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畑アカラの「大嘗祭と伊勢神宮・稲の祭」

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第4回『中臣氏は天神寿詞に誇らしく「天皇」と記し、「天皇誕生」を神様と共に言祝いだ』

第4回目
『中臣氏は天神寿詞(あまつかみのよごと)に
誇らしく「天皇」と記し、「天皇誕生」を神様と共に
言祝(ことほ)いだ』



(1)「天皇号」正式採用のインパクトは、易姓革命以上
(2)「天皇号」正式採用による、独立国家を証明する具体的な事例を知る人は少ない
(3)天神寿詞(あまつかみのよごと)の成立は、「天皇号」正式採用と同時
(4)「天皇号」正式採用と独立国家の歓びで、
   中臣氏は、誇りを持って「天神寿詞」に「天皇」と記し、読み上げた

(5)大嘗祭は、「食(た)べする」総合的な祭
(6)「天都(あまつ)水」は、天から降る聖なる雨
(7)実りの秋は、赤い稲穂の波
(8)中臣氏は、亀卜ではなく、太兆(太占・ふとまに)で占ったと、主張
(9)『天都詔戸の太諸刀言を以て告れ』について


今回は、大嘗祭で、必ず読まれていた、「天神寿詞(あまつかみのよごと)」
について記します。
その前に、「天皇号」正式採用について、述べさせていただきます。
このことにより、天神寿詞(あまつかみのよごと)を読み上げた時の
感動が、伝わってくるからです。
 


(1)「天皇号」正式採用のインパクトは、易姓革命以上


「天皇号正式採用」は、それまでの大和朝廷を一新させました。
それは、むしろ、国が変わる易姓革命よりも、持続的な意味において、
計り知れない変化です。

日本は、ここにおいて、つまり、「天皇号」正式採用により、
独立国としての、万世一系の天皇を中心とする神々の国、
となったのです。

天照大神を中心とする八百万神も、天皇誕生を喜んでいるのです。
その「天皇号正式採用」の喜びの表現が
「天神寿詞(あまつかみのよごと)」である、ともいえるのです。
 

(2)「天皇号」正式採用による、独立国家を
   証明する具体的な事例を知る人は少ない


「天皇号」の正式採用が、どれほど重大なことであったのか、
それを伝える人は、あまりにも少ない。
天武天皇が「天皇号」を正式に採用したことで、
成立した事例をあげれば、次の通りです。

①大嘗祭の創設
②伊勢神宮のリニューアル
③『古事記』『日本書紀』の編纂
④天皇即位式の完成
⑤律令制度の整備
⑥天神寿詞(あまつかみのよごと)の成立

何故、日本は、世界最長の国として、続いているのか?
その答えは、①~⑥を知ることによって、分かるのです。
PRになって、大変恐縮ですが、
是非とも、『大嘗祭・天皇号・伊勢神宮』
畑アカラ(ヒカルランド)をお読みください。
 


(3)天神寿詞(あまつかみのよごと)の成立は、
   「天皇号」正式採用と同時


「天神寿詞(あまつかみのよごと)」とは、天つ神が天皇を
寿(ことほ)ぎ祝う詞(ことば)の意です。

※祝詞(のりと)は、一般に人が神に申しあげる言葉です。
寿詞(よごと)は、神から人を通じて下される言葉ですから、
これを奏上することは、神の祝意を伝える、という意味です。

大嘗祭の時、または天皇が即位する日、中臣(なかとみ)氏が
これを読むのがならわしでした。
「中臣寿詞(なかとみのよごと)」とも言われています。

『日本書紀』において、持統天皇4年(690年)、
天皇即位に際して物部麻呂(もののべのまろ)は
大盾(おおたて)を立て、中臣大嶋(なかとみのおおしま)は
「天神寿詞(あまつかみのよごと)」を読み、
忌部色夫知(いんべのしこぶち)は神璽(かみのしるし)の
剣・鏡を奉上(たてまつ)ったことが記されています。

翌年の持統天皇5年(691年)にも、大嘗祭において
中臣大嶋(なかとみのおおしま)が「天神寿詞」を読んでいます。

『日本書紀』によりますと、天武天皇2年(673年)、
「大嘗(おほにへ)」を斎行しました。しかし、試行錯誤を
ともなった、完全には整っていない大嘗祭だったのではないでしょうか。
それでも、「天神寿詞(あまつかみのよごと)」は、中臣氏によって
読み上げられた、と想像できます。
 

(4)「天皇号」正式採用と独立国家の歓びで、
   中臣氏は、誇りを持って「天神寿詞」に「天皇」と記し、読み上げた


ここで紹介する天神寿詞(あまつかみのよごと)は、
平安後期の天皇・近衛(このえ)天皇(在位は1141年~1155年)の時のもの
ですから、はたして、天武・持統天皇と同じ時代の文面と同じなのか、
それが気になるところです。

天神寿詞(あまつかみのよごと)の出だしは次の通りです。

<< 現御神(あきつみかみ) と 大八嶋國(おほやしまくに・日本)
   所知食(しろしめ)す(統治されている) 
   大倭根子天皇(おほやまとねこすめら) >>

