が語っている声を皆様にお届けします。
それは、天皇に対する、大ロマンなのです。


畑さん.jpg

畑アカラ氏 プロフィール

昭和22年生まれ。静岡県出身。藤枝東高校卒。
明治大学政経学部卒業(蒲生ゼミ・村落社会調査)。
広告制作会社(株・漫画社)に勤務後、フリー。イラスト・ライター。
日本児童出版美術家連盟会員。
「8の世界」と「ハートの世界」の、オンリーワンの探究者。
「一般社団法人8月8日はハートの日協会」理事長。
「8月8日はハートの日」を全世界に広めるため活動中。
世界を一つに繋げることの出来るツール・・
それが「8月8日はハートの日」。
著作・歴史書:『古代天皇家「八」の暗号』(徳間書店)。
『古代天皇家の謎は「北斗八星」で解ける』(徳間書店) 
著作・エッセイ(画・文):『猫ノーテンキ』(草思社)、
『猫っ可愛がりのことわざ草紙』(毎日新聞)、
『きょうも猫日和』(徳間書店)。 
月間絵本・作絵:『ハーリーちゃんとハーティちゃん』
『にじをつくろう』(チャイルド本社)。
かみしばい:『からすのかーすけ』(教育画劇)。等々。
趣味はテニス。素人作曲(楽器は演奏できません)。サッカー観戦。

【最新著書ご紹介】

【大嘗祭・天皇号・伊勢神宮】 この国永遠の疑問を解く

[新装版]古代天皇家「八」の暗号

第10回目 『大嘗祭と伊勢神宮においても、稲は八の世界である-その⑤』

第10回目 
『大嘗祭と伊勢神宮においても、稲は八の世界である-その⑤』


(1)㉕ 心御柱(しんのみはしら)の形態と八
(2)㉖ 八重榊(やえさかき)
(3)㉗ 天平瓮(あめのひらか)八百口と八寸
(4)㉘ 心御柱と抜穂(ぬいぼ)「八荷(か)」の神事
       ・・・八の世界

(5)㉙ 内宮の心御柱は北極星と、外宮の心御柱は北斗八星と
       繋がっている・・・天地に描く宇宙軸


前回
に引き続き「八」について記します。
これまで、直接、稲と関係のないことまで記しましたが、
八の世界は全てに繋がっています。
背景を知ることで、稲と八の世界がよりはっきりと
見えてくるのです。
八の世界の一覧は、伊勢神宮の心御柱(しんのみはしら)
と八の関係をもって終了とします。
(丸数字は前回からの通し番号です)

(1)-㉕ 心御柱(しんのみはしら)の形態と八


◎心御柱(しんのみはしら)・概略

伊勢神宮においては、
< 心御柱(しんのみはしら)は語るべからず >
という古くからの言い伝えがあります。
心御柱(しんのみはしら)は、内宮と外宮の正殿の
床下中央に建てられます。

最も大切な神秘の柱と言われている心御柱は、
正殿(しょうでん)の中央に鎮座するご神体である
神鏡の真下に立てられた床まで達しない柱で、
伊勢神宮の中心の場所を示します。
八州(やしま・日本)の中心と言っても過言では
ありません。
いやいや、宇宙の中心という意味も含んでいるのです。

心御柱は、遷宮(せんぐう)のつど新たに立て直され
ますが、社殿からは独立して床下に20年、
古殿地(こでんち)に20年、計40年その位置を
占めています。
40年は、八で割り切れる数です。
なぜ遷宮年が20年なのか、諸説がありますが、
40年という視点に立てば、八で割り切れるという
ことと関係あるのかもしれません。

※古殿地(こでんち)・・・・現在の社殿が建てられる
前の敷地。20年ごとに交替する。
玉石が一面に敷かれた空間。中央に心御柱を
覆(おお)う小さな覆屋(おおいや)がある。

◎心御柱と八の関係

心御柱は、五色の絹をまきつけられ、
「八重榊(やえさかき)」で飾られます。
そして、さらにそのまわりに、「八百枚」(八十枚
という説もあり)の丸く底の平たい
「直径八寸の天平瓮(あめのひらか)」とも
いわれている皿を、積み重ねられる、と言われています。
※(鈴木義一・「天平瓮について」『伊勢神宮』・
所 功・講談社学術文庫・参考)

心御柱(しんのみはしら)の長さは、五尺で、地上三尺、
根二尺ともいわれています。
また、心御柱の先端には、「八枚の榊の葉」
付けられる、という説もあります。

だいたいにおいて、このような説が広まっています。
八の世界でもありますね。
しかし、次のような説もあり、驚かされます。

◎寛文年間(一六六一~一六七三年)に自省軒宋因が
書写した『大神宮心御柱記異本』によりますと、
「心御柱にする檜は長さを八尺」に切り「八角に削り」
朝廷に差し出し、天皇の身長の所に印をつけてもらい、
そこで切ったといいます。
そして、この柱に鏡をかけて黄金の鉢にのせ、これも
黄金の榊をそえて立てたとあります。
それゆえ、「心御柱」は天皇の玉体そのものであり、
黄金の色は葦牙(あしかび)を示しているといいます。
(高橋俊隆・宮家準著『神道と修験道』)。

◎聞きかじりですが、外宮の心御柱は、石である、
との説も耳にしたことがあります。

◎また、心御柱を立て替えるとき、心御柱を覆う
のではなく、地下に穴を掘り、天平瓮(あめのひらか)
八百枚を入れた上に半分埋めた形で立てて、
周囲を榊で飾る、という説もあります。

かように、多くの説があります。
ただ言えることは、心御柱もやはり八の世界で
構築されていることです。


(2)-㉖ 八重榊(やえさかき)


八重榊(やえさかき)は、心御柱(しんのみはしら)
の周りを飾るものと思われます。
鎌倉期成立の度會行忠(わたらいゆきただ)撰
『心御柱秘記』によると、心御柱の先端には、八枚の
榊の葉が付けられる、と言われています。
この場合の八枚の榊の葉と八重榊とは、
八州(独立国・日本)の州々(くにぐに)から
集められた榊が心御柱におさめられているという、
実際はそのようでなくても、そのような意味を
持たせているのであろうと、推測できます。

「一枚の榊の葉=一州」であるから
「八枚の榊の葉=八州(やしま・独立国・日本)」
となります。
また、「一重榊(ひとえさかき)=一州」であるから
「八重榊(やえさかき)=八州(やしま・独立国・日本)」
を表します。


(3)-㉗ 天平瓮(あめのひらか)八百口と八寸


「天平瓮(あめのひらか)」については、次のように
言われています。
<< 心御柱(しんのみはしら)の周りに安置される
という「天平瓮(あめのひらか)」は、古くから
神秘の取り扱いとされています。

心御柱と同様、「天平瓮」は、「その図ありといえども
神慮(しんりょ)恐れあり、因(よ)ってこれを略す」
とか「神宮に伝来の旨ありて、その職にあらざる神官
は知らざる事なり」とされている。 >>
(『伊勢神宮の衣食住』・矢野憲一・東京書籍・参考)

心御柱におさめられる、神秘の取り扱いを受けている
「天平瓮(あめのひらか)」について、
私なりに推測してみようと思います。
天平瓮(あめのひらか)の大きさは八寸です。
八咫鏡(やたのかがみ)の咫(た)は、周制の八寸の
ことを表しています。
ならば、< 天平瓮の大きさ=八寸=咫 >となります。
よって、「咫(た・八寸)の天平瓮(あめのひらか)」
と言えます。

八咫鏡(やたのかがみ)の「八・や」は、数の八を
意味すると共に、大きい、立派な、素晴らしい、
神秘的、等々の意味を含みます。
また、数霊(かずだま)の霊威も持ち合わせています。
それは、尊称、美称でもあります。
仮に、天平瓮(あめのひらか)に尊称・美称の
「八・や」を付ければ、
「八咫天平瓮(やたのあめのひらか)」となります。
やはり、単なる「八寸」ではありません。
「八寸」の意味は、かように重たいのです。

また、天平瓮を心御柱に八百口おさめることは、
古代日本の聖数「八・や」の意味を含んでいるものと
思われます。
なぜ八口ではなく八百口なのかは、私の全くの憶測
ですが、神秘性ゆえ「心御柱」を覆ってしまう必要から、
その数になったのだと思います。

勿論、八寸、八百口は「八州・やしま(独立国・日本)」
の意味も含んでいます。
さらに、想像をたくましくするならば、「八百口」は
「八百万神(やおよろずのかみ)」をも象徴している
のではなかろうかと推測できます。
つまり、天神地祗(てんじんちぎ)です。
いずれにせよ、八寸、八百口は、聖数・「八」の
こだわりの発露です。

「天平瓮(あめのひらか)」ですが、『日本書紀』の
神武紀に記されています。神武天皇の大和入りに際して、
< 天香具山(あまのかぐやま)の土で
天平瓮(あまのひらか)八十枚(やそち)を造り祭れ >
(岩波文庫)との夢の中の啓示を受け、
その通りにしたら敵を降伏させることができた、
と語られています。

また、『日本書紀』崇神(すじん)天皇紀に、
< 物部(もののふ)の八十平瓮(ゆそびらか)を
以(も)て、祭神之物(かみまつりもの)と
作(な)さしむ。
即(すなわ)ち大田田根子(おほたたねこ)を
以(も)て、大物主大神(おほものぬしのおほかみ)
を祭(いはひまつ)る主(かむぬし)とす >
(岩波文庫)と記述されています。

『古事記』においては、大国主神(おおくにぬしのかみ)
の国譲りのあとに、
「天(あめ)の八十平瓮(やそびらか)」が登場します。
『記紀』によると、「天平瓮(あめのひらか)」は、
どうやら物部と関係があり、
しかも八十(やそ)でなくてはならないようです。

「天の八十平瓮(やそびらか)」とは、敵対する
相手側の霊地の土で「天平瓮(あめのひらか)」を
作ることによって、あるいはもともと敵対していた
物部(もののべ)の「天平瓮(あめのひらか)」を
作ることによって、国を平定鎮護するという呪術の
意味合いがあったのです。

即ち、伊勢神宮の心御柱におさめられた
「天平瓮(あめのひらか)八百口」は、
元々大和(やまと)を支配していた物部(もののべ)氏の
土地と神様はもとより、八州の国の全ての土地と神様を
象徴している、と思われます。

心御柱(しんのみはしら)は、
< 八州(やしま・独立国・日本)の土と八百万神
(やおよろずのかみ)を象徴する、「八咫天平瓮
(やたのあめのひらか)」(造語)によって
守護されている >のです。


(4)-㉘ 心御柱と抜穂(ぬいぼ)「八荷(か)」の神事
       ・・・八の世界


神宮では神嘗祭(かんなめさい)の大御饌(おおみけ)
が終わった九月十六日の朝、「抜穂の神事」が
行われていました。
「八荷(か)=六十四把(わ)」を正殿(しょうでん)
の御床下(みゆかした・心御柱)におさめる神事です。

この神事は明治維新後の神宮の諸祭儀の改革で
廃止されました。
外宮だけの神事であるとされていますが、はたして
内宮にはこの「抜穂の神事」はなかったのでしょうか。

豊受大神を象徴する、外宮の心御柱(しんのみはしら)
におさめられる抜穂の「八荷(か)・六十四把(わ)」
は、一荷が一州、八荷で八州(やしま・独立国・日本)
を象徴していると推測できます。
つまり、「八束穂(やつかほ)」であり、
「八州穂(やしまほ)」(小生の造語)でもあります。
また、「抜穂八荷」は六十四把であるところから、
八卦及び六十四卦(易経)を意味していると思われます。

勿論、この「抜穂八荷」は、北斗八星と豊受大御神の
出自である、八天女も意味しているのです。


(5)-㉙ 内宮の心御柱は北極星と、外宮の心御柱は北斗八星と
       繋がっている・・・天地に描く宇宙軸


伊勢神宮は、天武天皇がそれまでの伊勢神宮を
リニューアルして、ほぼ現在の姿にしました。
心御柱はどのような意味を持っているのでしょうか?
心御柱は、内宮と外宮にあります。

◎内宮の心御柱(しんのみはしら)
内宮の心御柱の真上には、八咫鏡(やたのかがみ)が
鎮座しています。

内宮の心御柱は、真上の八咫鏡を貫き北極星に
通じています。
宇宙の中心・北極星の神を、八咫鏡を貫き、
心御柱に降ろしていると思われます。
となると、北極星の神は、八咫鏡(天照大神)と
習合して心御柱に降ろされることになります。

つまり、心御柱は、天地を繋ぐ宇宙軸なのです。

この天地の宇宙軸、つまり心御柱により、天照大神と
北極星は習合していることになるのです。
また、天皇は、北極星のことです。つまり、太一です。
よって、心御柱は、天照大神でもあり、
北極星でもあり、天皇でもあるのです。
この内宮の心御柱と北極星を結ぶ軸を、第一の宇宙軸
と名付けます。

◎外宮の心御柱(しんのみはしら)
さて、外宮にも心御柱があります。
外宮の場合はどうでしょうか?

内宮の御正体(みしょうたい)は、八咫鏡(やたのかがみ)
です。
では、外宮の御正体は何なのか?
案外、この件については、語られていません。
やはり、内宮同様、御鏡(みかがみ)であろうと
されています。

雄略(ゆうりゃく)天皇の御代に、天照大神が、
豊受大神(とようけのおおかみ)を外宮として呼び寄せ
ましたが、その時に、籠(この)神社にあった御神鏡も、
豊受大神のご神体として移られた、とされているようです。
内宮のご神体は勿論のこと、外宮のご神体も
「鏡」なのです。

外宮の心御柱は、真上にある御鏡を貫き、北斗八星に
届いています。
北斗八星は、豊受大御神であり、八天女でもあります。
北斗八星は、外宮の御鏡(豊受大神)を貫き、
心御柱と通じています。
つまり、外宮の心御柱は、天の中心である北極星を
輔弼(ほひつ)する北斗八星と天地を繋ぐ宇宙軸なのです。
これを第二宇宙軸と呼びます。

地上にも北極星と北斗八星が誕生するのです。
地上の北極星は内宮、地上の北斗八星は外宮、となります。

地上の北斗八星である外宮は、天の北斗八星の動きに
同期して、地上の北極星・内宮を、一日、一周するという、
バーチャルな真実が浮かび上がってきます。

これが、天武天皇が、伊勢神宮に施した呪術の基本です。


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私はいつも、伊勢神宮をリニューアルした時の
天武天皇の呪術のことを考えています。
それは、天武天皇が現在の伊勢神宮の姿
(リニューアル)にしたからです。

伊勢神宮においては、天武天皇以後、多くの変化があった
と想像されます。
特に、鎌倉時代、伊勢神道の活動などもあり、変化した
ものも多くあります。
しかし、いま以て、基本形は変わっていないと思います。
それは、伊勢神宮と大嘗祭はセットだからです。
この二つがセットならば、伊勢神宮のみを変えてしまう、
ということは出来ないと思われるからです。

さらに言えることは、御遷宮(ごせんぐう)のときに
御正体(みしょうたい)を覆う錦の紋様がありますが、

①内宮が屋形紋(やかたもん)、そして②外宮が刺車紋
(さしくるまもん)を使用していることが、
そのことを証明しています。


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※内宮の屋形紋(やかたもん)は、天皇(北極星)の
居場所である「大極殿」・「紫宸殿」を表現しており、
北極星と太極を表現。

※外宮の刺車紋(さしくるまもん)は、北極星を
輔弼(ほひつ)する「北斗八星・帝車」を表現しており、
北極星(習合・天照大神・天皇)の自家用車を
表現しています。

私は、いつも、密かに思っていることがあります。
天皇皇后両陛下をお乗せするナンバープレートの無い
菊の御紋入りの御料車(ごりょうしゃ)は、
北斗八星でもあるのだ、と。

屋形紋(やかたもん)と刺車紋(さしくるまもん)の
意味付けは、今日まで、千三百年にわたって
続いているのです。
そのさらなる意味付けは、夜空に輝く北極星と北斗八星に、
世界最強の呪術として、そして日本の素晴らしい
国柄として、描かれているのです。
(この件については、既に何度も述べています)

天武天皇は伊勢神宮をリニューアルし、大嘗祭を
創設しました。
天武天皇のその動機を知れば、大局は真実として
動かないのです。
いやいや、動かしてはならないのです。
天武天皇の大嘗祭創設と伊勢神宮のリニューアルの動機を
尊重しなければならないことは、独立国・日本建国の
気概を表現している、素晴らしい動機からも分かります。

この件については、既にブログ・講演等々で何度も
述べています。
出来れば拙著『大嘗祭・天皇号・伊勢神宮』を、
ご一読くださいますようお願い申し上げます。
(また、拙い講演DVDもあります)。



第9回目 『大嘗祭と伊勢神宮においても、稲は八の世界である-その④』

第9回目 
『大嘗祭と伊勢神宮においても、稲は八の世界である-その④』


(1)⑰ 天武天皇と「吉野の盟(ちかい)の八人」
       ・・・八仙信仰、そして「八色(やくさ)の姓(かばね)」

(2)⑱ 鳥居の幅八尺
(3)⑲ 鞭懸(むちかけ)8本と堅魚木(かつおぎ)8本
(4)⑳ 菅蓋(すげがさ)の柄・八角形
(5)㉑ 天(あま)の八井(やい)と八盛(やもり)の水
(6)㉒ 八十島祭(やそしままつり)
(7)㉓ 神宮・宇治橋は八の世界(八角形橋脚・擬宝珠八×二)で構築されている
(8)㉔ 大嘗祭の神事が終わったその日の、八の世界の宇治橋の
     鳥居から昇る太陽は、「日の御子(みこ)」誕生の
     特別な意味がある・・・日の出参拝を薦めます


前回
に引き続き「八」について記します。
昨年の暮れ伊勢神宮に、参拝しました。
宇治橋も八の世界ということで、その事をこのブログに
記そうと思っていたら、重大なことを発見しました。
冬至の頃、朝日が宇治橋の鳥居から、姿を現すということは、
以前から知っていました。
ならば、大嘗祭の神事が終わった日の朝日は特別なものとなります。
この件、このブログの最後に記します。
(丸数字は前回からの通し番号です)