私は、大嘗祭創設の動機は、天皇号の正式採用にあると、
過去、何度も述べています。

天武天皇が天皇(北極星)たらんとして、伊勢神宮をリニューアルし、
大嘗祭を創設したのです。
そこに、天皇(北極星)の証明の呪術を施(ほどこ)したのです。

ならば、大嘗祭が創設された時の「天神寿詞(あまつかみのよごと)」の
奏上文には、誇りをもって、そして独立国の気概をもって、「天皇」と
記したに違いありません。

読み方は「すめら」ですが、今までの「すめら」ではありません。

太陽がこれから勢いを増していく日、そして北極星が最も長く夜空に
輝いている日・・・この冬至の日に、つまり、大嘗祭の日に・・・
天皇は、晴れて、天照大神(太陽)の御子(みこ・日の御子)となり、
天皇[北極星・天皇(てんこう)大帝]となられるのです。

そして、天武天皇が天皇号を正式に採用したことで、
真の独立国となったのです。
 


(5)大嘗祭は、「食(た)べする」総合的な祭


「天神寿詞(あまつかみのよごと)」を読んで驚いたことは、
「食」の字の多さでした。

それはまるで、『古事記』において、八岐大蛇(やまたのおろち)の場面を
読んでいて、「八・や」の文字の多さに驚いたときと似ています。

「天神寿詞(あまつかみのよごと)」には、次のような、
連続した言葉があります。
次の通りです。

又申(またまを)さく 天皇(すめら)が朝廷(みかど)に
仕(つか)へ奉(まつ)る(天皇様の朝廷に仕え奉る)・・・中略・・・ 
百姓諸諸集(おほみたから・もろもろ・うごな)はり侍(はべ)りて

①見食(みた)べ・[この大嘗祭の盛儀の様をご覧なさい] 
②尊(たふと)み食(た)べ・[この大嘗祭の聞(きこ)し食(め)す由来を貴びなさい] 
③歓(よろこ)び食(た)べ・[この厳粛な儀式を拝して歓びなさい] 
④聞(き)き食(た)べ・[この天つ神の寿詞(よごと)をよく聞きなさい]

この「食(た)べ」の文章が四回も連続し続くことの意味は、
どのように解釈したらよいのでしょうか?
意図して、このような文章にしたわけです。

天皇は、神様と一緒に新穀を召し上がる[食(た)べする]ことで、
皇位継承の資格を得るということです。
「食(た)べする」は、大嘗祭に相応しい寿詞(よごと)としての表現、
といえるのではないでしょうか。

高森明勅(あきのり)氏は、(小生が勝手に意訳すれば)、
大嘗祭は、天皇から百姓まで、日本の全ての人々が参加する、
民の奉仕・協力によって成り立つ祭であり、一緒になって
 <<「食べする」総合的な祭である>> 
というように述べています。
まさに、その通りだと思います。

◎天神寿詞(あまつかみのよごと)には、「知食(しろしめ)」と
「聞食(きこしめ)」の言葉が、多く使われています

天神寿詞に使われている、「知食(しろしめ)」と
「聞食(きこしめ)」を、全て取り上げてみます。
天神寿詞には、上記した4箇所を入れると、全部で、
11箇所に、使われています。
あえて取り上げるのは、この文章を読んだだけで、
天神寿詞の内容、つまり神様の言いたいことが分かるからです。

ちなみに、大祓詞(おおはらえのことば)にも、
6箇所で使われています。やはり、多いですね。

① 大八嶋國(おほやしまくに・日本) 所知食(しろしめ)す(統治されている) 
  大倭根子(おほやまとねこ)天皇(すめら)
 
② 安國(やすくに)と平(たひら)けく(安らかな平和の国として) 
  所知食(しろしめ)して(治められ)

③ 由庭(ゆにわ)に所知食(しろしめ)せ
  [大嘗祭の斎庭(ゆにわ)においてお召し上がりになられるように]

④ 天都(あまつ)水と所聞食(きこしめ)せ
  [天つ水として皇孫(すめみま)の尊はそれを召し上がりなさい]

⑤ 如此依(かくよ)さし奉(まつ)りし任任(まにま)に
  [このようにして皇祖の神々が皇孫(すめみま)の尊に
   お授けになられたまにまに] 
  所聞食(きこしめ)す(代々の天皇様がお召し上がりになられる)

⑥ 赤丹(あかに)の穂(ほ)にも所聞食(きこしめ)し
  (顔の色艶も赤々と輝くばかりに召し上がられ)
 
⑦ 八桑枝(やくはえ)の立榮(たちさか)え仕(つか)へ
  奉(まつ)るべき祷(よごと)を[いよいよ茂り栄える枝葉のように、
  栄えてお仕え申しあげることになるこの寿詞(よごと)を] 
  所聞食(きこしめ)せと[皇孫(すめみま)の尊(みこと)が
  お聞きなさいますようにと]
 