(1)⑰ 天武天皇と「吉野の盟(ちかい)の八人」
       ・・・八仙信仰、そして「八色(やくさ)の姓(かばね)」


◎吉野の盟(ちかい)の八人

天武八年(679)五月五日、天武天皇は皇后と、
草壁皇子(くさかべのみこ)、大津皇子(おおつのみこ)、
高市皇子(たけちのみこ)、河嶋皇子(かわしまのみこ)、
忍壁皇子(おさかべのみこ)、芝基皇子(しきのみこ)
を伴い、吉野を訪れました。
ここで、有名な「吉野の盟(ちかい)」をしたのです。
天武天皇のねらいは、草壁皇子と大津皇子の二人に、
協力しあうことを約束してほしかったのです。
他の皇子はその証人として動員されたのです。

ところでなぜ六皇子なのか。
このことは、天皇と皇后を含めると「八」になるからです。
では、なぜ、「八」なのでしょうか。
道教の八仙思想なのです。
中国においては、「渡海(とかい)八仙」、
「飲中(いんちゅう)八仙」、「蜀(しょく)の八仙」
のように使われています。
その最も古いものは、『淮南子(えなんじ)』を編纂した
「淮南(わいなん)八公」を呼ぶ「八仙」です。
「八仙」「八公」は、道教的な八人の賢人を意味する言葉です。
天武天皇は自分たちを「八公」「八仙」になぞられたのです。
以上のような内容として、福永光司氏は述べています。
 (『日本の道教遺跡』・朝日新聞社・福永光司・参考)
しかし、それだけではありません。
勿論、日本の聖数「八・や」のことも、念頭にあったはずです。
例えば、古事記には、八組の八柱(やはしら)の神様が誕生します。
天武天皇は、この古事記のことも意識していたはずです
(古事記は完成していなかったが、編纂を命じたのは天武天皇)。

◎八色(やくさ)の姓(かばね)

「八色(やくさ)の姓(かばね)」とは、それまでの豪族を、
新しい中央集権的な支配組織の中に組み込むための、
八種の家格を示す称号です。
天武天皇によって定められました。
 (1)真人(まひと) (2)朝臣(あそみ)
 (3)宿禰(すくね) (4)忌寸(いみき)
 (5)道師(みちのし) (6)臣(おみ)
 (7)連(むらじ) (8)稲置(いなき)

なぜ八グレードにしたかは、単に八という数字重視のためであり、
ある程度、名目的なものであったとされています。
「吉野の盟(ちかい)」と「八色(やくさ)の姓(かばね)
を考えますと、天武天皇の「八好み」が感じられます。


(2)⑱ 鳥居の幅八尺


大嘗祭での鳥居の広さは、八尺、高さは九尺であると、
資料にあります。
八尺の広さは、渡御(とぎょ)のロードの道幅に合わせて
作られたと思います。

鳥居の幅八尺とは、八州(やしま・日本)の門、
という意味をもたせている、と推測できます。
中古までは、柴垣内の地面に「八幅の布単(ふたん)八条」が
敷かれた、といわれています。
古代日本の聖数「八」を表現していることは間違いありません。

私見ながら、天皇は、地上の廻立殿(かいりゅうでん)から、
北斗八星・帝車(ていしゃ)にお乗りになり、
八幅の布単(ふたん)八条が敷かれた道を、
そして「八尺」の門を通って、八重畳(やえだたみ)が
設置してある高天原(たかあまはら)の
悠紀(ゆき)殿・主基(すき)殿に到着するのです。


(3)⑲ 鞭懸(むちかけ)8本と堅魚木(かつおぎ)8本


◎鞭懸(むちかけ)8本

「唯一神明造(ゆいいつしんめいづくり)」を眺めていて、
いつも、大変気になって仕方がないもの、
それは「鞭懸(むちかけ)」の数です。

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伊勢神宮の神明造に付けられている「鞭懸(むちかけ)」は、
上図のようになっています。
大嘗祭の際に造られる、悠紀(ゆき)殿、主基(すき)殿にも
付いています。

※この部分が描かれていない古い図もあるので、
初めから必ずあったのかは定かではありません。
明治天皇、大正天皇、昭和天皇、平成天皇の大嘗宮には
付いていました。

「鞭懸(むちかけ)」は、「小狭小舞(おさごまい)」
ともいいます。
「鞭懸」の棒は、破風(はふ)の頂点近くに、
左右4本ずつあります。
合計8本。
※破風(はふ)とは、切妻(きりづま)造りや
入母屋(いりもや)造りの妻側にある三角形の部分。

この8本は、もう片方の破風(はふ)の頂点近くにありますから、
それも足すと、総数16本になります。実に不思議な棒です。
なぜ8本なのか。神社における聖数、つまり古代日本の聖数
「八・や」を、表しているような気がしてなりません。
いや、毅然(きぜん)とそれを主張しているように思われます。
前に述べたように「八開手(やひらで)」は
「八州(やしま)」を表現しています。
ならば、鞭懸(むちかけ)も「八州(やしま・日本)」を
表現している、と考えられます。

◎堅魚木(かつおぎ)8本

堅魚木(かつおぎ)は、神社建築や古墳時代の豪族の
住宅の棟上に横たえて並べた円柱状の装飾の部材です。
形が鰹節に似るところからこう呼ばれたとされています。
本来の用途は,草ぶきの屋根が風に飛ばされないように,
棟と構造体をつなぐ部材として用いられたと考えられます。
後には、天皇など高貴な人物の住いのシンボルとなり、
また、神社建築のシンボルとして用いられるようになった
と思われます。
伊勢神宮内宮は10本。外宮は9本です。
そして大嘗宮では8本。

大嘗宮の8本は、稲の収穫祭として、また、天皇継承儀礼として、
大変、相応しい数です。
これまで記してきたように、大嘗祭における、
八の世界・・・八重畳(やえだたみ)、御膳(みけ)八神、
八角形高御座(たかみくら)、八開手(やひらで)、
北斗八星・・・等々を表現しているとも、推測可能です。


(4)⑳ 菅蓋(すげがさ)の柄・八角形


大嘗祭において、廻立殿(かいりゅうでん)から、
悠紀(ゆき)殿・主基(すき)殿に渡御(とぎょ)するとき、
天皇の頭上にさしかける菅蓋(すげがさ)の柄は八角形です。
菅蓋(すげがさ)は、八角形の柄で支えられているのです。
ここにも、八の世界が、見て取れます。
渡御(とぎょ)される道には、中古までは、
「八幅の布単(ふたん)八条」が敷かれたのです。
そこに八角形の柄で支えられた菅蓋(すげがさ)を、
渡御(とぎょ)する天皇の頭上に差しかけるのです。
八の世界が、表現されています。
深読みですが、菅蓋(すげがさ)の柄の八角形は、
北斗八星・帝車(ていしゃ)を表現しているのでは、
と思ってしまいます。
ならば、天皇を北斗八星・帝車にお乗せして、
高天原(たかあまはら)の悠紀(ゆき)殿・主基(すき)殿に
届けるという、象徴的な意味を含んでいるのではなかろうか、
と思うわけです。

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(5)㉑ 天(あま)の八井(やい)と八盛(やもり)の水


前述していますが、大嘗祭において奏上される
「天神寿詞(あまつかみのよごと)」には、
「天(あま)の八井(やい)」の物語が語られています。
天上の神聖な「天(あま)の八井(やい)」から
湧き出る水は、それが地上に雨として降り、人々の
生命の水として、また五穀豊穣をもたらす水、
という物語です。

伊勢神宮にも同様な物語があります。
それが「八盛(やもり)の水」です。
天の聖なる水は、同じ「八・や」、つまり
「天(あま)の八井(やい)」と「八盛(やもり)の水」
で表現されています。
古代日本の聖数「八・や」は、ここでも使われているのです。
天からの水や雨は、神話からして
「天(あま)の八水(やみず)」(造語)と言っても
過言ではありません。

「天(あま)の八井(やい)」の水も
「八盛(やもり)」の水も、古代日本の聖数「八・や」
の意味を踏まえていることは勿論のこと、
「八州(やしま・日本)」の意味も当然含んでいると
思われます。

深読みですが、「天(あま)の八井(やい)」の水と
「八盛(やもり)」の水は、「八」ということで、
北斗八星を意味しているのでは、と、
ふと思ってしまいます。
北斗星は、水を地上に注いでいる、という
伝承もあります。
ならば 「天(あま)の八井(やい)」=「八盛(やもり)」
=北斗八星(八天女)と言えるのではないでしょうか。

しかも、北斗八星になぞらえられる八天女は、
地上に降りて水浴するのが大好きですから、
水と縁があるのです。

ここでも、伊勢神宮と大嘗祭は「セット」である、
ということが分かります。


(6)㉒ 八十島祭(やそしままつり)


かつて大嘗祭(だいじょうさい)とともに、天皇の
一世一度の大祭がありました。
八十島祭(やそしままつり)です。
八十島祭は、天皇の即位の後おこなわれる大嘗祭の、
その翌年に実施される祭儀です。
岡田精司(せいし)氏によると、この祭は、
難波津(なにわづ)において、即位した王者に
「大八州(おおやしまぐに)」の霊を付着させる
天皇独占の儀礼と考えられる、としています。
「八十島」とは、辞書によれば、多くの島を意味する
とあり、日本を意味するとは出ていません。
(『広辞苑』・『日本国語大辞典』)

不思議です。『記紀』によれば、まず「八島」が
誕生しました。
そして、「大八州(おおやしまぐに)」とも
表現されました。
日本は「八・や」で表現されたのです。
八十島(やそしま)も「八・や」です。
やはり、日本を表していると思います。
よって、「八十島」は、「八州(やしま)」であり、
「八十島祭」は「大八州祭(おおやしまぐにまつり)」
であろうと思います。


(7)㉓ 神宮・宇治橋は八の世界(八角形橋脚・擬宝珠八×二)で
       構築されている


内宮への入口、五十鈴(いすず)川にかかる宇治橋は、
日常の世界から神聖な世界を結ぶ架け橋といわれています。
その宇治橋ですが、八の世界で表現されていることは、
あまり知られていないようです。

◎擬宝珠(ぎぼし)の数は八

欄干(らんかん)の上に、片側8個の擬宝珠(ぎぼし)
があります。
両方合わせて、16個となります。
八の世界ですね。

昨年の暮れに伊勢神宮に行きましたが、その時、
新たに気づいたのは、小さな橋の場合でも、
擬宝珠(ぎぼし)の数は、片側4個で、
両方で8個となっていました。
トコトン8にこだわっています。

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◎橋脚は八角形

床板や欄干(らんかん)は檜(ひのき)で
作られていますが、橋脚の部分は
水に強い欅(けやき)を使用します。
その橋脚ですが、何と、八角形なのです。
八角形の意味は、度々述べています。
この場合の八角形は、「八足(やつあし)の机」
と同様、八州(やしま・日本)の民によって
支えられている、という意味を含みます。


(8)㉔ 大嘗祭の神事が終わったその日の、八の世界の宇治橋の
       鳥居から昇る太陽は、「日の御子(みこ)」誕生の
       特別な意味がある・・・日の出参拝を薦めます


宇治橋の鳥居ですが、冬至を中心として前後約1か月、
鳥居から昇る美しい日の出を望むことができます。
これは、次のような、大変重要な意味を含むと思われます。

伊勢神宮と大嘗祭は、セットである事は何度も述べています。
大嘗祭は、冬至の日を想定して斎行されます。
※冬至の日を「想定」ですから、正確な冬至の日では
ありません(旧11月の第二卯の日に斎行されます)。

天皇は、大嘗祭の神事において、
天照大神(北極星と習合)と共食をし、
天照大神(太陽)の御子(みこ)、
つまり「日(ひ)の御子(みこ)」となられます。

神事が終わるのは、冬至の次の日の「日の出まえ」です。
つまり、冬至の日の次の日の「日の出まえ」に、
「日の御子(みこ)」としての天皇が誕生するのです。

大嘗祭神事が夜明け前に終わり、新天皇が
「日の御子(みこ)」として誕生した、
最初の太陽(天照大神・習合北極星・新天皇)が、
宇治橋の鳥居から、出現するのです。

ですから、毎年の新嘗祭は、「日の御子(みこ)」
である天皇の確認と言うことになります。

よって、冬至の日を想定した大嘗祭と新嘗祭の神事は
夜明け前に終わりますが、その直後に宇治橋の鳥居から
昇る太陽は、特別な太陽(天照大神・習合北極星・新天皇)、
ということになります。

特に、冬至の日を想定した大嘗祭の神事が終了した後に
昇る太陽は、まさに、新天皇が「日の御子」になられた、
その姿を輝かせているのです。

神宮に問い合わせましたら、この日に昇る太陽を、
宇治橋の鳥居で拝む神事はないとのことです。

我々は、大嘗祭の神事が終了したその日に、
伊勢神宮の宇治橋の鳥居から昇る太陽を、特別な思いで
拝む必要があるのではないでしょうか。

日本の新天皇が「日の御子」として誕生した、
最初の日の出を、厳粛な、そして慶賀の気持ちで、
拝む必要があるのでは、ないでしょうか。

いやいや、そればかりではありません。
例えば、この日となれば、富士山頂上からのご来光も
特別なものとなることでしょう。
勿論、日本国中、いやいや、世界中のどの場所に置いても、
大嘗祭の神事が終了した最初に昇る太陽は、
特別なものなのです。

次の大嘗祭には、その特別な太陽を拝みたいのですが、
小生は多分生きていないでしょう。

ならば、新嘗祭の神事が終了したその朝に昇る太陽を
拝むこと、この必要性を感じています。

まずは、この日の太陽は特別な意味を持っていること、
その意味を皆様に知っていただくこと。
そして、なるべく多くの人達が日の出参拝に参加
出来るようにすること。

私は、突然ですが、大嘗祭と新嘗祭の神事が終了した
その朝に昇る太陽を拝む日の出参拝の運動を
しなければならないと、このブログを書いていて、
ふと、思った次第です。


第8回目 『大嘗祭と伊勢神宮においても、稲は八の世界である-その③』

第8回目 
『大嘗祭と伊勢神宮においても、稲は八の世界である-その③』


(1)⑩ 「八角形高御座(たかみくら)」と「八角形天皇陵」は、
     それぞれが、天皇の「誕生」と「死」を表現している

(2)⑪ 大嘗祭と伊勢神宮の「抜穂(ぬいぼ)の神事」は「八の世界」
(3)⑫ 八束穂(八握穂・やつかほ)は、八州穂・八卦穂・北斗八星穂
(4)⑬ 稲舂(いねつき)の儀・・・八乙女(やおとめ)と八角形臼(うす)
(5)⑭ 「渡御(とぎょ)」と「八幅の布単(ふたん)八条」
(6)⑮ 天照大神との共食(御酒八度)・節会(せちえ)
(7)⑯ 八足机(やつあしのつくえ)、八足案(はっそくあん)の意義



前回
に引き続き「八」について記します。
その国、或いは民族において、聖なる数が何であるか
を明らかにする方法は、宗教的儀式において
どの数詞を多く使用しているかを知ることです。
日本における宗教儀礼においては、
圧倒的に「八・や」が使用されています。
よって、日本における聖数は、「八・や」と
言えるのです。
「八・はち」は、末広がりだから縁起が良いと
言われていますが、それはその通りなのですが、
「八・はち」は、中国の数え方ですから、
日本における聖なる数の根拠とはなりません。
日本における聖なる数の根拠は、
縄文時代からの数え方「八・や」にあります。
(日本の「八・や」と中国の「八・はち」は、
習合して、さらなる強固な聖数となったのです)
その事例を、このブログで是非とも知って欲しいのです。
(丸数字は前回からの通し番号です)

(1)⑩ 「八角形高御座(たかみくら)」と「八角形天皇陵」は、それぞれが、天皇の「誕生」と「死」を表現している


飛鳥時代においては、天皇即位式は
八角形・高御座(たかみくら)で行い、
天皇が崩御(ほうぎょ)した後は
八角形天皇陵に葬(ほうむ)られました。
飛鳥時代においては、
①天皇の誕生は「八角形高御座(たかみくら)」で表現され、
②天皇の死は「八角形天皇陵」で表現されていました。
つまり、八角形で、天皇の「誕生」と「死」が、
表現されていたのです。

勿論、八角形ですから、
「八角=八辺=八州=北斗八星=八卦」の意味を
持たせていたと推測できます。
しかし、八角形天皇陵の初めは舒明(じょめい)天皇陵(改葬)と
分かっていますが、八角形高御座(たかみくら)は
いつ始まったのかは、確定出来ていません。
高御座(たかかみくら)の始まりを推測するならば、
多分、八角形舒明(じょめい)天皇陵(改葬)を造った
皇極(こうぎょく)天皇あたりからだと、推測できます。
(高御座と八角形天皇陵については、過去において
何度も述べていますので、これ以上は割愛します)


(2)⑪ 大嘗祭と伊勢神宮の「抜穂(ぬいぼ)の神事」は「八の世界」


大嘗祭と伊勢神宮においては、
「抜穂(ぬいぼ)の神事」があります。
両方とも、「八の世界」で表現されています。

◎大嘗祭の「抜穂の儀式」は、「造酒児(さかつこ)・
稲実公(いなのみのきみ)・酒波(さかなみ)など八人」と
「八把(わ)」で表現 

大嘗祭において、悠紀田(ゆきでん)・
主基田(すきでん)に稲穂がたわわに実る頃、
八神殿の[御膳(みけ)八神]に見守られながら、
「抜穂(ぬいぼ)の儀式」が行われます。

<< まず造酒童女(さかつこ)・稲実公(いなのみのきみ)・
酒波(さかなみ)など八人が、田の四方から二人ずつ入り、
御田中央の稲の穂先を、最初に造酒童女(さかつこ)が摘み、
次いで稲実公(いなのみのきみ)その他の順で摘む。
抜穂は四握(あく)で一把(わ)にくくり、
三十二把をそろえて神部(かんべ)に渡す。
神部はそれを八把ずつ目籠(めかご)にいれる。 >>
(『大嘗祭』・鳥越憲三郎・角川書店・参考)

やはり、抜穂の儀式も、「八」と関係しているのです。

八神殿の[御膳(みけ)八神]に見守られながら、
悠紀(ゆき)田・主基(すき)田に入る
< 抜穂する人が八人 >であることは、
八州(やしま・日本)のそれぞれの州(くに)の
代表の集まりを象徴しているのです。

また、抜穂が、
< 神部(かんべ)によって、抜穂が
八把(四握×8=三十二握)ずつ目籠(めかご)に
入れられる >
ことも、八州(やしま・日本)の意味を含んでいると
推測できます。

この場合、「抜穂八把」と、「抜穂する人・八人」は、
古代日本の聖数「八(や)」はもとより、
八州(やしま・日本)を代表しているという意味を
含んでいるのです。

共食をする天照大神(北極星と習合している)と天皇を
太極(北極星)として考えれば、
「抜穂八把」と「抜穂する人・八人」は、
八州(独立国・日本)を代表する
という意味合いが強いゆえ、
「八卦=北斗八星」に配されていて、天照大神と天皇を
守護しているという、推測も成り立ちます。

◎伊勢神宮の神嘗祭の「抜穂の神事」の抜穂八荷・・・
心御柱(しんのみはしら)に供える抜穂

外宮の神嘗祭(かんなめさい)は、旧九月十五・十六日に
行われました。
満月の日ですね。
しかし、この十六日の早朝、外宮では神嘗祭とは別の
「抜穂(ぬいぼ)の神事」がありました。
<< 旧儀によると、外宮では旧九月十六日の朝、
「抜穂の神事」ということが行われた。
これは大物忌(おおものいみ)の父が、
耕作した御田(みた)の
「初穂(はつほ)八荷(か)=六十四把(わ)」
を担(にな)って正殿の御床下(みゆかした)に
おさめる神事で、その先頭には禰宜(ねぎ)が
榊をささげて参入したという。
この神事は明治維新後の神宮の諸祭儀の改革で
廃止された。 >>
(『伊勢の大神』・編者・上田正昭・筑摩書房・参考)

正殿の御床下(みゆかした)、つまり
心御柱(しんのみはしら)に抜穂・八荷をおさめた
ということから、「八の世界」の呪術が想像できます。
この神事の内容は、心御柱が意味するコスモロジィ的な
深遠な哲理を含んでいます。

伊勢神宮において、御飯(みけ)・米・稲穂
に関しては、「八」の世界観、宇宙観で統一されている、
といっても間違いではないと思います。

◎心御柱(しんのみはしら)とコスモロジィ的な八の関係は、
後日、記します。


(3)⑫ 八束穂(八握穂・やつかほ)は、八州穂・八卦穂・北斗八星穂


大嘗祭において、天皇の祝詞(のりと)があります。
この中に、「八握穂(やつかほ)」が出てきます。

桜町天皇は、先帝のとき再絶した大嘗祭を
元文3(1738)年再興して儀制の整備をはかりました。
そのとき、大嘗祭において、
天皇が祝詞(のりと)を唱えられたのですが、
文言(もんごん)の中に、「八(や)」が出てきます。
< 八握穂(やつかほ)にしなひたるを御食(みけ)に
奉(たてまつ)りて・・・ >
です。

「やつかほ」は、「八束穂」と書く場合と
「八握穂」と書く場合があることが分かります。
いずれにしても、「八の世界」です。

天武天皇は、大嘗祭、伊勢神宮の祭祀儀礼等に関して
「八州(独立国・日本)」に「八卦=北斗八星」を
配する呪術を施(ほどこ)しています。

よって、大嘗祭と伊勢神宮(リニューアル)においては、
天の北斗八星に
「八束穂(やつかほ)=八握穂(やつかほ)
=八州穂(やしまほ)=八卦穂(はっかほ)
=北斗八星穂(ほくとはちせいほ)」
を描く呪術となります。


(4)⑬ 稲舂(いねつき)の儀
              ・・・八乙女(やおとめ)と八角形臼(うす)


※前回のブログ『初めて語る天皇と大嘗祭の真実-第2回目』
簡単に述べていますが、再度記します。
大嘗祭において、稲(米)は、八乙女(やおとめ)によって
稲舂(いねつき)された後、悠紀膳屋(ゆきかしわや)と
主基膳屋(すきかしわや)に運ばれ、料理されます。
そのとき、八乙女が稲舂歌(いねつきうた)を歌いながら
搗(つ)きます。
この行為は、稲穂の刈り取りによって死んだ穀霊が、
冬至に復活することを促すための所作である、と
鳥越憲三郎氏は述べています。

臼(うす)の形は、外側周りが八角形です。
そして、搗(つ)く人は八乙女です。
やはりここでも、稲(米)に対しては「八の世界」が堂々と
顔を出しているのです。
もし、この行為が復活を意味するならば、まさに偶然ですが、
キリスト教の復活を意味する八角形の洗礼盤を
想像してしまいます。

八乙女は、八州(やしま・独立国・日本)の
それぞれの州(くに)を代表している集まりである、
という見解は、既に述べています。

臼(うす)が八角形であることは、八角形が全世界や国全体を
意味することから、この場合、八州(独立国・日本)を
表現している、との推測も可能です。
一辺あるいは一角が、一州を表現していることになります。

となると、
< 八州(独立国・日本)の
それぞれの州(くに)から集まってきた八乙女が、
稲舂歌(いねつきうた)を歌いながら、
八州(やしま)を意味する八角形の臼(うす)で
八州(やしま・日本)を意味する八束穂(やつかほ・米)を
搗(つ)く >
という状況がなりたつのです。

勿論、ここでの八乙女は、八州のそれぞれの州(くに)
から来た八乙女ではありませんが、
悠紀(ゆき)国と主基(すき)国の二国の八乙女で、
八州全体を表現しているのです。
儀式としてそのような意味を持たせることが、
大切なのです。

「八角形臼(うす)」については、明確に八角形である
ことから、「北斗八星・八卦」の意味も含まれている、
との推測も可能です。

すなわち、
「八角形臼(うす)=八乙女=北斗八星=八州(日本)=八卦」
の意味が込められていたと思われます。
いずれにしろ、稲、米に対しては、とことん「八」にこだわる、
というのが大嘗祭の儀式なのです。


(5)⑭ 「渡御(とぎょ)」と「八幅の布単(ふたん)八条」


天皇が渡御(とぎょ)される廻立殿(かいりゅうでん)から
悠紀殿(ゆきでん)までの道筋に、大蔵省が
二幅の布単(ふたん)を敷きます。
中古までは、柴垣内の地面に八幅の布単八条が
敷かれたのです。
(『大嘗祭』・鳥越憲三郎・角川書店)
※布単とは、単(ひとえ)の布のことで、遷宮(せんぐう)・
遷座(せんざ)・行幸(ぎょうこう)などの際、
その道筋に敷く白布。

私見ながら、天皇の渡御(とぎょ)は、
地上の廻立殿(かいりゅうでん)から、
北斗八星の帝車(ていしゃ)に乗って、
高天原(たかあまはら)の悠紀(ゆき)殿、
主基(すき)殿に昇天していく姿を表現していると、
思われます。

「八幅の布単(ふたん)八条」は、聖数「八」の意味を含むことは
勿論のこと、「八州(やしま)(独立国・日本・北斗八星)」の
意味も含み、八州の君主として「八州のロード」を歩むことをも、
象徴していたのではないでしょうか。


(6)⑮ 天照大神との共食(御酒八度)・節会(せちえ)


『江家次第(ごうけしだい)』大嘗祭には、「御酒八度」との
記述があり、また『大嘗祭卯日御記』には、
< 白酒四杯、黒酒四杯 >との記述があります。

天照大神と新天皇との共食の儀で、
「八度」と記されていることは、注目に値します。
この場合においても、一度が一州であり、
八度で八州(やしま・独立国・日本)を象徴していると思います。
部屋のほとんどを占める「八重畳」の脇で、
天照大神と新天皇が、「八度」の御酒の儀を行うことは、
やはり大嘗祭は、「八の世界」であると言えるのです。

◎新天皇誕生の祝宴
       ・・・祝いの節会(せちえ)・「酒杯数・四杯・四度・八度」

大嘗祭神事の後の儀礼として、
祝いの節会(せちえ)があります。
白酒(しろき)、黒酒(くろき)が供せられます。
白酒は当時のこととて濁り酒ですが、
黒酒は常山木(くさぎ)の灰を入れて黒くしたものです。
それぞれ四杯を四度、併せて八度に供します。
そして諸卿にも一献賜(たま)わられます。
そして悠紀(ゆき)国の風俗歌を奏しますが、
古くは悠紀国の国司に率いられて
八人が歌いながら入って歌舞したのです。
(『大嘗祭』・鳥越憲三郎・角川書店・参考)

この「四杯・四度・八度」の儀式は、
「八開手」および「八度拝」と同様な意味を持つもの
であろうと想像されます。
つまり、聖なる数「八・や」の意味を表現している
と共に、最高のグレードを示す儀礼形式を
表しているのです。

三三九度と違って、四・四・八というところが、
面白いですね。
三三九度は、漢文化の影響です。
「四・四・八」のこの儀式は、日本古来のものと
考えられます。
この「四・四・八」が、最高の儀礼形式とされている
ことは、「八」の探究者にとっても、これほどの喜びは
ありません。 
白酒(しろき)黒酒(くろき)は、陰陽を表しています。
また、< それぞれ四杯を四度、併せて八度に供する >
のですから、一度が一州を意味し、
八度で八州(やしま・独立国・日本)を表現しています。

また、八度に八卦(はっか)を配すれば、
「陰陽八卦(八度)」となります。
さらに、この八度=八卦に、八州(やしま)と
北斗八星を配せば、デザイン表現は次のようになります。

『北極星=天照大神(北極星・天皇)』
『北斗八星=白酒・黒酒(しろき・くろき・四杯・四度
・八度・八州(やしま・独立国・日本)』
ならば、大嘗祭においては、
天の北斗八星に、白酒(しろき)・黒酒(くろき)が
描かれているデザイン図を想像できます。
それはもうロマンの世界でもあるのです。


(7)⑯ 八足机(やつあしのつくえ)、八足案(はっそくあん)の意義


※八足案(はっそくあん)とは、幣帛(へいはく)・
神饌(しんせん)・玉串(たまぐし) 等を
お供えするための台です。
八脚案(はっきゃくあん)、神饌台(しんせんだい)、
八足(はっそく)と呼ばれます。
また、総称して、案(あん) と称されることもあります。

神饌(しんせん)をお供えする形式として、
八足机(やつあしのつくえ・はっそくのつくえ)、
八足案(やつあしあん・はっそくあん)があります。
昭和の大嘗祭のときの神饌として、羮(あつもの)八足机、
御酒(みき)八足机、御粥(おかゆ)八足机、
御直会(なおらい)八足机が行立(ぎょうりゅう・用意)
されました。

この八足机(やつあしのつくえ)の八足の数は、
勿論、古代日本の聖数「八・や」を表すものです。
深読みしますと、八州(やしま・独立国・日本)の意味も
表現していると推測されます。
一足(一脚)が一州を意味し、八足(やつあし・八脚)で
八州(やしま・独立国・日本)を意味するのです。
八州(日本)のそれぞれの州(国)が集まって、
八足机(やつあしのつくえ)を構成している、
という意味合いなのです。
また、八足机(やつあしのつくえ)は、八州(やしま)の
それぞれの州(くに)の人々が集まった
「八州人(やしまびと)」に支えられている、
という意味もあります。

大嘗祭において、八足机(やつあしのつくえ)の上に
載せられる天照大神(北極星と集合している)と
天皇に捧(ささ)げられる神饌(しんせん)は、
独立国・八州(やしま・日本)の大地に立ち、
八州(やしま・独立国・日本)のそれぞれの州(くに)と
それぞれの人々によって支えられているという、
八足机(やつあしのつくえ)の象徴的な意味が
あったのだと推察できるのです。

今日においても、八足机(やつあしのつくえ)は
神社において使用されています。
八足机(やつあしのつくえ)は神前結婚式において
必ず並べられます。
左右に分かれている八足机(やつあしのつくえ)は
構造上、決して丈夫とは言えません。

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しかし、それは、古代日本の時代から、
「八州(やしま・独立国・日本)と八州人(やしまびと)」
の意味を象徴している机の形式であったのです。

我々は、そのことを忘れてしまったのです。
「八の世界」の切り口でのみ、
八足机(やつあしのつくえ)の意味が
解明されるのです。

我々は、古代日本人の、建国当時の気持ちを、
忘れ去っているのではないでしょうか。
初めて聖なる数の国・八州(やしま)と称した頃の
熱い気持ちを。
そして、大嘗祭と伊勢神宮(リニューアル)において、
さらに律令制度において、
独立国家を宣言(天皇号正式採用)した、
当時の熱い気持ちを。
まさに、八足机(やつあしのつくえ)は
独立国・八州(やしま・日本)を象徴しているのです。
我々は、古代日本人の気持ち・気概を
察してあげなくてはならないのです。

第7回目『大嘗祭と伊勢神宮においても、稲は八の世界である-その②』

第7回目 
『大嘗祭と伊勢神宮においても、稲は八の世界である-その②』


(1)⑥ 天皇は、「八隅知之(やすみしし)・わが大君」 
(2)⑦ 世界最強の国の呪術表現を含む「八州(やしま)」と、
     国とは八方なりとした則天文字(そくてんもじ)「圀(くに)」の、
     意味深さを知って欲しい

(3)⑧ 八百万神(やおよろずのかみ)は、会議で決定するのが好き
(4)⑨ 天皇(独立国)と誇りを持って記した
     日本独自の律令制度「二官八省(にかんはっしょう)」と、北斗八星と八卦



前回
に引き続き「八」について記します。
古代日本の聖数は「八・や」です。
ならば、当然、天皇、伊勢神宮、大嘗祭も古代日本の聖数
「八・や」によって、儀礼・所作が行われていて、当然です。
もし、古代天皇家が日本の聖数「八・や」を採用して
いなかったならば、天皇家のルーツは日本とは異質な民族と
いうことになります。
古代天皇家は、「八・や」を最も重視してきたのですから、
古(いにしえ)の日本から続いてきたと言えるわけです。
稲とは直接関係ありませんが、その基礎となっている八州
(やしま・日本)の国柄を表現している「八・や」について、
前回に引き続き記します。
(丸数字は前回からの通し番号です)

(1)⑥ 天皇は、「八隅知之(やすみしし)・わが大君」 


天皇を表現している「八・や」は、
[八隅知之(やすみしし)・安見知之(やすみしし)]です。

「八隅知之(やすみしし)」とは、国の隅々まで知らす
(治める)意です。
または、「安見知之(やすみしし)」で、安らかに、
たいらけく知ろしめす意です。
「わが大君」にかかる枕詞(まくらことば)として用いられています。

読み方が「八・や」であることからして、古代日本の
聖数「弥栄(いやさか)の八(や)」の意味を持ちます。
よって、素晴らしい、目出度い、永遠、大きい、等々の
意味も含まれます。
また「八隅(やすみ)」とは、『古事記』『日本書紀』に
記されている「八荒(はっこう)」「八紘(あめのした)」と
同義となり、国の範囲を超えて、世界、宇宙、の範囲をも示します。

ならば、「八隅(やすみ)=八荒(はっこう)=八紘(あめのした)=
八州(やしま・日本)=国・世界・宇宙」とも言えるのです。

柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)を初め、持統天皇、
等々多くの歌人がこの言葉を用いています。
和歌の作者は「八隅知之(やすみしし)」と歌いあげるとき、
「八・や」の言霊(ことだま)・数霊(かずだま)の霊威が、
八州(日本)にいきわたる、というイメージを描いていたに
違いありません。

やすみししわが大(おお)君(きみ)(大王)・・・という表現が
『古事記』4例、『日本書紀』4例、そして『萬葉集』には
27例あります。

天武天皇によって、天皇号を正式に採用したことにより、
天皇(北極星)は現人神(あらひとがみ)となり、
権威を高めたのです。
天皇号を正式に採用したことで、北極星である天皇は、
武力で国家を治められているのではなく、天照大神(太陽の神)の
「日の御子(みこ)」としての権威によって治められているのです。

大嘗祭における神座・八重畳(やえだたみ)は、
天照大神(太陽)と北極星(天皇)がお休みになる
場所(習合)であります。
その八重畳(やえだたみ)ですが、「やすみしし」の
二つの意味を持っていると推測できます。
つまり、八重畳は、神座であるとともに寝座でもありますから、
安見知之(やすみしし)の意味も含まれていると推測可能です。
つまり、[八隅知之(やすみしし)と、安見知之(やすみしし)]です。


(2)⑦ 世界最強の国の呪術表現を含む「八州(やしま)」と、国とは八方なりとした則天文字(そくてんもじ)「圀(くに)」の、意味深さを知って欲しい


「八(や)」は、日本においては他の数詞と冠絶した聖なる数
であり、この「八(や)」を冠した八州(やしま・日本)の
意味を知る人は少ない。

古代日本においては、日本を「八・や」の数字で表現しています。
例えば、『古事記』『日本書紀』においては、
伊邪那岐命(いざなきのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)との
国造りで「八島(やしま)」を誕生させ、この島々全体を
「大八州(おおやしまぐに)」としました。
この「八島・八州」ですが、八つのそれぞれの島の名称は、
一定していません。
よって、初めに日本を表す八島(八州・やしま)があり、
あとから八つの島の名を当てはめていったのです。

八州(やしま・日本)は、聖なる数「八・や」を含んだ
古代日本を表現していましたが、天武天皇の時代からは、
単なる八州ではなく、世界最強の国の意味を含むことに
なりました。

天武天皇の世界最強の呪術の根幹は、「八州(日本)」と
「北斗八星」・「八卦」を組み合わせたことによります。
天武天皇の世界最強の呪術については、既に、何度も述べています。
この件については、前回のブログにて、
(3)世界最強の呪術は、北斗八星にあり」で記しています。

◎天皇尊号と八州・・・その型式

律令制(りつりょうせい)における天皇の尊称は、
次の詔書(しょうしょ)式により記されています。
その詔書(しょうしょ)の中に、海外向けの型式文書と
国内向けの型式文書があります。

(一)海外向けは、 
明神御宇日本天皇(あきつみかみとあめのしたしらすやまとのすめらみこと)
詔旨(おおんごと・らまと) 