(6)「天都(あまつ)水」は、天から降る聖なる雨


「天神寿詞(あまつかみのよごと)」は、
中臣(なかとみ)氏の祖先が、命の水をもたらした、
と言わんばかりの詞(ことば)があり、
中臣氏の自画自賛には、苦笑せざるを得ません。
この「天都(あまつ)水」の神話は、要約すると次の通りです。

<< 中臣(なかとみ)の祖神でもある天児屋命(あめのこやねのみこと)が、
   子の天忍雲根神(あまのおしくもねのかみ)を天上に上らせ、
   神漏岐(かむぎ) 神漏美命(かむろみのみこと)から
   天(あま)の玉櫛(たまくし)を授かり、この玉櫛(たまくし)を
   刺立(さした)てたところ無数の竹の群れが生え、竹の下から
  「天(あま)の八井(やい)」が湧き出て、その水を
  「天都(あまつ)水」として持ち帰り、
   地上の水に加えなさいという、神話 >>

古(いにしえ)の「天都(あまつ)水」は、天上の神聖な
「天(あま)の八井(やい)」から湧き出る水であり、
それが地上に雨として降り、人々の生命の水として、
また五穀豊穣をもたらす水だったのです。

伊勢神宮にも「天(あま)の八井(やい)」と同様な物語があります。
それが「八盛(やもり)の水」です。

天(あま)の聖なる水は、同じ「八・や」、
つまり①「天(あま)の八井(やい)」と
②「八盛(やもり)の水」で表現されています。
古代日本の聖数「八・や」は、ここでも使われているのです。
 

(7)実りの秋は、赤い稲穂の波


「天神寿詞」には、次のような文章が記されています。

<< 赤丹(あかに)の穂(ほ)にも所聞食(きこしめ)して
   (顔の色艶も赤々と輝くばかりに召し上がられ) >> 

この「赤丹(あかに)の穂」が、赤米(あかまい)を、
意味していると思われます。

太古の日本は「赤米」を食べていました(他の種類の稲も作っていましたが)。
本居宣長(もとおりのりなが)は、「ニニギ」とは、
「丹饒(ににぎ)」で、稲の赤らんで稔(みの)った姿を
いうものとしています。

赤米は、日本の原種であったのです。従って、古(いにしえ)においては、
実りの秋は、黄金色ではなく、赤い穂の波であったのです。
 


(8)中臣氏は、亀卜(きぼく)ではなく、
   太兆(太占・ふとまに)で占ったと、主張


「天神寿詞」においては、悠紀(ゆき)国、主基(すき)国を
占う方法は、亀卜(きぼく)ではなく、太占(ふとまに)だったと、
記しています。

しかし、少なくとも、平安時代以降の宮中関連の卜占(ぼくせん)は、
それまでに行われていた鹿の肩甲骨(けんこうこつ)を使った
太占(ふとまに)から、亀卜(きぼく)へと変わったのです。

ならば、飛鳥時代の初期大嘗祭においては、「天神寿詞」に
記してあるように、太占(ふとまに・鹿占・しかうら)であったのです。

『古事記』の天の岩屋戸において、このようなことが書かれています。

<< 天兒屋命(あめのこやねのみこと)、布刀玉命(ふとだまのみこと)を
   召(め)して、天の香山(かぐやま)の眞男鹿(まをしか)の肩を
   内抜(うつぬ)きに抜きて、天の香山(かぐやま)の天の朱櫻(ははか)を
   取りて、占合(うらな)ひ まかなはしめて >>

※朱櫻(ははか)は、「ウワミズザクラ」のことであると言われています。

中臣氏は、「中臣氏のご先祖様である天兒屋命(あめのこやねのみこと)は、
天石屋戸において、既に、太占(ふとまに・鹿占・しかうら)をしていたのだ」と、
その歴史を誇っているのです。
 


(9)『天都詔戸(あまつのりと)の太諸刀言(ふとのりごと)を
   以(もち)て告(の)れ(告り申しなさい)』について


「天神寿詞」には「天都詔戸(あまつのりと)の太諸刀言(ふとのりごと)を
以(もち)て告(の)れ」と記してあります。

この文言は、大祓詞(おおはらえのことば)にもあり、
この文言に対して、多くの説があります。その説の多さに、
大変驚いてしまいます。

この件、私は全く近寄ってもいないので、いま言えることは
何もありませんが、八の世界かも知れません。

賀茂真淵、本居宣長は、天都詔戸(あまつのりと)の
太諸刀言(ふとのりごと)を、大祓詞(おおはらえのことば)
自体のことであるとする説を唱えました。

これに対して平田篤胤は『古史伝』で「天照大神から口伝の
天津祝詞之太祝詞事(あまつのりとのふとのりごと)という
祝詞(のりと)があり、中臣家に相伝された」という説を唱えました。

伯家神道の流れを汲む教派系においても、そして吉田神道においても、
「トホカミエミタメ」を重要な神呪としています。

吉田神道と伯家神道は、宮中八神を祀っていたことで、有名です。
八の探究家としては、八との関連が想像されて、興味を持たざるを
得ませんので、今後の課題としたいと思います。

私としては、御膳(みけ)八神、宮中八神、北斗八星、
八重畳(やえだたみ)、八開手(やひらで)、八度拝、
八角形高御座(たかみくら)、八角形天皇陵、等々、
興味は尽きないですね。

ホツマツタヱでは「トホカミエミタメ」ではなく、
「トホカミエヒタメ」で、太占(フトマニ)図があり、
その内側の八言が「トホカミエヒタメ」となっています。

第3回『日本人は、生きる術として、「斎庭の穂」を選択した』

第3回目
日本人は、生きる術(すべ)として、
「斎庭(ゆにわ)の穂(いなほ)」を選択した


(1)三代続く、真床覆衾(まとこおふすま)の事例
(2)天照大神の日の御子(みこ)に、「穂」の付く名が
   三代続いて入っている

(3)高天原も、地上も、ペアの聖田である、その理由
(4)ペア(対)の聖田と、天孫降臨による
  「斎庭(ゆにわ)の穂(いなほ)」の八州(やしま・日本)への広がり

(5)以上の一覧から、何を述べることが出来るのか?

(1)三代続く、真床覆衾(まとこおふすま)の事例

前回のブログ連載の第6回目において『ニニギノミコトから続く、
連続三代の真床覆衾(まとこおふすま)の事例を、無視できるのか?』
について記しました。

そこでは、『日本書紀』に記されている、三代続く
真床覆衾(まとこおふすま)の事例に対して、
無視できる勇気を持てないとし、折口信夫氏の
「真床覆衾論」を擁護しました。

※衾(ふすま)は、掛け布団の薄いようなもの。

①ニニギノミコトが、真床覆衾(まとこおふすま)に
 覆われて、地上に天降る場面

②海神(わたつみかみ)が、ニニギノミコトの子供・
 山幸彦(やまさちひこ)を招き入れて、
 真床覆衾(まとこおふすま)を設(しつら)えて、
 天神(あまつかみ)であるのか、ないのか、様子を
 確かめる場面

③豊玉姫(とよたまひめ/夫・山幸彦)が、生んだ子・
 鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)を、
 真床覆衾(まとこおふすま)に包み、海辺に置いて、
 海に帰ってしまう場面


この事例は、天孫降臨から始まり、天皇の誕生へと続く、
重要な意味を含んでいると、思われます。

このことと、同様に、もう一つの、三代続いた、
意味深い重要な事例があります。

それは、三代続いて、日の御子(みこ)の名前に
「穂」の字が付いていることです。

高天原(たかあまはら)の「斎庭(ゆにわ)の穂(いなほ)」が、
地上に降ろされ、八州(やしま・日本)全土へと広がる様相を
表現している、ともとれます。


(2)天照大神の日の御子(みこ)に、「穂」の付く名が
   三代続いて入っている

天孫降臨神話に関わりのある、三代続く日の
御子(みこ)の名には、「穂」の字が付いています。
天照大神の子孫が「斎庭(ゆにわ)の穂(いなほ)」を
たずさえて降臨し、地上においても「斎庭(ゆにわ)の穂(いなほ)」を
広めようとしたことが分かります。


次のように、なります。
天照大神
→①アメノ(ホ)シミミ
 「天上の立派な穂のような方・天照大神の子供」

→②ヒコ(ホ)ノニニギ
 「稲穂のニギニギしく稔(みの)った姿・
  瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)・天照大神の皇孫(すめみま)」

→③ヒコ穂穂(ホホ)デミ
 「優れた男の人で稲穂が盛んに出るさまを表している・
  山幸彦(やまさちひこ)・ニニギノミコトの子供)」

※天照大神が天忍穗耳尊(あめのおしほみみのみこと)を
 降臨させるも、途中で引き返してしまう。結果、天忍穗耳尊は、
 その間に生まれた息子の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に
 行かせるようにと進言し、瓊瓊杵尊が天降ることになる

※『古事記』では、山幸彦(やまさちひこ)は、
 火遠理命(ほおりのみこと)、 天津日高日子穂穂手見命
(あまつひこひこほほでみのみこと)と記されています。

※ヒコ穂(ホ)ノニニギ「稲穂のニギニギしく稔(みの)った姿・
 瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)」は、瑞穂(みずほ)の国の
 高千峯(たかちほのみね)に降臨します。


(3)高天原も、地上も、ペアの聖田である、その理由


不思議なことに、高天原でも、地上でも、
ペアとして聖田が存在しています。
何等かの意味を感じ取らざるを得ません。
大嘗祭において、聖田は、何故、悠紀田(ゆきでん)・
主基田(すきでん)の2つに分かれているのか?
そして、この件は、何故、神殿は2つなのか?
ということに通じるものがあります。


ペアの聖田を取り上げてみましょう。

①高天原の聖田

天照大神は、高天原において、2つの聖田・
「天狹田(あめのさなだ)」と「長田(ながた)」を
持っていることが、『日本書紀』に書かれています。


<<  素戔嗚尊(すさのおのみこと)の爲行(しわざ)、
    甚(はなは)だ無状(あづきな)し。 何(いかに)とならば、
    天照大神(あまてらすおほみかみ)、「天狹田(あめのさなだ)」・
    「長田(ながた)」を以(も)ちて御田(みた)としたまふ。 >>