(二)国内向けは、 
明神御大八洲天皇(あきつみかみとおおやしましろしめすすめらみこと)
詔旨(おおんごと・らまと)

(一)は、蕃国(ばんこく)ないし隣国向けに宣する文書の形式です。
蕃国は新羅(しらぎ)を意味し、大唐は隣国を意味しています。
これに対し、(二)、は国内向けに宣する文書形式です。

国内向けの詔書(しょうしょ)式には、
「大八洲(おおやしま)」の語が入ります。
「大八洲(おおやしま)」を入れる場合は、立后(りっこう)、
立太子(りったいし)、元日朝賀を受けるときのような、
国内向けの朝廷の大事を宣するときであって、外国向けに
大事を宣する場合は、(一)のように「日本」を入れます。

「日本」は比較的新しい言葉です。
しかし、「大八洲(おおやしま)」は「日本」よりずっと前から
言われてきた言葉です。
この「大八洲(おおやしま)」を日本向けとして採用したことは、
大八洲に含まれる意味内容を、つまり古代日本の文化を大事に
残しておく、という意味合いを感じさせられます。
勿論、「八・や」の呪術的効果も含まれていると思われます。

(一)と(二)は、最も大事な場合の詔書式です。
気になることがあります。
それは、文字数についてです。何と、それぞれが合計八文字なのです。
これは偶然でしょうか。いやいや、私は、呪術であろうと思います。

あえて言います。天皇尊号の八文字は呪術であって、
日本の聖数「八・や」の全ての意味を含んでいるのであると。

◎則天文字(そくてんもじ)の「圀(くに)」は、
国とは八方なりを、表現しています

日本には自国を表す言葉として「八州(やしま)」があります。
国とは、八州、であると主張しています。
そして、天武天皇は前述しているように、
八州に世界最強の呪術を施しています。

偶然ですが、中国唯一の女帝である、則天武后(そくてんぶこう)は、
天武天皇とほぼ同じ時代、呪術的な則天文字を17字作り、
その中に「圀(くに)」という字を加えています。

この「圀(くに)」という文字は、囗(くにがまえ)に八方と書き、
国とは八方なり、と主張しています。

ならば、「八州(やしま)=圀(くに)」です。

この「八州」と則天文字・「圀」との共通点は、
「八」という数字で国を表していることです。

中国においては、中国全土を表す言葉は「九州」であるはずなのに、
則天武后は圀の文字の中で、「八方」と主張しています。
「八州(やしま)=圀(くに)」・・・
この概念の一致は、あまりにも偶然すぎます。

天武天皇は、則天文字・「圀」が誕生する前に、
「圀」の概念である「国とは八方なり」の国家造りを、
すでに終えていたのです。
※天武天皇崩御(ほうぎょ)は686年。
則天文字の「圀」の字の誕生は695年。

これはどういうことなのでしょうか?
不思議です。
この偶然さには、さすが驚きを禁じ得ません。

◎この不思議な事例の前にも、もう一つの不思議があります。

「天皇号」の問題です。
天武天皇が中国・高宗(こうそう)天皇の天皇号を真似たと
いう説に対し、私は逆に、高宗天皇の后である則天武后が
日本において慣用されていることを知りながらも採用したのである、
との説を述べています。(『古代天皇家「八」の暗号』)
高宗の天皇号採用は、674年。天武天皇即位は673年。
微妙ですね。


(3)⑧ 八百万神(やおよろずのかみ)は、会議で決定するのが好き  


八百万神(やおよろずのかみ)、というのが古代日本からの考え方です。
あらゆるものに神は宿る、ということです。

「八百万神(やおよろずのかみ)」の文献上の初見は、
『古事記』上巻の「天(あめ)の岩屋戸(いわやと)」の段に
ある「八百万神(やほよろづのかみ)、天(あめ)の安(やす)の
河原に神集(かむつど)ひ集(つど)ひて」です。

大嘗祭において奏上される「天神寿詞(あまつかみのよごと)」の
中にも「八百万神」の言葉が出てきます。

『日本書紀』の場合は、「八十万神(やそよろずのかみ)」であり、
「八百万神(やおよろずのかみ)」は登場しません。

また、大祓詞(おおはらえのことば)にも「八百万神」と言う
言葉が二度出てきます。
 
『記紀』において、多くの神を表現する言葉は、
「八・や」の付く言葉に厳しく限定されています。
八百万神(やおよろずのかみ)、八十萬神(やそよろずのかみたち)、
八十神(やそかみ)、百八十神(ももあまりやそかみ)、等々です。
また、『古事記』において、数詞の付く神名は、
ほぼ「八・や」に限られている、と言ってよいでしょう。
神を表現する数詞、それは「八・や」であるのです。

◎八百万神の神は、「神はかり」をして決定する
※「神はかり」とは、神々が会議を開いてどうすべきか判断し決定すること。
神々のはからい。

万葉集のなかに、柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)の
日並皇子(ひなみしのみこ)、つまり草壁皇子(くさかべのみこ)に
対する挽歌があります。

「天地の 初の時  ひさかたの 天の河原に 八百万(やおよろず) 
  千万神(ちよろづがみ)の 神集ひ 集ひ座して 神はかり はかりし時に」
(2-167)です。

意味は、天地の初発の時に、天の河原に、八百万神、
千万神たちが集まり、天地を統治する神を相談して
決定したという歌です。

柿本人麻呂が、八百万神、千万神たちが集まり、
知恵を出し合い審議をするという「神はかり」について
歌っていることは、大変重要なことです。

神様は、話し合いが大好きなのです。
独断では決めないのです。
天武天皇の時代は、確かに独裁的でした。
しかし、神様に対する認識から分かることは、相談して決めろと
いうことでした。
このような認識は大変重要なことであり、天武天皇の時代において、
独裁的決定ではなく、君臣が審議し、君は臣下の意見を十分に聞いて
政(まつりごと)を行うようにという、考えがあったとも考えられます。

天武天皇が創設した大嘗祭の特徴は、新嘗祭と違って、
民の参加を必要とする、「君民一体」にあります。

神様だって合議をします。
人間においても当然合議すべきことなのです。
日本における八百万神は、このことをも教えてくれるのです。
何と素晴らしい八百万神さまでしょうか。


(4)⑨ 天皇(独立国)と誇りを持って記した日本独自の律令制度「二官八省(にかんはっしょう)」と、北斗八星と八卦

古代日本は、中国の律令制度(りつりょうせいど)を
採用しましたが、そっくりそのままではありません。
日本にあった律令制度に改良しました。
例えば、内容としては、宦官(かんがん)制度、科挙(かきょ)制度は
採用しませんでした。
そして、律令制度の組み立て構成型式としても、
日本独自のものとしたのです。
それが、中国と違った型式である「二官八省(にかんはっしょう)」です。

何故、日本独自の「二官八省」にしたのでしょうか?
それは、八の呪術でもって、律令制度が八州(やしま・日本)に広まり、
国力が付くようにと願ったからです。

端的に言えば、「二官八省」とは、
「八州(独立国・日本)と八卦(はっか)」を暗に象徴しています。
即ち、「二官は陰陽太極」、「八省は八州(日本)と八卦」として
デザインしたものと思われます。
また、八省は、八州(やしま)のそれぞれの州(くに)の集まりであり、
八州人(やしまびと)の参画・奉仕の象徴としての意味でもあります。
また、逆に、八州(やしま・独立国・日本)を八省で統治するという、
八卦(はっか)の呪術的なイメージもあったと思われます。
勿論、太極(天照大神)としての天皇(北極星)であり、
天皇を守護する八卦としての「二官八省」でもあります。

しかし、何ということでしょうか、中国の律令制度の骨組みには、
「易経八卦(えききょうはっか)」の呪術は見られないのに、
日本においてのそれは、「易経八卦」の呪術を独自に施して、
制度の安寧(あんねい)と発展を願っていたのです。
実に面白い現象です。

日本古来の「八州(やしま・日本)」の概念と、
中国の易経八卦(えききょうはっか)の概念とを一緒にして、
中国とは違った日本独自の組織デザイン・「二官八省」を
作ってしまったのです。

いやいや、それだけではありません。
天武天皇は、北斗八星に多くの意味を持たせています。
何と、二官八省の八省を北斗八星に描いたのです。
 
次のように言えます。
北極星=二官(陰陽)=太極=天皇
北斗八星=八省=八卦

律令制度は、近江令(おうみりょう)の存在も考えられますが、
天武天皇が天皇号を正式に採用したとなれば、天武天皇が
整備したと思っています。
ならば、天武天皇の最強の呪術である、
「北極星(太陽・太極)北斗八星(八州・八卦)」の呪術を、
律令制度に施しても当然なのです。

日本の律令制度は、夜空に描く、世界最強の呪術に保護された
「二官八省」なのです。
天に描く日本の律令制度・・・何と素敵なデザインであることか!!

◎律令制度において、「王号」ではなく「天皇号」を記したことは、
独立国の宣言でもあり、その心意気の表れでもあったのです。

天武天皇は、正式に天皇号を採用しました。
このことは、中国皇帝属国拒否であり、独立国家である事を意味します。
日本の律令は、天武天皇によってほぼ作られたと思っています。

ならば、飛鳥浄御原 (あすかきよみはら) 令を経て、701(大宝1)年、
大宝律令の完成によって初めて国家法典が完備したのですが、
天武天皇は、飛鳥浄御原 (あすかきよみはら) 令において、
誇りをもって天皇と記したと思われます。

律令制の中で、独立国の象徴である「天皇」という言葉を
正式に記すこと、これが第一の眼目であったと、
天武天皇の探究者として、断言できます。

※ちなみに、唐の律令制度は、「職事官(しきじかん)」の勤める
役所として、中央には、六省・九寺(じ)・一台、等々があり、
それらの上には「三師」「三公」が立っています。
※『日本書紀』持統天皇四年七月の記述として、「八省」は、
(やつのすぶるつかさ)と訓読みさせています。(岩波書店・文庫)




第6回目 『大嘗祭と伊勢神宮においても、稲は八の世界である-その①』

第6回目 
『大嘗祭と伊勢神宮においても、稲は八の世界である-その①』


(1)大嘗祭における八重畳(やえだたみ)の本義を発見
(2)「御膳(みけ)八神」と「宮中八神=御巫(みかんなぎ)八神」
(3)世界最強の呪術は、北斗八星にあり
(4)八開手(やひらで)と八度拝(はちどはい)の意味深さを知らずして、日本を語れない
(5)「三種の神器」は、全てを「八(や)」で表現したかった

今回のブログ内容は、大嘗祭と伊勢神宮における、
稲と八の事例を記すことですが、大嘗祭と伊勢神宮そのものが
八の世界で構築されていますので、何回かに分け、
「八の世界」全般についても、紹介しようと思います。


前回のブログ連載
で「八の世界」の事例を
列挙しませんでしたので、この場を借りて、記します。
そのほうが、「八の世界」の重大さが、
分かっていただけると思うからです。


(1)大嘗祭における八重畳(やえだたみ)の本義を発見

大嘗祭において最も重要な場所を占めているのが、
第一の神座(寝座)・八重畳(やえだたみ)です。
八重畳の意味を解明することなしに大嘗祭は語れないのです。

新天皇は、天照大神(北極星と習合)と新穀(主として米と粟)を
共食することで天皇継承の資格を得ますが、その神事を行う場所の
半分弱を占めるのが、八重畳(やえだたみ)です。

大嘗祭における八重畳は、二つの重大な意味を持っています。

① 一つ目は、天照大神(太陽)と北極星が、ご休寝し習合する

場所としての八重畳です。この習合説は、小生のみが唱えている、
衝撃的な説です。
大嘗祭と伊勢神宮(リニューアル)はセットです。伊勢神宮において、
天照大神と北極星は習合しています。よって、大嘗祭においても
同様に習合しているのですが、習合場所として考えられるのは、
最重要の「八重畳(やえだたみ)」しかないのです。
(詳しくは、前回のブログ『初めて語る天皇と大嘗祭の真実』
あるいは本『大嘗祭・天皇号・伊勢神宮』を参照してください)

② 二つ目は、いわゆる折口信夫(おりくちしのぶ)先生が述べた

「真床覆衾(まとこおふすま)」説で、天皇が御衾(おふすま)に
包まれるか、坐(ざ)すかの仕草をする場所としての八重畳です。

近頃、岡田莊司(しょうじ)先生は、折口信夫(おりくちしのぶ)
先生の真床襲衾(まとこおふすま)説を否定していて、天皇は、
八重畳に近づかないとの説を唱えています。

私は、折口信夫(しのぶ)先生の真床襲衾(まとこおふすま)説に
原則賛成です。
但し、新天皇が采女(うねめ)と同衾(どうきん)していたとか、
遺骸と一緒に寝ていたとか、等々のおどろおどろしい儀式はないと
断言できます。
それは、大嘗祭を創設した天武天皇の後、持統天皇(女性)、
文武天皇(男性)、元明天皇(女性)、元正天皇(女性)、へと
女性天皇も即位しているからです。


真床襲衾(まとこおふすま)説の根拠は、次の通りです。


ニニギノミコト → 山幸彦 → 
鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)の直系三代にわたり、
真床襲衾(まとこおふすま)の活用場面が、『日本書紀』に出て
くるからです。
私は、この事例を無視する勇気を持てないのです。

八重畳は、日本そのものを象徴しています。つまり、
「八州(やしま・独立国・日本)=八重畳(やえだたみ)」です。
勿論、「一重畳(ひとえだたみ)=一州」で、八州のそれぞれの
畳が集まって、八重畳を形成しているのです。

八重畳は、八角形高御座(たかみくら)のような、
天皇の資格継承儀礼の場であると、私は理解しています。

hata_blog_200417.jpg

(2)「御膳(みけ)八神」と「宮中八神=御巫(みかんなぎ)八神」

大嘗祭においては、亀卜(きぼく)によって、
二箇所の斎田・斎場の場所が決められ、
その斎場[悠紀殿(ゆきでん)・主基殿(すきでん)]には、
八神殿(はっしんでん)が建てられます。

祭神は
< 御歳神(みとしのかみ)、高御魂神(たかみむすひのかみ)、
  庭高日神(にはたかひのかみ)、大御食神(おほみけのかみ)、
  大宮女神(おほみやのめのかみ)、事代主神(ことしろぬし)、
  阿須波神(あすはのかみ)、波比伎神(はひきのかみ) >
です。
これを「御膳八神(みけはっしん)」といいます。

この八神殿の「御膳(みけ)八神」は、大嘗祭の準備期間(8月上旬)から、
最後(12月上旬)まで見守り守護しています。
 
大嘗祭で使用される米(稲)は、亀卜(きぼく)によって場所が決められ、
そこで作られるのですが、そこは、八柱(やはしら)の神様の八神殿が
建てられ、「御膳(みけ)八神」に見守られる斎田となります。

まさに、米(稲)とは「八」であると、主張しているようです。
それにしても、なぜ八神なのでしょうか?

この答えを、適切に述べている人はいません。
『古事記』においては、八神がセットとなって誕生する場面が
多く見られます。偶然ながら、その事例は、何と、
8ヶ所におよびます(その事例は割愛)。
 
なお、「御膳(みけ)一神=一州」であり、
「御膳八神(みけはっしん)=八州(やしま・独立国・日本)」と
考えられます。

既にブログにて記してありますが、この大嘗祭の「御膳(みけ)八神」は、
伊勢神宮の外宮・豊受大神(北斗八星・八天女)と習合しており、
大嘗祭において、最も大切な役割を担(にな)っていたのです。

「御膳八神(八神殿)=豊受大神(外宮)=北斗八星」であると推測できます。

ならば、内宮に当たるのは大嘗宮であり、その中の八重畳(やえだたみ)
とも、推測可能です。

※八神殿は、「大嘗祭の御膳(みけ)八神を祀(まつ)る八神殿」と
「宮中八神=御巫(みかんなぎ)八神を祀る八神殿」とがあります。

◎ 「宮中八神=御巫(みかんなぎ)八神」

宮中において、天皇守護のために斎(いつ)き奉(たてまつ)られてきた
神々の代表が、「宮中八神=御巫(みかんなぎ)八神」です。

神祇官(じんぎかん)の御巫(みかんなぎ)によって奉斎されます。
その八神とは

< 神産日神(かみむすひのかみ)、高御産日神(たかみむすひのかみ)、
  玉積産日神(たまつめむすひのかみ)、生産日神(いくむすひのかみ)、
  足産日神(たるむすひのかみ)、大宮売神(おおみやのめのかみ)、
  御食津神(みけつかみ)、事代主神(ことしろぬしのかみ) >

の八柱(やはしら)の神様です。

現在は宮中三殿の一つである「神殿」に、八百万(やおよろず)の
天神地祇(てんじんちぎ)とともに祀られています。

※御巫(みかんなぎ)とは、神祇官(じんぎかん)に置かれた女官。
亀甲を焼くなどして吉凶を占い、また、神嘗祭(かんなめさい)、
鎮魂祭(ちんこんさい)などの神事に奉仕した未婚の女性。
(『日本国語大辞典』・小学館)

「宮中八神」は、大嘗祭(旧歴・十一月第二卯の日)前日の寅の日に
斎行される鎮魂祭(ちんこんさい)において、祭られます。

「御膳(みけ)八神」同様、宮中八神の一神は八州(やしま・日本)の
一州を意味し、八神で八州となります。
つまり、「八神=八州(日本)」なのです。
八神のどの神がどの州をさすかということではなく、
それぞれの州(一神)の代表が集まって八州(八神)を形成している
という、その意味合いが大切なのです。

更に言えば、「宮中八神」には、天皇を北極星(太極)として、
その周りに宮中八神を配するという、「北極星(太極)北斗八星(八卦)」
の呪術も施されている、と思われます。
一覧すれば次の通りです。

< 宮中八神=八州(やしま・独立国・日本)=北斗八星=八卦(はっか) >
とする呪術です。

※天武天皇が、それまで存在していた宮中八神を整えたという説もあります。
呪術のエキスパートの天武天皇です。ならば、
「北極星(太極)北斗八星(八卦)」の哲理を念頭に置いていたと推測できます。