                 (『日本書紀』神代紀 第七段 本文)


②木花開耶姫(このはなさくやひめ)の聖田

木花開耶姫(このはなさくやひめ)は、高千穂峰に降臨した、
ニニギノミコトと結婚しましたが、ニニギが降臨する際、
携えていた「斎庭(ゆにわ)の穂(いなほ)」で、自分の田を
作っていたと想像されます。


<<  時に神吾田鹿葦津姫(かむあたかしつひめ・木花開耶姫・
    このはなさくやひめ)、卜定田(うらへた)を以(もっ)て、
    号(なづ)けて「狭名田(さなだ)」と曰(い)ふ。
    其(そ)の田の稲を以(もっ)て、天甜酒(あめのたむさけ)を
    醸(か)みて嘗(にひなへ)す。又「渟浪田(ゆなた)」の稲を
    用(も)て、飯(いひ)に為(かし)きて嘗(にひなへ)す。  >>

               (『日本書紀』神代紀 第九段一書第三)


木花開耶姫(このはなさくやひめ)は、「狭名田(さなだ)」と
「渟浪田(ゆなた)」の聖田を持っていたことになります。

※卜定田(うらえた)とは、占いによって定められた
水田のことです。

③伊勢神宮の聖田

伊勢神宮は、天照大神の神慮により外宮が出来ました。
外宮が出来たことから、ペアの聖田が出来た、とも言えます。
「内宮の御田(みた)」と「外宮の御田(みた)」です。
天照大神・豊受大神(とようけのおおかみ)に捧げる毎日の
御饌(みけ)は、外宮の御田(みた)から採れる稲を使います。

④大嘗祭の聖田

大嘗祭において、最初にすることは、「悠紀(ゆき)国」と
「主基(すき)国」の二国を、卜定(ぼくじょう)することです。
つまり、「悠紀田(ゆきでん)」と「主基田(すきでん)」を、
占いで決めることです(まず国を決め、田の場所は後から)。

何故、聖田を二国に分けるのか? 
何故、大嘗宮は二国を象徴する神殿となるのか?

大嘗祭のこれらのことは、高天原の2つの聖田、
木花開耶姫(このはなさくやひめ)の2つの聖田、
伊勢神宮の2つの聖田、と関係があると想像できます。


(4)ペア(対)の聖田と、天孫降臨による
   「斎庭(ゆにわ)の穂(いなほ)」の
   八州(やしま・日本)への広がり

以上の事例を、1つに纏めると、
次のように、記すことが出来ます。


高天原・天照大神 
→ 「斎庭(ゆにわ)の(いなほ)」
  ①天狹田(あめのさなだ)
  ②長田(ながた)

→ アメノ(ホ)シミミ
 「天上の立派な穂のような方(天照大神の子供)」

→ ヒコ(ホ)ノニニギ
 「稲穂のニギニギしく稔(みの)った姿・
  瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の降臨。天照大神の皇孫(すめみま)」

→ ヒコ(ホ)ノニニギ、高千峰(たかちほのみね)へ降臨

→ ヒコ穂穂(ホホ)デミ
 「優れた男の人で稲穂が盛んに出るさまを
  表している・山幸彦・ニニギノミコトの子供」の配偶者・
  木花開耶姫(このはなさくやひめ)が
 「斎庭(ゆにわ)の(いなほ)」を栽培
  ①狭名田(さなだ) 
  ②渟浪田(ゆなた)

→ 伊勢神宮
 ① 内宮の御田(みた) 
 ② 外宮の御田(みた)

→ 天武天皇・大嘗祭
 ① 悠紀国(ゆきこく)・悠紀田・悠紀殿
 ② 主基国(すきこく)・主基田・主基殿 


(5)以上の一覧から、何を述べることが出来るのか?


この一覧からは、天孫降臨により、「斎庭(ゆにわ)の穂(いなほ)」が、
地上の八州(日本)に広がっていくさまが、想像でき、
気持ちがわくわくしてきます。

上記、四事例のペアの聖田が、それぞれ、陰陽を表現しており、
なおかつ、八州(日本)を表現していると、思われます。

二で、八を表現していると、思われます。
つまり、二箇所の聖田で、八州(日本)の田を表現しているのです。

◎高天原の聖田

高天原は、八州(日本)の原型として存在しているならば、
まさしく、二つの聖田「①天狹田(あめのさなだ)②長田(ながた)」
でもって、八州(日本)の田を表現していると、思われます。
そして、八州(やしま)に稲が広がることを願っているのです。

※天神寿詞(あまつかみのよごと)には、高天原の水
「天(あま)の八井(やい)・天都水(あまつみず)」も、
八州(日本)の地上に届くようにしなさい、と記されています。

高天原の良いことは、地上の八州(日本)に伝えなさい、
との態度を取っています。

◎木花開耶姫(このはなさくやひめ)の聖田

木花開耶姫(このはなさくやひめ)の作っていた聖田
「①狭名田(さなだ)②渟浪田(ゆなた)」は、
占いによって定められた水田です。
大嘗祭の聖田のルーツが、ここにあると想像することは、
可能であると思います。

何故ならば、大嘗祭の2つ聖田「悠紀田(ゆきでん)・
主基田(すきでん)」も、占いで決めるからです。


◎伊勢神宮の聖田

伊勢神宮の聖田は、「内宮の御田(みた)」と
「外宮の御田(みた)」に分かれます。
そもそも、伊勢神宮の呪術自体(天武天皇のリニューアル)が、
内宮と外宮で、天皇を中心とする八州(日本)を表現しています。

よって、2つの聖田「①内宮の御田(みた)と
②外宮の御田(みた)」は、八州(日本)を表現していることは、
これまで私が述べてきた伊勢神宮の呪術(「北極星・北斗八星」)からしたら、
当然なことです。


◎大嘗祭の聖田

大嘗祭の聖田「①悠紀田(ゆきでん)②主基田(すきでん)」は、
これら上記の事例の影響を受けたものと、考えられます。

いままで、二で八を表現しており、それは、八州(日本)を表現
している、と述べてきましたが、大嘗祭の場合は、より具体的に、
2つの国を卜定(ぼくじょう)しています。
私は、大嘗祭と、新嘗祭の大きな違いは、民の参加が有るか無いかの
違いによると、述べてきました。
つまり、民の参加がある、「君民一体」が、大嘗祭の眼目の一つでも
あるのです。

地方の悠紀国(ゆきこく)と主基国(すきこく)の
百姓(おおみたから)が、悠紀殿と主基殿の神殿を作る。
そして、その百姓(おおみたから)が、
天皇と神様が共食する、神饌「しんせん(米と粟)」を作る。
この神とする最も重要なもの(米と粟、神殿)を、
二国の地方の百姓(おおみたから)が作ることに、
大嘗祭の意義があるのです。

不思議ですね。一箇所でやれば簡単にすむものを、なぜ、
二箇所に分けて神事を行うのでしょうか?

それは、「悠紀(すき)国」と「主基(すき)国」で、
八州(やしま)(日本)を代表しているからだと思われます。

伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)の
国生み神話によれば、この二神によって、八州(やしま・日本)が
誕生しています。

大嘗祭においては、「悠紀(ゆき)国」と「主基(すき)国」で、
日本全体を表現しているのです。

よって、大嘗祭においては、悠紀国と主基国の百姓(おおみたから)が、
参加・奉仕しますが、それは、八州(日本)の人々を代表して
参加・奉仕している、ということになります。

また、「悠紀(ゆき)田」と「主基(すき)田」の稲は、
八州(日本)を代表する稲、そして八州(日本)の国魂を
意味している、と思われます。

さらに言えば、「悠紀田・主基田」の稲は、
高天原(たかあまはら)から地上に降りた「斎庭(ゆにわ)の穂
(いなほ)」の稔(みの)りを意味しているのです。

大嘗祭において、皇孫(すめみま)、すなわち天皇は、
ニニギノミコトという名に象徴される稲穂のニギニギしく
稔(みの)った姿を身に付けられるのです。

大嘗祭においては、天皇は、八州(日本)を代表する、
悠紀国・主基国の百姓(おおみたから)が作った
「斎庭(ゆにわ)の穂(いなほ)」である神饌(しんせん)を、
神様と一緒に食することで、皇祖の霊威を身につけ、
天照大神(北極星)とご一体になられるのです。
このことにより、天皇は、日の御子になられるのです。
そして、勿論、北極星(天皇)にもなられるのです。

『大嘗祭と伊勢神宮・稲の祭』第2回

第2回目
家康は天皇の位として祀られたが、
総神主の長・祭祀王・天皇にはなれなかった



1 天武天皇の呪術とは
2 日光東照宮の呪術とは
(1)山王神と摩多羅神(またらじん)
(2)深秘式(じんぴしき)と三種の神器
   ・・・天海大僧正の恐るべき秘術
(3)ついに発見!! 仮説の正しさを証明する、
   極秘敷曼陀羅(ごくひまんだら)と八卦図(はっかず)
(4)御璽箱(ぎょじばこ)とその内部図
(5)日光東照宮・天地の図
3 伊勢神宮と日光東照宮の違い
4 家康は、祭祀王・総神主の長にはなれなかった
  ・・・格の違い



今回は、天皇と徳川家康の関係を述べることとします。
メイン・タイトルの「大嘗祭と伊勢神宮・稲の祭」と
直接関係ないと思われがちですが、
稲と関係する、重大な問題を含んでいるのです。

天皇とは何か、稲とは何か、ということが分かりますので、
あえて、2回目に記すことにしました。

天武天皇の呪術の素晴らしさが、
このことによって、さらに分かっていただけます。


1 天武天皇の呪術とは


前回のブログにおいて記していますが、
伊勢神宮と大嘗祭には、天武天皇の基本となる
呪術・『北極星(太陽・太極)北斗八星(八州・八卦)』が、
施されています。

それは、天の中心、つまり宇宙の中心に描く呪術であり、
世界最強の呪術といっても過言ではありません。
北極星に太陽である天照大神を組み込んだこと、
そして北斗七星ではなく、北斗八星としたところが、
天武天皇の呪術の核となります。