このことをデザイン表現すならば、次の通りです。
「北極星(天照大神・太陽・天皇)北斗八星(宮中八神・八州・八卦)」

(3)世界最強の呪術は、北斗八星にあり

天武天皇は、北斗七星ではなく、北斗八星とすることで、
世界最強の呪術を創作しました。その呪術は、万世一系の
天皇をいだく八州(やしま・日本)の国柄全てを、
夜空に輝く「北極星と北斗八星」に、描いたのです。

その呪術は、前回のブログで記していますが、次の通りです。

北斗八星=外宮=豊受大神=八天女=八州(日本)
=帝車=大匙=八束穂=御膳(みけ)八神(大嘗祭)=八卦

この中でも特に素晴らしいことは、天武天皇は、日本の民が
飢えることのないように、北斗八星に八束穂(やつかほ)を
描いて祈っていることです。
八束穂(やつかほ)は、高天原で天照大神が作っていた
[斎庭(ゆにわ)の穂(いなほ)]を意味します。
それが、永遠のものとして現在も続いているのです。
この素晴らしさを、我々は知らなければなりません。
北斗八星については、世界最強の呪術として、前ブログにおいて、
詳しく述べていますので、ここまでとします。


(4)八開手(やひらで)と八度拝(はちどはい)の意味深さを知らずして、日本を語れない

八開手(やひらで)と八度拝(はちどはい)は、天皇、
そして伊勢神宮に対する、最高の儀礼作法です。

外宮の御饌殿(みけでん)で、朝夕二度の御饌(みけ)を
お供えする祭があります(前回の5回目のブログに記しています)。
この毎日の祭を、日別朝夕大御饌祭(ひごとあさゆうおおみけさい)
といいます。
「八度拝(はちどはい)」という神宮独特の丁重な拝礼を繰り返してから
神饌(しんせん)をお下げし御扉を閉めて退下(たいげ)します。

何故、「七開手」、「九開手」、「七度拝」、「九度拝」ではなく、
「八開手(やひらで)」「八度拝(はちどはい)」なのでしょうか。


このことは、古代日本においては、「八」が最高の聖数であったことを
示しています。しかも、日本最高の格式を持った伊勢神宮と、
天皇に対する拝礼の作法であるところに、「八の世界」の神聖さが
感じ取られます。勿論、大嘗祭においても行われます。

八開手(やひらで)は、八遍拍手(かしわで)することを一段とし、
四段、即ち、三十二遍するのを極とします。
拍手・柏手(両方「かしわで」と読ませます。
ちなみに、柏手は拍手の読み違えであると言われています)

拝を重ねることを再拝と言い、再拝を重ねることを両段再拝、
または四度拝と言います。そして両段再拝・四度拝を重ねる
ことを八度拝と言います。

「八開手(やひらで)」「八度拝(はちどはい)」は、
古代日本の聖数「八(や)」の意味は勿論のこと、
八州(やしま・日本)も象徴しています。

ということは、一拍手(かしわで)が一州を象徴している、
と推測しても見当はずれではありません。
一拍手(かしわで)が一州の全ての民を象徴しているとすれば、
『八拍手(やかしわで)=[八開手(やひらで)]』で、
八州(日本)全ての民[八州人(やしまびと)]を表現している
こととなります。

つまり、

< 八開手(やひらで)=八拍手(やかしわで)
    =八州(やしま・日本)=全八州人(やしまびと) >

です。

また、次のようにも言えます。

「八開手(やひらで)」は、一拍手(かしわで)の打つ響きが
一州であり、「八拍手(やかしわで)」でその響きは
八州(日本)全体に響きわたる、という意味を持ちます。

そもそも「八・や」が発する「開a音」は、
最高の数霊(かずだま)の霊威(れいい)を持っていますから、
「八開手(やひらで)」という言葉の持つ数霊の霊威と、
「八拍手(やかしわで)」が発する八州(日本)全体に
響きわたる霊威は、その相乗効果により絶大な最強の霊威を
発していることとなります。

※縄文時代からの数え方「ひ・ふ・み・よ・い・む・な・や・こ・と」のなかで、
「や」が最も大きな口を開けることから、古代人は、
言霊(ことだま)の霊威(れいい)が最もあると思ったと推測できます。

さらに、一拍手(かしわで)が「北斗一星と一卦」を表現しているとなれば、
「八拍手(かしわで)=(八開手)」で「北斗八星と八卦」となります。

 デザイン表現としては、
[北極星(天照大神・天皇)北斗八星(八開手・八州・八卦)]となります。

「八度拝(はちどはい)」も同様です。
しかし、「八度拝」が何故「やたびはい」と称されなかったのか。不思議です。
「八開手(やひらで)」と「八度拝(はちどはい)」が、セットであるならば、
「やたびはい」の方がすっきりします。

ならば、「八度拝(はちどはい)」は、もともと日本古来の儀礼方法では
なかった可能性もあります。しかし、『古事記』においては、
「八度拝(やたびおが)み」と記してあるから、この限りではありません。
私は、八度拝は、「やたびはい」と呼びたいのです。
古(いにしえ)の日本に思いを馳せれば、やはり、「やたびはい」です。

※ちなみに、中国(清)においては、皇帝に対する儀礼法として
「三跪九叩頭(さんききゅうこうとう)」があります。
それは、一回跪(ひざまず)き三回床に頭をつけることを
三回繰り返す拝礼の形式です。九の数は、中国では無限数を
意味するから、九が最高の礼なのです。

(5)「三種の神器」は、全てを「八(や)」で表現したかった

日本最高位の宝は、「三種の神器」をおいて他にありません。
それは
①「八咫鏡(やたのかがみ)」
②「八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)」
③「八重垣剣(やえがきのつるぎ)・草薙剣(くさなぎのつるぎ)
   ・天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」
です。
 
「三種の神器」の全てが「八・や」で表現されていることの意味の重大さに、
気づいている人はあまりにも少ないと思われます。

「草薙剣(くさなぎのつるぎ)・天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」が
正式名称ですが、どうしても古代日本の聖数「八・や」で表現したかった
のでしょうか、「八重垣剣(やえがきのつるぎ)」
「八剣(やつるぎ)」の名称が加わりました。
 
私見ながら、日本において、あらゆる言葉の中で
最も言霊(ことだま)の霊威がある言葉は「八・や」で
あると確信しています。
それは、「八」をずっと探究してきた結論です。
あえて言いましょう、古代日本の聖数「八・や」は、
言霊のチャンピオンであると。

ならば、「三種の神器」の全てに「八・や」が付くのが
相応しいことが分かります。
言霊のチャンピオンである「八・や」が、
三種揃ってこその三種の神器なのです。

「八重垣剣(やえがきのつるぎ)」「八剣(やつるぎ)」の
名称が加わったのは、このようなことがあるからです。

三種の神器とは、八州(やしま)の君主である天皇を象徴
しているのですから、三種の神器のそれぞれの名称に付いている
「八・や」は、「八州(やしま・日本)」の意味をも含んでいるのです。

(八の世界は、まだまだ続きます。次回をお楽しみに)



第5回目 『天照大御神は、何故、離れた外宮の御饌殿(みけでん)で、毎日のお食事をするのか?』

第5回目 
『天照大御神は、何故、離れた外宮の御饌殿(みけでん)で、
 毎日のお食事をするのか?』



(1)豊受大御神は、天照大御神の御饌津(みけつ)神ならば、
   食事をお届けする役目があるのでは?

(2)伊勢神宮・外宮の御饌殿(みけでん)において、
   日別朝夕大御饌祭(ひごとあさゆうおおみけさい)があります

(3)御饌殿の作りは井楼組(せいろうぐみ)で、古い型式で作られています
(4)御饌殿(みけでん)は、外宮にしかない
(5)聖武天皇の時代までは、天照大御神の御饌を、外宮から内宮まで毎日運んでいた?
(6)神饌を運ぶ途中の死穢(しえ)事件は、事実であった?
(7)天武天皇の呪術基本「北極星・北斗八星」から、どのように推測できるのか?
(8)リニューアル伊勢神宮において、外宮の御饌殿は、
   どのように解釈したら良いのでしょうか?

(9)729年以後、天照大御神が外宮・御饌殿でお食事されるのは、
   北斗八星帝車の説で解決される

(10)外宮がなくては、天武天皇の世界最強の呪術が成立しない


(1)豊受大御神は、天照大御神の御饌津(みけつ)神ならば、
   食事をお届けする役目があるのでは?


外宮の豊受大御神(とようけのおおみかみ)は、
内宮の天照大御神の御饌津(みけつ)神です。
豊受大御神は、お食事係として、わざわざ丹波国から、
天照大御神によって招かれた神様です。

ならば、何故、天照大御神が、離れた外宮でお食事を
するのでしょうか?


御饌津神の豊受大御神が、天照大御神にお食事を
お届けするのが、理にかなっていると思うのは、
小生だけでしょうか?

ところが、聖武天皇の時代まで、外宮から内宮まで
お食事を運んでいた、という説もあることが分かりました。

現在の伊勢神宮では、この説は採っていないとのことですが、
外宮の豊受大御神が、北斗八星であるならば、
この説も成立していたとも思われますので、
この件について、論じてみます。

矢野憲一氏の『伊勢神宮の衣食住』(東書選書)を参考にして、
記します。


(2)伊勢神宮・外宮の御饌殿(みけでん)において、
   日別朝夕大御饌祭(ひごとあさゆうおおみけさい)があります

外宮では、雨の日も風の日も嵐の日も一日も欠かすことなく、
外宮の御饌殿で、朝夕二度の御饌をお供えする祭があります。
この毎日の祭を、日別朝夕大御饌祭(ひごとあさゆうおおみけさい)と
いいます。常典御饌(じょうてんみけ)ともいいます。
古くは、朝御饌(あしたのみけ)・夕御饌(ゆうべのみけ)と、
称されていました。
朝御饌は午前八時(冬期は九時)、夕御饌は四時(冬期は三時)です。

御饌殿内には、六神座が設けられています。
内訳は、天照大御神と豊受大御神、そしてその相殿(あいどの)神です。

御饌殿は、外宮正宮の板垣内の東北(丑寅)隅にあり、
一般にはお屋根の部分しか拝せられません。

(3)御饌殿の作りは井楼組(せいろうぐみ)で、
   古い型式で作られています


この御饌殿は、神明造ですが、柱を使わない、横板壁を井桁(いげた)に
組み合わせて、ちょうど蒸籠(せいろう)という饅頭や茶碗蒸しなどを
蒸す器に似た構造となっています。
古においては、内宮・外宮はじめ、宝殿(ほうでん)や弊殿(へいでん)も
この型式だったとも、考えられます。

刻御階(きざみぎょかい)という一本の丸木を刻んで作った階段が付きます。

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(4)御饌殿(みけでん)は、外宮にしかない


内宮の神楽殿の隣にも「御饌殿」という建物があり、そこを時々
マスコミ関係者が間違って「神様のお食堂である内宮の御饌殿」という
写真で紹介されることがあるようです。
しかし、それは神楽殿内の御饌殿(ご祈祷をする)であり、
本来は内宮に御饌殿は存在しません。
勿論、外宮のなかった頃には、御饌殿があったと推測できます。

(5)聖武天皇の時代までは、天照大御神の御饌を、
   外宮から内宮まで毎日運んでいた?


毎日、外宮から内宮までの約5キロの道を歩いて、
天照大御神の御饌を運んだという、説があります。
矢野憲一氏は、その事を記してある
『太神宮諸雑事記(だいじんぐうしょぞうじき)』を
紹介しています。
しかし、矢野氏は、5キロの道を神饌辛櫃(からびつ)を担いで、
毎日歩いて届けていたとは、考えられないと、述べています。

平安時代に編述したという『太神宮諸雑事記』に
記してあるその部分を引用します。
私は、大変、興味を持って読みました。
何故ならば、御饌津(みけつ)神である豊受大神は、
神饌をお届け、或いは保証するのが、本来の姿で
あろうと思うからです。


<< 聖武天皇の神亀六年(729年)正月十日のこと、
   いつものように外宮でお調理した御饌を内宮へ
   お運びしている途中、内宮に近い浦田山の狭い道に
   死体が散乱しているのに出合わした。
   大物忌父(おおものいみのちち)や
   御炊内人(みかしぎのうちんど)、
   物忌子良(ものいみのこら)たち運んでいた人々は困惑した。
   だが避ける道はない、目をそらして走って通ったことだろう。
   ところがほどなく聖武天皇がご病気になられ
   神祇官陰陽寮(おんみょうりょう)で占いをしたところ、
   神宮で死穢(しえ)の不浄があった祟りだという。
   調べてみると、「実は一ヶ月ほど前、浦田山の道で・・・」と
   いうことが判明。
   奉仕者に怠状(たいじょう)を出させて大祓をし、
   今後はこういうことがあっては大変だと、宣旨(せんじ)に
   よって外宮に新たに御饌殿を建立し、外宮へ内宮の神々も
   ご参集いただくことになったと伝えられている。 >>


矢野憲一は、次のようにも述べています。

<< それでは外宮の鎮座と同時に造立されたという御饌殿は何だったか。
   御饌をお供えする殿舎ではなく、御饌を調理する殿舎、
   今の忌火屋殿(いみびやでん)のようなものだったのだろうか。 >>

さらに、矢野憲一氏は、次のように記しています。

<< 内宮と外宮の鎮座の年代は約五百年の隔たりがあると伝わる。
   それなら外宮が鎮座する以前の約五百年間は天照大御神の朝夕の
   御饌はどこでお供えしていたのだろうかと重大な疑問が生ずる。

   昔から、神宮の学者たちはこれに関していろいろと論駁考証を加えてきた。>>
   
と述べています。

さらに、次のように記しています。

<< 鎌倉時代の初期に宮司家の人の手により編述されたと
   推定される『神宮雑例集(ぞうれいしゅう)』という
   記録の「二所太神宮朝夕御饌事」の条には、
   第十一代垂仁(すいにん)天皇の御代、
   倭姫命(やまとひめのみこと)により
   内宮を五十鈴川上に創建せられたとき、
   その宮の内に御饌殿を造立し、
   そこで抜穂(ぬいほ)の田の抜穂の稲を舂(つ)き
   炊(か)しいだ御饌をお供えした。
   外宮が鎮座してからはその宮城内に御饌殿が
   造られそこへ供進することになったと伝えている。>>


現在では、この説をとり神亀六年(729年)創設という異説の所伝は
神宮ではとらないことになっている、と矢野氏は述べています。

(6)神饌を運ぶ途中の死穢(しえ)事件は、事実であった?


◎御饌を届ける時間は約一時間

不動産の「徒歩○○分」は、時速4.8kmで計算されているそうです。
これによりますと、外宮から内宮まで約一時間となります。
この一時間、微妙ですね。
歩いて届けられない距離ではありません。
ただ、雨の日、嵐の日は、かなり辛いであろうと想像できます。

◎この事件は、あまりにも具体的な記述であり信憑性があります

神亀六年正月十日、神饌を運ぶ途中、死穢(しえ)に遭遇したとの
具体例が記されているのですから、無視することは出来ないような
気がします。

この事件によって、もし、外宮に御饌殿を作るようにとの
宣旨(せんじ)が出たならば、それなりの信憑性はあるはずです。

宣旨(せんじ)とは、天皇の命を伝える文書のことですから、
宣旨があったと嘘をつくことは、あまり考えられないのでは
ないでしょうか?

(7)天武天皇の呪術基本「北極星・北斗八星」から、
    どのように推測できるのか?


◎天武天皇の呪術

天武天皇は、天皇(北極星)の証明(天照大御神と北極星の習合)のため、
伊勢神宮をリニューアルしました。

内宮においては、天照大御神と北極星を、習合した神として祀ったのです。

そして、外宮の御饌津(みけつ)神である豊受大御神を、
北斗八星・八天女・北斗八星帝車・北斗八星大匙(おおさじ)と
意味付けしました。

◎豊受大御神の出自

そもそも、豊受大御神は、延暦の
『止由気宮儀式帳(とゆけぐうぎしきちょう)』(804年)によると、
第二十一代雄略天皇の御代に、丹波国からお迎えされ、
伊勢の度会(わたらい)の山田原の現在の外宮にお祭りされた、
といわれています。(豊受大御神は八天女の一人)

豊受大御神を外宮にお招きしたその理由は次の通りです。
雄略(ゆうりゃく)天皇は、夢の中で

< 「吾(われ)一所」では
  「いと苦し」いから、丹波国(たんばのくに)の
  比治の真名井(まない)から「わが御饌(みけ)の神、
  トユケの大神」を招いてほしい >

との天照大御神のお告げを受けました。
天照大御神は、御饌(みけ)の神・豊受大御神を招いて、
安心してお食事が出来るようにしたいと、宣(のたま)ったのです。


豊受大御神は、天照大御神に対する御饌津(みけつ)神ですから、
天照大御神のお食事の面倒を見る役割を持っています。

◎豊受大御神の出自に、天武天皇の呪術が加わる

そこに加えて、天武天皇の呪術によって、豊受大御神は、
北斗八星の呪術を施され、
①「天照大御神(北極星と習合)を乗せて宇宙を駆け巡る
自家用車・北斗八星帝車」となり、
そして②「天照大御神(北極星と習合)に
神饌を運ぶ北斗八星大匙(おおさじ)」となりました。

天武天皇が、このような呪術を、伊勢神宮(リニューアル)に
施したのは、天武天皇が天皇号を正式採用したことによります。

つまり、天武天皇が伊勢神宮をリニューアルした理由は、
「天皇=北極星」であることを、そして「天照大御神=北極星」で
あることを、伊勢神宮において証明することだったのです。

そして、道教哲理により、「北極星は、北斗星を必要とする」と
いうことで、内宮を北極星とし、外宮を北斗八星としたのです。
※北斗七星ではなく、北斗八星としたところが、天武天皇独自の
呪術なのです。

(8)リニューアル伊勢神宮において、外宮の御饌殿は、
   どのように解釈したら良いのでしょうか?


◎729年までは、外宮から内宮へ、神饌をお届けしていた。

私は、次のように推測します。

729年死穢(しえ)・不浄事件があったのは確かで、
そのときから外宮から内宮への御饌のお届けは
なくなったのだろうと、思います。

よって、外宮成立以来、それまでは、外宮で今で言う
忌火屋殿(いみびやでん)のような殿で調理され、
そして内宮に御饌をお届けしたと想像されます。

(9)729年以後、天照大御神が外宮・御饌殿でお食事されるのは、
   北斗八星帝車の説で解決される


わざわざ、内宮の天照大御神が、外宮の御饌殿に出向き、
お食事するのは大変なことであろうと、想像されますが、
それは、簡単です。

それは、天武天皇が豊受大御神に施した呪術によります。

前述していますが、①豊受大御神は、天照大御神(北極星)を
北斗八星帝車にお乗せして、宇宙を駆け巡るほどの、
力をもっています。移動は、瞬時、自由自在なのです。

そして②豊受大御神は、北斗八星大匙(おおさじ)として、
天照大御神(北極星)に神饌を届ける役目を負っていて、
大匙を通して、つまり、大匙に神饌を掬(すく)って
天照大御神(北極星)に届けるのです。

ならば、天照大御神(北極星)は、外宮の御饌殿において、
毎日の御饌を召し上がることは、簡単です。

北斗八星帝車を利用する事で、つまり、
天照大御神(北極星)をお乗せして、瞬時に、
内宮から外宮の御饌殿に来ていただくことが出来るからです。
そして、瞬時に、内宮正殿の元の鎮座している座に、移動できる
のです。ならば、内宮から離れた外宮の御饌殿でも、
お食事なさることは、何ら問題は無いのです。

このように考えると、
(イ)外宮から内宮に天照大御神の御饌を運んだ説、
そして(ロ)天照大御神が、外宮の御饌殿でお食事をなさる説、
両方が成立するのです。

◎大嘗祭においても、北斗八星帝車は、大活躍

大嘗祭においても、天照大御神、北極星、そして天皇の移動は、
北斗八星帝車によって、行われています。

大嘗祭の神事は、高天原の悠紀(ゆき)殿・主基(すき)殿で
斎行されますが、天照大御神・北極星・天皇が、
そこの場所へ行くには、北斗八星帝車に乗っていくことになります。


◎外宮の創立以来の御饌殿(みけでん)説

勿論、外宮創立以来、外宮には御饌殿があって、天照大御神に
御饌をお供えしていた、という説も成り立ちます。
そこに天照大御神の座が設えてありますから、天照大御神は、
そこに存在していることになります。
同じ神宮内なので、分祀・分霊と言えないのかも知れませんが、
御饌殿においても、天照大御神は存在できるのです。

このように考えれば、外宮が出来た当初から、
外宮に御饌殿があって、ここで天照大御神のお食事を差し上げていた、
と解釈できるのです。

しかし、天照大御神が御饌津(みけつ)神として豊受大御神を招いた、
という説にたてば、やはり、お届けしていたという方が、自然です。

(10)外宮がなくては、天武天皇の世界最強の呪術が成立しない

皇字沙汰文(こうのじさたぶみ)にも、729年の事件のことが
記してあります。(皇字沙汰文とは、伊勢両宮間で皇の字を
用いる事の意義・是非等についての論争があり、その記録)
外宮については、いろいろと言われていますが、
天武天皇が外宮(リニューアル)に施している呪術こそが、
外宮の存在価値であろうと、思うわけであります。

天武天皇は、外宮の豊受大御神、つまり、北斗八星に、
多くの意味を持たせました。
北斗八星に日本の国柄の全てを描いたのです。

外宮=豊受大神=八天女=北斗八星=北斗八星帝車=大匙=八州=八束穂=八卦

それは、世界最強の呪術の根幹となり、日本国を見守り、
守護しているのです。
外宮の北斗八星は、夜空に日本の国柄・
大八洲瑞穂国(おおやしまみずほのくに)を
表現していて、それは休むことなく毎日活動している
規則正しい天の大時計でもあるのです。
我々は、外宮の重大さ、素晴らしさを知らなくては
ならないのです。

第4回『中臣氏は天神寿詞に誇らしく「天皇」と記し、「天皇誕生」を神様と共に言祝いだ』

第4回目
『中臣氏は天神寿詞(あまつかみのよごと)に
誇らしく「天皇」と記し、「天皇誕生」を神様と共に
言祝(ことほ)いだ』



(1)「天皇号」正式採用のインパクトは、易姓革命以上
(2)「天皇号」正式採用による、独立国家を証明する具体的な事例を知る人は少ない
(3)天神寿詞(あまつかみのよごと)の成立は、「天皇号」正式採用と同時
(4)「天皇号」正式採用と独立国家の歓びで、
   中臣氏は、誇りを持って「天神寿詞」に「天皇」と記し、読み上げた

(5)大嘗祭は、「食(た)べする」総合的な祭
(6)「天都(あまつ)水」は、天から降る聖なる雨
(7)実りの秋は、赤い稲穂の波
(8)中臣氏は、亀卜ではなく、太兆(太占・ふとまに)で占ったと、主張
(9)『天都詔戸の太諸刀言を以て告れ』について


今回は、大嘗祭で、必ず読まれていた、「天神寿詞(あまつかみのよごと)」
について記します。
その前に、「天皇号」正式採用について、述べさせていただきます。
このことにより、天神寿詞(あまつかみのよごと)を読み上げた時の
感動が、伝わってくるからです。
 


(1)「天皇号」正式採用のインパクトは、易姓革命以上


「天皇号正式採用」は、それまでの大和朝廷を一新させました。
それは、むしろ、国が変わる易姓革命よりも、持続的な意味において、
計り知れない変化です。

日本は、ここにおいて、つまり、「天皇号」正式採用により、
独立国としての、万世一系の天皇を中心とする神々の国、
となったのです。

天照大神を中心とする八百万神も、天皇誕生を喜んでいるのです。
その「天皇号正式採用」の喜びの表現が
「天神寿詞(あまつかみのよごと)」である、ともいえるのです。
 

(2)「天皇号」正式採用による、独立国家を
   証明する具体的な事例を知る人は少ない


「天皇号」の正式採用が、どれほど重大なことであったのか、
それを伝える人は、あまりにも少ない。
天武天皇が「天皇号」を正式に採用したことで、
成立した事例をあげれば、次の通りです。

①大嘗祭の創設
②伊勢神宮のリニューアル
③『古事記』『日本書紀』の編纂
④天皇即位式の完成
⑤律令制度の整備
⑥天神寿詞(あまつかみのよごと)の成立

何故、日本は、世界最長の国として、続いているのか?
その答えは、①~⑥を知ることによって、分かるのです。
PRになって、大変恐縮ですが、
是非とも、『大嘗祭・天皇号・伊勢神宮』
畑アカラ(ヒカルランド)をお読みください。
 


(3)天神寿詞(あまつかみのよごと)の成立は、
   「天皇号」正式採用と同時


「天神寿詞(あまつかみのよごと)」とは、天つ神が天皇を
寿(ことほ)ぎ祝う詞(ことば)の意です。

※祝詞(のりと)は、一般に人が神に申しあげる言葉です。
寿詞(よごと)は、神から人を通じて下される言葉ですから、
これを奏上することは、神の祝意を伝える、という意味です。

大嘗祭の時、または天皇が即位する日、中臣(なかとみ)氏が
これを読むのがならわしでした。
「中臣寿詞(なかとみのよごと)」とも言われています。

『日本書紀』において、持統天皇4年(690年)、
天皇即位に際して物部麻呂(もののべのまろ)は
大盾(おおたて)を立て、中臣大嶋(なかとみのおおしま)は
「天神寿詞(あまつかみのよごと)」を読み、
忌部色夫知(いんべのしこぶち)は神璽(かみのしるし)の
剣・鏡を奉上(たてまつ)ったことが記されています。

翌年の持統天皇5年(691年)にも、大嘗祭において
中臣大嶋(なかとみのおおしま)が「天神寿詞」を読んでいます。

『日本書紀』によりますと、天武天皇2年(673年)、
「大嘗(おほにへ)」を斎行しました。しかし、試行錯誤を
ともなった、完全には整っていない大嘗祭だったのではないでしょうか。
それでも、「天神寿詞(あまつかみのよごと)」は、中臣氏によって
読み上げられた、と想像できます。
 

(4)「天皇号」正式採用と独立国家の歓びで、
   中臣氏は、誇りを持って「天神寿詞」に「天皇」と記し、読み上げた


ここで紹介する天神寿詞(あまつかみのよごと)は、
平安後期の天皇・近衛(このえ)天皇(在位は1141年~1155年)の時のもの
ですから、はたして、天武・持統天皇と同じ時代の文面と同じなのか、
それが気になるところです。

天神寿詞(あまつかみのよごと)の出だしは次の通りです。

<< 現御神(あきつみかみ) と 大八嶋國(おほやしまくに・日本)
   所知食(しろしめ)す(統治されている) 
   大倭根子天皇(おほやまとねこすめら) >>

私は、大嘗祭創設の動機は、天皇号の正式採用にあると、
過去、何度も述べています。

天武天皇が天皇(北極星)たらんとして、伊勢神宮をリニューアルし、
大嘗祭を創設したのです。
そこに、天皇(北極星)の証明の呪術を施(ほどこ)したのです。

ならば、大嘗祭が創設された時の「天神寿詞(あまつかみのよごと)」の
奏上文には、誇りをもって、そして独立国の気概をもって、「天皇」と
記したに違いありません。

読み方は「すめら」ですが、今までの「すめら」ではありません。

太陽がこれから勢いを増していく日、そして北極星が最も長く夜空に
輝いている日・・・この冬至の日に、つまり、大嘗祭の日に・・・
天皇は、晴れて、天照大神(太陽)の御子(みこ・日の御子)となり、
天皇[北極星・天皇(てんこう)大帝]となられるのです。

そして、天武天皇が天皇号を正式に採用したことで、
真の独立国となったのです。
 


(5)大嘗祭は、「食(た)べする」総合的な祭


「天神寿詞(あまつかみのよごと)」を読んで驚いたことは、
「食」の字の多さでした。

それはまるで、『古事記』において、八岐大蛇(やまたのおろち)の場面を
読んでいて、「八・や」の文字の多さに驚いたときと似ています。

「天神寿詞(あまつかみのよごと)」には、次のような、
連続した言葉があります。
次の通りです。

又申(またまを)さく 天皇(すめら)が朝廷(みかど)に
仕(つか)へ奉(まつ)る(天皇様の朝廷に仕え奉る)・・・中略・・・ 
百姓諸諸集(おほみたから・もろもろ・うごな)はり侍(はべ)りて

①見食(みた)べ・[この大嘗祭の盛儀の様をご覧なさい] 
②尊(たふと)み食(た)べ・[この大嘗祭の聞(きこ)し食(め)す由来を貴びなさい] 
③歓(よろこ)び食(た)べ・[この厳粛な儀式を拝して歓びなさい] 
④聞(き)き食(た)べ・[この天つ神の寿詞(よごと)をよく聞きなさい]

この「食(た)べ」の文章が四回も連続し続くことの意味は、
どのように解釈したらよいのでしょうか?
意図して、このような文章にしたわけです。

天皇は、神様と一緒に新穀を召し上がる[食(た)べする]ことで、
皇位継承の資格を得るということです。
「食(た)べする」は、大嘗祭に相応しい寿詞(よごと)としての表現、
といえるのではないでしょうか。

高森明勅(あきのり)氏は、(小生が勝手に意訳すれば)、
大嘗祭は、天皇から百姓まで、日本の全ての人々が参加する、
民の奉仕・協力によって成り立つ祭であり、一緒になって
 <<「食べする」総合的な祭である>> 
というように述べています。
まさに、その通りだと思います。

◎天神寿詞(あまつかみのよごと)には、「知食(しろしめ)」と
「聞食(きこしめ)」の言葉が、多く使われています

天神寿詞に使われている、「知食(しろしめ)」と
「聞食(きこしめ)」を、全て取り上げてみます。
天神寿詞には、上記した4箇所を入れると、全部で、
11箇所に、使われています。
あえて取り上げるのは、この文章を読んだだけで、
天神寿詞の内容、つまり神様の言いたいことが分かるからです。

ちなみに、大祓詞(おおはらえのことば)にも、
6箇所で使われています。やはり、多いですね。

① 大八嶋國(おほやしまくに・日本) 所知食(しろしめ)す(統治されている) 
  大倭根子(おほやまとねこ)天皇(すめら)
 
② 安國(やすくに)と平(たひら)けく(安らかな平和の国として) 
  所知食(しろしめ)して(治められ)

③ 由庭(ゆにわ)に所知食(しろしめ)せ
  [大嘗祭の斎庭(ゆにわ)においてお召し上がりになられるように]

④ 天都(あまつ)水と所聞食(きこしめ)せ
  [天つ水として皇孫(すめみま)の尊はそれを召し上がりなさい]

⑤ 如此依(かくよ)さし奉(まつ)りし任任(まにま)に
  [このようにして皇祖の神々が皇孫(すめみま)の尊に
   お授けになられたまにまに] 
  所聞食(きこしめ)す(代々の天皇様がお召し上がりになられる)

⑥ 赤丹(あかに)の穂(ほ)にも所聞食(きこしめ)し
  (顔の色艶も赤々と輝くばかりに召し上がられ)
 
⑦ 八桑枝(やくはえ)の立榮(たちさか)え仕(つか)へ
  奉(まつ)るべき祷(よごと)を[いよいよ茂り栄える枝葉のように、
  栄えてお仕え申しあげることになるこの寿詞(よごと)を] 
  所聞食(きこしめ)せと[皇孫(すめみま)の尊(みこと)が
  お聞きなさいますようにと]
 

(6)「天都(あまつ)水」は、天から降る聖なる雨


「天神寿詞(あまつかみのよごと)」は、
中臣(なかとみ)氏の祖先が、命の水をもたらした、
と言わんばかりの詞(ことば)があり、
中臣氏の自画自賛には、苦笑せざるを得ません。
この「天都(あまつ)水」の神話は、要約すると次の通りです。

<< 中臣(なかとみ)の祖神でもある天児屋命(あめのこやねのみこと)が、
   子の天忍雲根神(あまのおしくもねのかみ)を天上に上らせ、
   神漏岐(かむぎ) 神漏美命(かむろみのみこと)から
   天(あま)の玉櫛(たまくし)を授かり、この玉櫛(たまくし)を
   刺立(さした)てたところ無数の竹の群れが生え、竹の下から
  「天(あま)の八井(やい)」が湧き出て、その水を
  「天都(あまつ)水」として持ち帰り、
   地上の水に加えなさいという、神話 >>

古(いにしえ)の「天都(あまつ)水」は、天上の神聖な
「天(あま)の八井(やい)」から湧き出る水であり、
それが地上に雨として降り、人々の生命の水として、
また五穀豊穣をもたらす水だったのです。

伊勢神宮にも「天(あま)の八井(やい)」と同様な物語があります。
それが「八盛(やもり)の水」です。

天(あま)の聖なる水は、同じ「八・や」、
つまり①「天(あま)の八井(やい)」と
②「八盛(やもり)の水」で表現されています。
古代日本の聖数「八・や」は、ここでも使われているのです。
 

(7)実りの秋は、赤い稲穂の波


「天神寿詞」には、次のような文章が記されています。

<< 赤丹(あかに)の穂(ほ)にも所聞食(きこしめ)して
   (顔の色艶も赤々と輝くばかりに召し上がられ) >> 

この「赤丹(あかに)の穂」が、赤米(あかまい)を、
意味していると思われます。

太古の日本は「赤米」を食べていました(他の種類の稲も作っていましたが)。
本居宣長(もとおりのりなが)は、「ニニギ」とは、
「丹饒(ににぎ)」で、稲の赤らんで稔(みの)った姿を
いうものとしています。

赤米は、日本の原種であったのです。従って、古(いにしえ)においては、
実りの秋は、黄金色ではなく、赤い穂の波であったのです。
 


(8)中臣氏は、亀卜(きぼく)ではなく、
   太兆(太占・ふとまに)で占ったと、主張


「天神寿詞」においては、悠紀(ゆき)国、主基(すき)国を
占う方法は、亀卜(きぼく)ではなく、太占(ふとまに)だったと、
記しています。

しかし、少なくとも、平安時代以降の宮中関連の卜占(ぼくせん)は、
それまでに行われていた鹿の肩甲骨(けんこうこつ)を使った
太占(ふとまに)から、亀卜(きぼく)へと変わったのです。

ならば、飛鳥時代の初期大嘗祭においては、「天神寿詞」に
記してあるように、太占(ふとまに・鹿占・しかうら)であったのです。

『古事記』の天の岩屋戸において、このようなことが書かれています。

<< 天兒屋命(あめのこやねのみこと)、布刀玉命(ふとだまのみこと)を
   召(め)して、天の香山(かぐやま)の眞男鹿(まをしか)の肩を
   内抜(うつぬ)きに抜きて、天の香山(かぐやま)の天の朱櫻(ははか)を
   取りて、占合(うらな)ひ まかなはしめて >>

※朱櫻(ははか)は、「ウワミズザクラ」のことであると言われています。

中臣氏は、「中臣氏のご先祖様である天兒屋命(あめのこやねのみこと)は、
天石屋戸において、既に、太占(ふとまに・鹿占・しかうら)をしていたのだ」と、
その歴史を誇っているのです。
 


(9)『天都詔戸(あまつのりと)の太諸刀言(ふとのりごと)を
   以(もち)て告(の)れ(告り申しなさい)』について


「天神寿詞」には「天都詔戸(あまつのりと)の太諸刀言(ふとのりごと)を
以(もち)て告(の)れ」と記してあります。

この文言は、大祓詞(おおはらえのことば)にもあり、
この文言に対して、多くの説があります。その説の多さに、
大変驚いてしまいます。

この件、私は全く近寄ってもいないので、いま言えることは
何もありませんが、八の世界かも知れません。

賀茂真淵、本居宣長は、天都詔戸(あまつのりと)の
太諸刀言(ふとのりごと)を、大祓詞(おおはらえのことば)
自体のことであるとする説を唱えました。

これに対して平田篤胤は『古史伝』で「天照大神から口伝の
天津祝詞之太祝詞事(あまつのりとのふとのりごと)という
祝詞(のりと)があり、中臣家に相伝された」という説を唱えました。

伯家神道の流れを汲む教派系においても、そして吉田神道においても、
「トホカミエミタメ」を重要な神呪としています。

吉田神道と伯家神道は、宮中八神を祀っていたことで、有名です。
八の探究家としては、八との関連が想像されて、興味を持たざるを
得ませんので、今後の課題としたいと思います。

私としては、御膳(みけ)八神、宮中八神、北斗八星、
八重畳(やえだたみ)、八開手(やひらで)、八度拝、
八角形高御座(たかみくら)、八角形天皇陵、等々、
興味は尽きないですね。

ホツマツタヱでは「トホカミエミタメ」ではなく、
「トホカミエヒタメ」で、太占(フトマニ)図があり、
その内側の八言が「トホカミエヒタメ」となっています。

第3回『日本人は、生きる術として、「斎庭の穂」を選択した』

第3回目
日本人は、生きる術(すべ)として、
「斎庭(ゆにわ)の穂(いなほ)」を選択した


(1)三代続く、真床覆衾(まとこおふすま)の事例
(2)天照大神の日の御子(みこ)に、「穂」の付く名が
   三代続いて入っている

(3)高天原も、地上も、ペアの聖田である、その理由
(4)ペア(対)の聖田と、天孫降臨による
  「斎庭(ゆにわ)の穂(いなほ)」の八州(やしま・日本)への広がり

(5)以上の一覧から、何を述べることが出来るのか?