天武天皇は、日本の聖数「八(や)」と、
中国最強の呪術「八卦(はっか)」をプラスした
北斗八星の呪術により、
八州(日本)の国柄を呪術絵として描きました。

よって、天武天皇が創作した呪術としての北斗八星は、
千三百年、ずっと、毎日、北極星を一周しながら、
休むことなく、八州(日本)の国柄を描き続けていて、
皇室、百姓(おおみたから)、日本国、の安寧を
祈っているのです。


この伊勢神宮の総合図を掲載します。
この件については、前回のブログの記事を参照してください。

hata20200220_1.png


2 日光東照宮の呪術とは


前回のブログでも日光東照宮の呪術については、
少し紹介しています。
勿論、日光東照宮の呪術基本は、
天武天皇が創作した
『北極星(太陽・太極)北斗八星(八州・八卦)』です。

天海大僧正は、畏(おそ)れ多くも、
伊勢神宮に施されている天武天皇の呪術を真似して、
家康(いえやす)を天皇と同等、
あるいはそれ以上の位として密かに祀(まつ)ったのです。
恐るべし天海大僧正です。
その呪術の特徴は、北極星に、
多くの神様を意味付けしているところにあります。

「東照大権現(とうしょうだいごんげん)」の東照とは、
朝日のことを意味します。
つまり
「天照(あまてる)=海照(あまてる)=東照(とうしょう)」
のことです。
よって、東照大権現とは、天照大神を意味している、
とも言えるのです。

また、天海大僧正は、
薬師如来を東照大権現の本地(ほんじ)としました。
(家康は薬師如来の申し子だという伝説あり)


密教では、薬師如来と大日如来(だいにちにょらい)は
同体の如来としているということから、
「北極星=家康=東照大権現=天照大神=大日如来=薬師如来」
ということになります。

家康は、多くの神様を象徴している日神でもあり、
また北極星神でもあるのです。

(1)山王神と摩多羅神(またらじん)


徳川家康は東照大権現として祀られました。
その相殿神(あいどのしん)は、
山王神道の山王神と摩多羅神(またらじん)です。

東照大権現の相殿神としての山王神は北斗七星で、
摩多羅神はその輔星(ほせい)であるといわれています。
「北斗七星+輔星」です。
となると、主祭神・東照大権現の家康は、
北極星に当たります。


高藤晴俊氏の『日光東照宮の謎』によると
次のように述べています。

◎東照宮に伝えられる三幅対の画像では、
 中央に家康像、左右に山王神と摩多羅神が描かれている。
◎摩多羅神の画像の上部には、
 北斗七星と輔星(アルコル)が描かれている。
◎山王神の画像の中央には、七神のみで
 輔星に相当する神像が描かれていないことから、
 摩多羅神が輔星に当てられていると類推される。

hata20200220_2.png



(2)深秘式(じんぴしき)と三種の神器
   ・・・天海大僧正の恐るべき秘術

天海は、家康公の神柩(しんきゅう)を納めた
奥の院の御廟塔(ごびょうとう)供養のさい、
恐るべき秘術儀式・山王一実神道
「塔中勧請鎮座深秘式(とうちゅうかんじょうちんざじんぴしき)」を
行ったといわれています。


※この件については、
『天台密教の本』(学習研究社)に書かれた不二龍彦氏の記述、
『台密の理論と實踐』(三崎良周・創文社)の記述、
 そして『日本思想と神仏習合』(菅原信海・春秋社)の記述からも
 参考にさせていただきました。

なんと天海は、天皇位の証(あかし)である
「三種の神器」を印明(いんみょう)という形で表し、
家康に伝授したのです。

その三種の神器は、
神柩(しんきゅう)の中に納められた
御璽箱(ぎょじばこ)の内箱の台座に、
「神鏡、宝剣、神璽(しんじ)」と梵字(ぼんじ)で書かれ、
表現されていたのです。

御璽箱(ぎょじばこ)の外箱は八角形です。
これは、胎蔵界(たいぞうかい)の「八葉蓮華」を
表現したものです。
しかし、天海は、あろうことかこの八角形に、
天皇即位のさい用いられる
八角形の「高御座(たかみくら)」の意味を持たせた、
と思われます。

さらに、補足するならば、
内箱に梵字(ぼんじ)で書かれた三種の神器も、
全て「八」で表現出来ます。
すなわち「八咫鏡(やたのかがみ)」、
「八剣(やつるぎ)(草薙剣・くさなぎのつるぎ)」、
「八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)」です。

ここでいう神璽(しんじ)は、
「八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)」を表しています。
即ち、全て「八の世界」なのです。


(3)ついに発見!! 仮説の正しさを証明する、
極秘敷曼陀羅(ごくひまんだら)と八卦図(はっかず)


内箱には、梵字(ぼんじ)で書かれた
三種の神器(じんぎ)とともに納入されていた、
「極秘敷曼陀羅(ごくひしきまんだら)」があります。
『極秘敷曼陀羅は箱の内に敷くものである』、
と三崎良周氏は述べています。

「極秘敷曼陀羅」は、「八」の探究者の私に、
勇気と喜びを与えてくれた、
と言っても過言ではありません。

天海さん、やっぱりここに行き着いたのか、
という気持ちです。
なぜなら、そこには、
はっきりと八卦(はっか)が描かれているのです!! 