(1)三代続く、真床覆衾(まとこおふすま)の事例

前回のブログ連載の第6回目において『ニニギノミコトから続く、
連続三代の真床覆衾(まとこおふすま)の事例を、無視できるのか?』
について記しました。

そこでは、『日本書紀』に記されている、三代続く
真床覆衾(まとこおふすま)の事例に対して、
無視できる勇気を持てないとし、折口信夫氏の
「真床覆衾論」を擁護しました。

※衾(ふすま)は、掛け布団の薄いようなもの。

①ニニギノミコトが、真床覆衾(まとこおふすま)に
 覆われて、地上に天降る場面

②海神(わたつみかみ)が、ニニギノミコトの子供・
 山幸彦(やまさちひこ)を招き入れて、
 真床覆衾(まとこおふすま)を設(しつら)えて、
 天神(あまつかみ)であるのか、ないのか、様子を
 確かめる場面

③豊玉姫(とよたまひめ/夫・山幸彦)が、生んだ子・
 鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)を、
 真床覆衾(まとこおふすま)に包み、海辺に置いて、
 海に帰ってしまう場面


この事例は、天孫降臨から始まり、天皇の誕生へと続く、
重要な意味を含んでいると、思われます。

このことと、同様に、もう一つの、三代続いた、
意味深い重要な事例があります。

それは、三代続いて、日の御子(みこ)の名前に
「穂」の字が付いていることです。

高天原(たかあまはら)の「斎庭(ゆにわ)の穂(いなほ)」が、
地上に降ろされ、八州(やしま・日本)全土へと広がる様相を
表現している、ともとれます。


(2)天照大神の日の御子(みこ)に、「穂」の付く名が
   三代続いて入っている

天孫降臨神話に関わりのある、三代続く日の
御子(みこ)の名には、「穂」の字が付いています。
天照大神の子孫が「斎庭(ゆにわ)の穂(いなほ)」を
たずさえて降臨し、地上においても「斎庭(ゆにわ)の穂(いなほ)」を
広めようとしたことが分かります。


次のように、なります。
天照大神
→①アメノ(ホ)シミミ
 「天上の立派な穂のような方・天照大神の子供」

→②ヒコ(ホ)ノニニギ
 「稲穂のニギニギしく稔(みの)った姿・
  瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)・天照大神の皇孫(すめみま)」

→③ヒコ穂穂(ホホ)デミ
 「優れた男の人で稲穂が盛んに出るさまを表している・
  山幸彦(やまさちひこ)・ニニギノミコトの子供)」

※天照大神が天忍穗耳尊(あめのおしほみみのみこと)を
 降臨させるも、途中で引き返してしまう。結果、天忍穗耳尊は、
 その間に生まれた息子の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に
 行かせるようにと進言し、瓊瓊杵尊が天降ることになる

※『古事記』では、山幸彦(やまさちひこ)は、
 火遠理命(ほおりのみこと)、 天津日高日子穂穂手見命
(あまつひこひこほほでみのみこと)と記されています。

※ヒコ穂(ホ)ノニニギ「稲穂のニギニギしく稔(みの)った姿・
 瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)」は、瑞穂(みずほ)の国の
 高千峯(たかちほのみね)に降臨します。


(3)高天原も、地上も、ペアの聖田である、その理由


不思議なことに、高天原でも、地上でも、
ペアとして聖田が存在しています。
何等かの意味を感じ取らざるを得ません。
大嘗祭において、聖田は、何故、悠紀田(ゆきでん)・
主基田(すきでん)の2つに分かれているのか?
そして、この件は、何故、神殿は2つなのか?
ということに通じるものがあります。


ペアの聖田を取り上げてみましょう。

①高天原の聖田

天照大神は、高天原において、2つの聖田・
「天狹田(あめのさなだ)」と「長田(ながた)」を
持っていることが、『日本書紀』に書かれています。


<<  素戔嗚尊(すさのおのみこと)の爲行(しわざ)、
    甚(はなは)だ無状(あづきな)し。 何(いかに)とならば、
    天照大神(あまてらすおほみかみ)、「天狹田(あめのさなだ)」・
    「長田(ながた)」を以(も)ちて御田(みた)としたまふ。 >>

                 (『日本書紀』神代紀 第七段 本文)


②木花開耶姫(このはなさくやひめ)の聖田

木花開耶姫(このはなさくやひめ)は、高千穂峰に降臨した、
ニニギノミコトと結婚しましたが、ニニギが降臨する際、
携えていた「斎庭(ゆにわ)の穂(いなほ)」で、自分の田を
作っていたと想像されます。


<<  時に神吾田鹿葦津姫(かむあたかしつひめ・木花開耶姫・
    このはなさくやひめ)、卜定田(うらへた)を以(もっ)て、
    号(なづ)けて「狭名田(さなだ)」と曰(い)ふ。
    其(そ)の田の稲を以(もっ)て、天甜酒(あめのたむさけ)を
    醸(か)みて嘗(にひなへ)す。又「渟浪田(ゆなた)」の稲を
    用(も)て、飯(いひ)に為(かし)きて嘗(にひなへ)す。  >>

               (『日本書紀』神代紀 第九段一書第三)


木花開耶姫(このはなさくやひめ)は、「狭名田(さなだ)」と
「渟浪田(ゆなた)」の聖田を持っていたことになります。

※卜定田(うらえた)とは、占いによって定められた
水田のことです。

③伊勢神宮の聖田

伊勢神宮は、天照大神の神慮により外宮が出来ました。
外宮が出来たことから、ペアの聖田が出来た、とも言えます。
「内宮の御田(みた)」と「外宮の御田(みた)」です。
天照大神・豊受大神(とようけのおおかみ)に捧げる毎日の
御饌(みけ)は、外宮の御田(みた)から採れる稲を使います。

④大嘗祭の聖田

大嘗祭において、最初にすることは、「悠紀(ゆき)国」と
「主基(すき)国」の二国を、卜定(ぼくじょう)することです。
つまり、「悠紀田(ゆきでん)」と「主基田(すきでん)」を、
占いで決めることです(まず国を決め、田の場所は後から)。

何故、聖田を二国に分けるのか? 
何故、大嘗宮は二国を象徴する神殿となるのか?

大嘗祭のこれらのことは、高天原の2つの聖田、
木花開耶姫(このはなさくやひめ)の2つの聖田、
伊勢神宮の2つの聖田、と関係があると想像できます。


(4)ペア(対)の聖田と、天孫降臨による
   「斎庭(ゆにわ)の穂(いなほ)」の
   八州(やしま・日本)への広がり

以上の事例を、1つに纏めると、
次のように、記すことが出来ます。


高天原・天照大神 
→ 「斎庭(ゆにわ)の(いなほ)」
  ①天狹田(あめのさなだ)
  ②長田(ながた)

→ アメノ(ホ)シミミ
 「天上の立派な穂のような方(天照大神の子供)」

→ ヒコ(ホ)ノニニギ
 「稲穂のニギニギしく稔(みの)った姿・
  瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の降臨。天照大神の皇孫(すめみま)」

→ ヒコ(ホ)ノニニギ、高千峰(たかちほのみね)へ降臨

→ ヒコ穂穂(ホホ)デミ
 「優れた男の人で稲穂が盛んに出るさまを
  表している・山幸彦・ニニギノミコトの子供」の配偶者・
  木花開耶姫(このはなさくやひめ)が
 「斎庭(ゆにわ)の(いなほ)」を栽培
  ①狭名田(さなだ) 
  ②渟浪田(ゆなた)

→ 伊勢神宮
 ① 内宮の御田(みた) 
 ② 外宮の御田(みた)

→ 天武天皇・大嘗祭
 ① 悠紀国(ゆきこく)・悠紀田・悠紀殿
 ② 主基国(すきこく)・主基田・主基殿 


(5)以上の一覧から、何を述べることが出来るのか?


この一覧からは、天孫降臨により、「斎庭(ゆにわ)の穂(いなほ)」が、
地上の八州(日本)に広がっていくさまが、想像でき、
気持ちがわくわくしてきます。

上記、四事例のペアの聖田が、それぞれ、陰陽を表現しており、
なおかつ、八州(日本)を表現していると、思われます。

二で、八を表現していると、思われます。
つまり、二箇所の聖田で、八州(日本)の田を表現しているのです。

◎高天原の聖田

高天原は、八州(日本)の原型として存在しているならば、
まさしく、二つの聖田「①天狹田(あめのさなだ)②長田(ながた)」
でもって、八州(日本)の田を表現していると、思われます。
そして、八州(やしま)に稲が広がることを願っているのです。

※天神寿詞(あまつかみのよごと)には、高天原の水
「天(あま)の八井(やい)・天都水(あまつみず)」も、
八州(日本)の地上に届くようにしなさい、と記されています。

高天原の良いことは、地上の八州(日本)に伝えなさい、
との態度を取っています。

◎木花開耶姫(このはなさくやひめ)の聖田

木花開耶姫(このはなさくやひめ)の作っていた聖田
「①狭名田(さなだ)②渟浪田(ゆなた)」は、
占いによって定められた水田です。
大嘗祭の聖田のルーツが、ここにあると想像することは、
可能であると思います。

何故ならば、大嘗祭の2つ聖田「悠紀田(ゆきでん)・
主基田(すきでん)」も、占いで決めるからです。


◎伊勢神宮の聖田

伊勢神宮の聖田は、「内宮の御田(みた)」と
「外宮の御田(みた)」に分かれます。
そもそも、伊勢神宮の呪術自体(天武天皇のリニューアル)が、
内宮と外宮で、天皇を中心とする八州(日本)を表現しています。

よって、2つの聖田「①内宮の御田(みた)と
②外宮の御田(みた)」は、八州(日本)を表現していることは、
これまで私が述べてきた伊勢神宮の呪術(「北極星・北斗八星」)からしたら、
当然なことです。


◎大嘗祭の聖田

大嘗祭の聖田「①悠紀田(ゆきでん)②主基田(すきでん)」は、
これら上記の事例の影響を受けたものと、考えられます。

いままで、二で八を表現しており、それは、八州(日本)を表現
している、と述べてきましたが、大嘗祭の場合は、より具体的に、
2つの国を卜定(ぼくじょう)しています。
私は、大嘗祭と、新嘗祭の大きな違いは、民の参加が有るか無いかの
違いによると、述べてきました。
つまり、民の参加がある、「君民一体」が、大嘗祭の眼目の一つでも
あるのです。

地方の悠紀国(ゆきこく)と主基国(すきこく)の
百姓(おおみたから)が、悠紀殿と主基殿の神殿を作る。
そして、その百姓(おおみたから)が、
天皇と神様が共食する、神饌「しんせん(米と粟)」を作る。
この神とする最も重要なもの(米と粟、神殿)を、
二国の地方の百姓(おおみたから)が作ることに、
大嘗祭の意義があるのです。

不思議ですね。一箇所でやれば簡単にすむものを、なぜ、
二箇所に分けて神事を行うのでしょうか?

それは、「悠紀(すき)国」と「主基(すき)国」で、
八州(やしま)(日本)を代表しているからだと思われます。

伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)の
国生み神話によれば、この二神によって、八州(やしま・日本)が
誕生しています。

大嘗祭においては、「悠紀(ゆき)国」と「主基(すき)国」で、
日本全体を表現しているのです。

よって、大嘗祭においては、悠紀国と主基国の百姓(おおみたから)が、
参加・奉仕しますが、それは、八州(日本)の人々を代表して
参加・奉仕している、ということになります。

また、「悠紀(ゆき)田」と「主基(すき)田」の稲は、
八州(日本)を代表する稲、そして八州(日本)の国魂を
意味している、と思われます。

さらに言えば、「悠紀田・主基田」の稲は、
高天原(たかあまはら)から地上に降りた「斎庭(ゆにわ)の穂
(いなほ)」の稔(みの)りを意味しているのです。

大嘗祭において、皇孫(すめみま)、すなわち天皇は、
ニニギノミコトという名に象徴される稲穂のニギニギしく
稔(みの)った姿を身に付けられるのです。

大嘗祭においては、天皇は、八州(日本)を代表する、
悠紀国・主基国の百姓(おおみたから)が作った
「斎庭(ゆにわ)の穂(いなほ)」である神饌(しんせん)を、
神様と一緒に食することで、皇祖の霊威を身につけ、
天照大神(北極星)とご一体になられるのです。
このことにより、天皇は、日の御子になられるのです。
そして、勿論、北極星(天皇)にもなられるのです。

『大嘗祭と伊勢神宮・稲の祭』第2回

第2回目
家康は天皇の位として祀られたが、
総神主の長・祭祀王・天皇にはなれなかった



1 天武天皇の呪術とは
2 日光東照宮の呪術とは
(1)山王神と摩多羅神(またらじん)
(2)深秘式(じんぴしき)と三種の神器
   ・・・天海大僧正の恐るべき秘術
(3)ついに発見!! 仮説の正しさを証明する、
   極秘敷曼陀羅(ごくひまんだら)と八卦図(はっかず)
(4)御璽箱(ぎょじばこ)とその内部図
(5)日光東照宮・天地の図
3 伊勢神宮と日光東照宮の違い
4 家康は、祭祀王・総神主の長にはなれなかった
  ・・・格の違い



今回は、天皇と徳川家康の関係を述べることとします。
メイン・タイトルの「大嘗祭と伊勢神宮・稲の祭」と
直接関係ないと思われがちですが、
稲と関係する、重大な問題を含んでいるのです。

天皇とは何か、稲とは何か、ということが分かりますので、
あえて、2回目に記すことにしました。

天武天皇の呪術の素晴らしさが、
このことによって、さらに分かっていただけます。


1 天武天皇の呪術とは


前回のブログにおいて記していますが、
伊勢神宮と大嘗祭には、天武天皇の基本となる
呪術・『北極星(太陽・太極)北斗八星(八州・八卦)』が、
施されています。

それは、天の中心、つまり宇宙の中心に描く呪術であり、
世界最強の呪術といっても過言ではありません。
北極星に太陽である天照大神を組み込んだこと、
そして北斗七星ではなく、北斗八星としたところが、
天武天皇の呪術の核となります。


天武天皇は、日本の聖数「八(や)」と、
中国最強の呪術「八卦(はっか)」をプラスした
北斗八星の呪術により、
八州(日本)の国柄を呪術絵として描きました。

よって、天武天皇が創作した呪術としての北斗八星は、
千三百年、ずっと、毎日、北極星を一周しながら、
休むことなく、八州(日本)の国柄を描き続けていて、
皇室、百姓(おおみたから)、日本国、の安寧を
祈っているのです。


この伊勢神宮の総合図を掲載します。
この件については、前回のブログの記事を参照してください。

hata20200220_1.png


2 日光東照宮の呪術とは


前回のブログでも日光東照宮の呪術については、
少し紹介しています。
勿論、日光東照宮の呪術基本は、
天武天皇が創作した
『北極星(太陽・太極)北斗八星(八州・八卦)』です。

天海大僧正は、畏(おそ)れ多くも、
伊勢神宮に施されている天武天皇の呪術を真似して、
家康(いえやす)を天皇と同等、
あるいはそれ以上の位として密かに祀(まつ)ったのです。
恐るべし天海大僧正です。
その呪術の特徴は、北極星に、
多くの神様を意味付けしているところにあります。

「東照大権現(とうしょうだいごんげん)」の東照とは、
朝日のことを意味します。
つまり
「天照(あまてる)=海照(あまてる)=東照(とうしょう)」
のことです。
よって、東照大権現とは、天照大神を意味している、
とも言えるのです。

また、天海大僧正は、
薬師如来を東照大権現の本地(ほんじ)としました。
(家康は薬師如来の申し子だという伝説あり)


密教では、薬師如来と大日如来(だいにちにょらい)は
同体の如来としているということから、
「北極星=家康=東照大権現=天照大神=大日如来=薬師如来」
ということになります。

家康は、多くの神様を象徴している日神でもあり、
また北極星神でもあるのです。

(1)山王神と摩多羅神(またらじん)


徳川家康は東照大権現として祀られました。
その相殿神(あいどのしん)は、
山王神道の山王神と摩多羅神(またらじん)です。

東照大権現の相殿神としての山王神は北斗七星で、
摩多羅神はその輔星(ほせい)であるといわれています。
「北斗七星+輔星」です。
となると、主祭神・東照大権現の家康は、
北極星に当たります。


高藤晴俊氏の『日光東照宮の謎』によると
次のように述べています。

◎東照宮に伝えられる三幅対の画像では、
 中央に家康像、左右に山王神と摩多羅神が描かれている。
◎摩多羅神の画像の上部には、
 北斗七星と輔星(アルコル)が描かれている。
◎山王神の画像の中央には、七神のみで
 輔星に相当する神像が描かれていないことから、
 摩多羅神が輔星に当てられていると類推される。

hata20200220_2.png



(2)深秘式(じんぴしき)と三種の神器
   ・・・天海大僧正の恐るべき秘術

天海は、家康公の神柩(しんきゅう)を納めた
奥の院の御廟塔(ごびょうとう)供養のさい、
恐るべき秘術儀式・山王一実神道
「塔中勧請鎮座深秘式(とうちゅうかんじょうちんざじんぴしき)」を
行ったといわれています。


※この件については、
『天台密教の本』(学習研究社)に書かれた不二龍彦氏の記述、
『台密の理論と實踐』(三崎良周・創文社)の記述、
 そして『日本思想と神仏習合』(菅原信海・春秋社)の記述からも
 参考にさせていただきました。

なんと天海は、天皇位の証(あかし)である
「三種の神器」を印明(いんみょう)という形で表し、
家康に伝授したのです。

その三種の神器は、
神柩(しんきゅう)の中に納められた
御璽箱(ぎょじばこ)の内箱の台座に、
「神鏡、宝剣、神璽(しんじ)」と梵字(ぼんじ)で書かれ、
表現されていたのです。

御璽箱(ぎょじばこ)の外箱は八角形です。
これは、胎蔵界(たいぞうかい)の「八葉蓮華」を
表現したものです。
しかし、天海は、あろうことかこの八角形に、
天皇即位のさい用いられる
八角形の「高御座(たかみくら)」の意味を持たせた、
と思われます。

さらに、補足するならば、
内箱に梵字(ぼんじ)で書かれた三種の神器も、
全て「八」で表現出来ます。
すなわち「八咫鏡(やたのかがみ)」、
「八剣(やつるぎ)(草薙剣・くさなぎのつるぎ)」、
「八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)」です。

ここでいう神璽(しんじ)は、
「八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)」を表しています。
即ち、全て「八の世界」なのです。


(3)ついに発見!! 仮説の正しさを証明する、
極秘敷曼陀羅(ごくひまんだら)と八卦図(はっかず)


内箱には、梵字(ぼんじ)で書かれた
三種の神器(じんぎ)とともに納入されていた、
「極秘敷曼陀羅(ごくひしきまんだら)」があります。
『極秘敷曼陀羅は箱の内に敷くものである』、
と三崎良周氏は述べています。

「極秘敷曼陀羅」は、「八」の探究者の私に、
勇気と喜びを与えてくれた、
と言っても過言ではありません。

天海さん、やっぱりここに行き着いたのか、
という気持ちです。
なぜなら、そこには、
はっきりと八卦(はっか)が描かれているのです!! 

何と『曼荼羅を、「八卦」で表している!!』のです。
しかも「敷」曼陀羅なのだ!! 

私は興奮の極(きわみ)に達し、
そして安堵しました。


「天」に「北極星(太陽・太極)北斗八星(八州・八卦)」を
描いたならば、
必ず「地」にも「北極星(太陽・太極)北斗八星(八州・八卦)」を
描いているに違いないという、
私の今までの推理の正しさを、裏付けてくれたのです!! 

もう、
< 伊勢神宮と大嘗祭においては、
天地に、呪術として「北極星(太陽・太極)北斗八星(八州・八卦)」が
描かれている >との、
私の仮説を疑う者はいないであろう。

私は高ぶった気持ちを抑(おさ)えることが出来なかったのです。


(4)御璽箱(ぎょじばこ)とその内部図


 次図は、
< 『天台密教の本』・(ブックス・エソテリカ)・学習研究社 >
に掲載されていたものです。

hata20200220_3.png
御璽内箱

画像3.png
御璽外箱
        

hata20200220_4.png


この極秘敷曼陀羅を御璽箱の下に敷いた呪術こそが、
天海が考えた最も重要なデザインの一つなのです。

八卦を描いた極秘敷曼陀羅のその上には、
家康自身といえる御璽の内箱と御璽の八角形外箱が乗る形になります。
よって、家康は太極(北極星)となります。

この形は、天皇が八角形の高御座(たかみくら)で
即位式を行うという姿を思い出させます。
つまり、家康が亡くなった後、
天皇と同等の位になるという意味を含んでいたと思います。

そしてそれを宝塔八角形基壇が覆(おお)います。
この八角形基壇ですが、さらに次のことが言えるのです。

伊勢神宮を整備発展させた天武天皇は、
崩御された後、八角形墳陵に葬(ほうむ)られました。
勿論、天海は、このことを知っていました。
家康神廟の八角形基壇は、それに影響を受けた形なのです。


hata20200220_6.png


(5)日光東照宮・天地の図


天皇になりたかった家康の呪術的グランドデザインが、
初めて明らかになる瞬間でもあります。

デザイン図は次の通りです。

hata20200220_7.png

天海大僧正が描いた、
最高級の秘密裏の呪術デザインがいま明らかになりました。
まるで、見てはいけないものを見てしまった、
戦慄(せんりつ)すべき呪術のようでもあります。

伊勢神宮と東照宮の呪術を比べてみようと思います。
この比較は、驚くほどはっきりと
根本哲理の違いを示唆(しさ)してくれます。


3 伊勢神宮と日光東照宮の違い


伊勢神宮は静かに凛然(りんぜん)として堂々と続いています。
光東照宮も煌(きら)びやかに続いています。

また、いわゆる万世一系の天皇と平凡な出自の家康、
という対比も面白い。
(家康は、出自をでっちあげ
 源姓(みなもとせい)を名のったりもした)

日光東照宮が世界文化遺産に指定されているのに、
伊勢神宮はなぜ指定されていないのか。
この対比も面白い。

天海は、徳川家康を、
まさに考え得る最高のグレードとして祀りました。
伊勢神宮と東照宮は、
いずれも太陽の神様と北極星の神様です。


私は、ふと思います。
東照宮の呪術は、天皇とは何かという意味・意義を、
我々に切ないほどに教えてくれている、と。

家康は東照宮の呪術に示されているように、
これほどまでに天皇の地位に憧(あこが)れていながらも、
天皇になろうとしなかった。

簡単に天皇家を滅ぼすことが出来たのにも拘(かか)わらず、
です。
さすがに、千数百年も連綿と続いてきた万世一系の天皇家に対しては、
血筋の違いに畏怖(いふ)せざるを得なかったのであろう。

また、たとえ、天皇家を名告(なの)っても、
他の人々が認めるわけが無いことを自覚していたのです。
表立って人々に知られることなく、
秘密裏の呪術によって天皇の地位として祀られた家康の心は、
まさに、「いじらしい」とも言えるのです。


4 家康は、祭祀王・総神主の長にはなれなかった
    ・・・格の違い

前回のブログにおいて、
伊勢神宮と大嘗祭の呪術的基本的概念は、
天地に「大八洲瑞穂国(おおやしまみずほのくに)(八束穂)」を
描くことである、
と理解しました。

この壮大で実にシンプルな概念図は、
我々に伊勢神宮と天皇の何たるかを教えてくれました。


hata20200220_8.png


ところが、伊勢神宮を真似た日光東照宮の場合はどうでしょうか。
そのように思ったとき、初めて、
日光東照宮には、稲が北斗八星に配されていないことに
気がついたのです。

天海大僧正は、伊勢神宮を真似し、
密かに天皇以上の位として
徳川家康を日光東照宮の奥の院に祀ったのですが、
さすが、食の安寧を祈る稲の呪術は、
施(ほどこ)さなかった。

勿論、日光東照宮においては、
稲が北斗八星として、
天地に配されていないからといって、
稲の祭祀が無いわけではありません。

その年の一年の豊作を祈る「祈年祭(としごいのまつり)」、
豊作を感謝する「新嘗祭(にいなめさい)」等々も
行われています。


果たして天海は、伊勢神宮と大嘗祭の、
天地に北斗八星としての八束穂を描く概念を
知っていたのであろうか。
いやいや勿論、天海は知っていた。

しかし、そこまで真似ることは物理的に不可能であったのです。
やはり、歴史の重みが違うのです。

そもそも伊勢神宮が稲倉(いなぐら)の形をしていること。
天皇の祖神(おやがみ)・天照大神が稲と結びついていること。
天皇は、大八洲瑞穂国(おおやしまみずほのくに)の
総神主の長・祭祀王であること。
これらのことはさすがに天海大僧正も
真似することは出来なかったのです。

いかに天皇に似せようとしても、
稲の呪術と祭祀だけは組み込めなかったのです。


前述しているように、天海の、
天皇を真似た呪術の内容のあまりの凄さに、
私は恐れおののいた、
と言っても過言ではありません。
ここまで真似をするのか、
という気持ちでした。

しかし、徳川家康は、
<<「総神主の長・祭祀王たる天皇」にはなれなかった>>。

つまり、日本の国柄・「大八洲瑞穂国(おおやしまみずほのくに)」を
表現することは、出来なかったのです。

この差はあまりにも大きいと感じる次第です。

『大嘗祭と伊勢神宮・稲の祭』第1回


◎ブログ連載にあたり

このたび、再び、ブログの連載をさせていただくことになりました。

タイトルは『大嘗祭と伊勢神宮・稲の祭』です。

今回は、大嘗祭と伊勢神宮における、稲の役割とその意味について、
記したいと思っています。
高天原での天照大神は、自身が耕作していた
「斎庭(ゆにわ)の穂(いなほ)」をニニギに持たせて、
地上に降ろし、その稲が日本国中に広がり、
百姓(おみたから)が飢えることのないようにと、
永遠に、祈っているのです。

この物語を採り入れたのが、
大嘗祭と伊勢神宮(リニューアル)です。
稲の持つ意味を、大嘗祭と伊勢神宮を通して、
語りたいと思います。

勿論、稲・米も八の世界です。聖なるものは、
聖数・八で表現する、というのが
古(いにしえ)からの日本の習わしなのです。  
私は、八の探究家としての役割を、
稲についても、果たしたいと思います。

◎2月26日(水)、講演があります

大嘗祭についての講演は、
にんげんクラブさんにおいて、
既に11月7日に終了しています。
本が出版される前のことでした。

このたび、出版後の
2月26日、3月25日に、
講演いたします。


2月26日(水)の講演で、
真実の、「天皇と大嘗祭・伊勢神宮」について語ります。

タイトルは
『天皇・国家・大嘗祭(伊勢神宮)
-8の暗号を解く-本義を初めて知る』
です。


八の探究家だからこそ、
八州(やしま)の国である日本の真実(国家の八の暗号)を、
発見出来たのです。

誰も発見出来なかった、
「日本国家の八の暗号」ともいえる、
世界最強の呪術に付いて語ります。

この呪術を知らずして、日本を語れない、
というのが私の正直な気持ちです。


日本の姿(国家の八の暗号)を知らないままでは、
あまりにも悲しい。

是非、講演を聞きに来てください。

☆.。.:*・°☆☆.。.:*・°☆☆.。

畑アカラ先生 「初めて語る天皇と大嘗祭の真実」Ⅱ(2/26)

☆.。.:*・°☆☆.。.:*・°☆☆.。


ブログ連載・第一回

「天武天皇の、稲作に対する驚きの本気度を知る」


(1)天武天皇の食肉禁止令は、
   稲作で日本人の生命を維持しようとした
   気持ちの表現である
(2)御岳行者(おんたけぎょうじゃ)の乱
(3)吉祥の稲のパワー
(4)稲と税


天武天皇は、日本人の生きのびる手段として、
稲作を採用しました。

このことは、天武天皇が創作した大嘗祭と、
天武天皇がリニューアルした伊勢神宮の儀礼祭祀を
検討すれば分かることです。

その稲に対する、熱い気持ちが
『日本書紀』に記してありますので、ご紹介します。


『日本書紀』の天武紀を読んでみると、
肉食禁止令が出ていて、驚かされます。
このことは、稲作に重きをおきなさい、とも取れる重大な禁止令です。

そして、吉祥の稲の話が、出てきます。
他の天皇紀には見られない、事例の多さです。


この特異である二事例を記します。
この二事例で、天武天皇の稲に対する、
並々ならぬ熱い思いが伝わってきます。


(1) 天武天皇の食肉禁止令は、
  稲作で日本人の生命を維持しようとした
  気持ちの表現である

天武天皇は食肉禁止令を出しました。

『日本書紀』天武天皇下・四年(675)の記述に
<< 且(また)牛・馬・犬・猨(さる)・
鶏の宍(しし)を食(くら)ふこと莫(まな) >>
とあります。

天武天皇は、
<< 牛馬犬猿鶏の肉を食べるな >>
との禁止令を出したのです。


しかし、当時における主とする狩猟獣であった鹿と猪が、
除外されていました。

また、4月から9月までという禁止期間を考えると、
この期間が稲作を中心とする農耕期間に当たります。
ということは、稲作を中心とする農業の推進にあったと考えられます。

つまり、ウシやウマなど稲作に役に立つ動物の肉食を禁止し、
保護を目的とした、とも考えられるからです。


さらに言えば、稲作を普及させることにより、
稲を税収とする、そのための安定的な確保の為にとも考えられます。

肉食禁止令を出すことは、当時は、
肉食もかなり盛んであった、ということになります。


天武天皇が、大嘗祭と伊勢神宮に施した呪術は、
北斗八星に、八束穂(やつかほ)を描き、
百姓(おおみたから)が、飢えることのないようにと、
ひたすら祈っている、内容でした。

このことは、前回のブログで記しています。

畑ブログ1.jpg

私は、ここに、天武天皇の、独立国・日本としての
強いアイデンティティを見ます。

騎馬民族文化、牧畜文化の強い拒否です。

天武天皇は、稲作の普及により、
日本人の生命を維持しようとしました。
日本人の生きる道として、はっきりと、
稲作を選択したのです。


天武天皇は、北極星を意味する、
つまり、独立国を意味する「天皇号」を正式に採用しました。

それは、前回のブログで、既に述べているように、
大嘗祭創設、リニューアル伊勢神宮は、
対・中国皇帝属国拒否宣言でもあったのです。


大嘗祭の創設と伊勢神宮のリニューアルは、
はっきりと、独立国日本は、稲を生命の糧とする、
騎馬民族国家とは違うという、気概をみせたとも、
言えるのです。

戦後、流行(はや)りました騎馬民族征服王朝説は、
大嘗祭と伊勢神宮を精査する限り、
全く縁のないもの、と言えるのです。

(2)御岳行者(おんたけぎょうじゃ)の乱

時代と共に、獣肉は、仏教の殺生(せっしょう)の罪観念と
神道の「ケガレ」の観念とにより、
食卓からは消えました。
(全く消えたわけではないと思いますが)

獣肉の禁止観念は、米をより聖なるものとしたのです。


食肉が解禁になったのは明治四年です。
解禁の翌年、白装束の御岳行者(おんたけぎょうじゃ)10人が、
天皇に肉食禁止を訴えるために皇居に入ろうし、
4人が射殺される事件が起こりました。

稲作を司る神聖な天皇が、肉を食したため社会が
ケガレ、混乱したと考えたのです。
(毎日新聞記事「にっぽん一千年紀の物語.・35」平成12年11月6日)


このことは、如何に、稲作・米が神聖なものとして、
思われていたかの、証左にもなります。

高天原にお住まいになっていた天照大神の神代の時代から
米は大切なものとされてきました。
そして、特に、天武天皇の時代からずっと、
貨幣になり得るものとしての米の神聖さが、
一層強調されたのです。

結果、ついには、御岳行者(おんたけぎょうじゃ)の乱のような
事件が起こったのです。


(3)吉祥の稲のパワー

『日本書紀』の天武紀には、
吉祥の稲の話が記してあります。
天武天皇がいかに稲を大事に思っていたのか、
その気持ちが伝わってきます。

その記事を全て取り上げてみます。


勿論、吉祥とされる鳥、鹿、等々の動物の献上の話も
述べられていますが、
吉祥の稲の献上話が数回記してあるのは、
多分、天武紀においてのみであろうと想像されます。

 
1、天武七年九月、珍しい稲五茎(いつもと)を献上した。
2、天武八年八月、吉祥の稲を献上した。
  畝(うね)は別で、穂は一つであった。
3、天武八年十二月、吉祥の稲が現れたことにより、
  親王・諸王・諸臣及び百官の人々に、
  各々に応じて賜禄(しろく)があり、
  死罪以下をすべて赦免(しゃめん)した。
4、天武八年、因幡(いなば)の国が珍しい稲を献上した。
  それぞれの茎から枝が出ていた。
5、天武九年八月、吉祥の稲を献上した。  


3番目の
「親王・諸王・諸臣及び百官の人々に、
各々に応じて賜禄(しろく)があり、
死罪以下をすべて赦免(しゃめん)した」とは、
驚きです。

さすがに、ここまでするとは、ただ事ではありません。

ならば、稲に対して、このような熱い気持ちを持っていた天皇は、
天武天皇のみであろうかと、思うわけです。


天皇は、天上、つまり高天原(たかあまはら)から
地上に降ろされた「斎庭(ゆにわ)の穂(いなほ)」を
宗教的に統合する司祭者でもあります。

このことは、伊勢神宮及び大嘗祭(新嘗祭)の儀礼を
検証することで分かります。

そしてさらに、歴代の天皇が、稲・米についての儀式、
つまり大嘗祭を最大の重儀としてきたのは、
日本国民の生活を保証する究極的な方法と考え、
その責任を果たすためであったとも解釈できます。


(4)稲と税

伊勢神宮の玉垣(たまがき)には、
稲刈りした状態のその年に穫れた最初の稲を掛けます。
これを「懸(か)け税(ちから)」といいます。

税金の税というのは、本来はお米のことで、
それを伊勢神宮の玉垣に懸けるのです。

神様に対して税として払う、という意味合いもあります。

『止由気宮儀式帳(とゆけぎしきちょう)』(外宮)によると、
抜(ぬ)き穂(ほ)の「八荷」は心御柱(しんのみはしら)に供えられ、
懸(か)け税(ちから)の「百八十荷」は玉垣に懸けられます。

この「百八十荷」の懸け税を、
「千八百税(ちやおぢから)」とも言います。

ここでも、八の世界が稲の数として、顕現しています。

税の中心も米となり、米はまさしく他の食べ物とは別格のものとして、
聖なる地位を得たのです。

それは、後の世の石高制(こくだかせい)となり、
米が社会基盤の中心となったのです。



※石高制(こくだかせい)とは、
 豊臣秀吉の石(こく)改めに始まり、
 地租改正によって廃止された、
 江戸時代の土地制度の原則。
 田畑や屋敷などの土地はすべて米の生産力に換算・表示され、
 そのことが百姓所持地(百姓高所持)から
 大名領知(石高知行制)にまで貫徹していた。
   (大辞林)


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