何と『曼荼羅を、「八卦」で表している!!』のです。
しかも「敷」曼陀羅なのだ!! 

私は興奮の極(きわみ)に達し、
そして安堵しました。


「天」に「北極星(太陽・太極)北斗八星(八州・八卦)」を
描いたならば、
必ず「地」にも「北極星(太陽・太極)北斗八星(八州・八卦)」を
描いているに違いないという、
私の今までの推理の正しさを、裏付けてくれたのです!! 

もう、
< 伊勢神宮と大嘗祭においては、
天地に、呪術として「北極星(太陽・太極)北斗八星(八州・八卦)」が
描かれている >との、
私の仮説を疑う者はいないであろう。

私は高ぶった気持ちを抑(おさ)えることが出来なかったのです。


(4)御璽箱(ぎょじばこ)とその内部図


 次図は、
< 『天台密教の本』・(ブックス・エソテリカ)・学習研究社 >
に掲載されていたものです。

hata20200220_3.png
御璽内箱

画像3.png
御璽外箱
        

hata20200220_4.png


この極秘敷曼陀羅を御璽箱の下に敷いた呪術こそが、
天海が考えた最も重要なデザインの一つなのです。

八卦を描いた極秘敷曼陀羅のその上には、
家康自身といえる御璽の内箱と御璽の八角形外箱が乗る形になります。
よって、家康は太極(北極星)となります。

この形は、天皇が八角形の高御座(たかみくら)で
即位式を行うという姿を思い出させます。
つまり、家康が亡くなった後、
天皇と同等の位になるという意味を含んでいたと思います。

そしてそれを宝塔八角形基壇が覆(おお)います。
この八角形基壇ですが、さらに次のことが言えるのです。

伊勢神宮を整備発展させた天武天皇は、
崩御された後、八角形墳陵に葬(ほうむ)られました。
勿論、天海は、このことを知っていました。
家康神廟の八角形基壇は、それに影響を受けた形なのです。


hata20200220_6.png


(5)日光東照宮・天地の図


天皇になりたかった家康の呪術的グランドデザインが、
初めて明らかになる瞬間でもあります。

デザイン図は次の通りです。

hata20200220_7.png

天海大僧正が描いた、
最高級の秘密裏の呪術デザインがいま明らかになりました。
まるで、見てはいけないものを見てしまった、
戦慄(せんりつ)すべき呪術のようでもあります。

伊勢神宮と東照宮の呪術を比べてみようと思います。
この比較は、驚くほどはっきりと
根本哲理の違いを示唆(しさ)してくれます。


3 伊勢神宮と日光東照宮の違い


伊勢神宮は静かに凛然(りんぜん)として堂々と続いています。
光東照宮も煌(きら)びやかに続いています。

また、いわゆる万世一系の天皇と平凡な出自の家康、
という対比も面白い。
(家康は、出自をでっちあげ
 源姓(みなもとせい)を名のったりもした)

日光東照宮が世界文化遺産に指定されているのに、
伊勢神宮はなぜ指定されていないのか。
この対比も面白い。

天海は、徳川家康を、
まさに考え得る最高のグレードとして祀りました。
伊勢神宮と東照宮は、
いずれも太陽の神様と北極星の神様です。


私は、ふと思います。
東照宮の呪術は、天皇とは何かという意味・意義を、
我々に切ないほどに教えてくれている、と。

家康は東照宮の呪術に示されているように、
これほどまでに天皇の地位に憧(あこが)れていながらも、
天皇になろうとしなかった。

簡単に天皇家を滅ぼすことが出来たのにも拘(かか)わらず、
です。
さすがに、千数百年も連綿と続いてきた万世一系の天皇家に対しては、
血筋の違いに畏怖(いふ)せざるを得なかったのであろう。

また、たとえ、天皇家を名告(なの)っても、
他の人々が認めるわけが無いことを自覚していたのです。
表立って人々に知られることなく、
秘密裏の呪術によって天皇の地位として祀られた家康の心は、
まさに、「いじらしい」とも言えるのです。


4 家康は、祭祀王・総神主の長にはなれなかった
    ・・・格の違い

前回のブログにおいて、
伊勢神宮と大嘗祭の呪術的基本的概念は、
天地に「大八洲瑞穂国(おおやしまみずほのくに)(八束穂)」を
描くことである、
と理解しました。

この壮大で実にシンプルな概念図は、
我々に伊勢神宮と天皇の何たるかを教えてくれました。


hata20200220_8.png


ところが、伊勢神宮を真似た日光東照宮の場合はどうでしょうか。
そのように思ったとき、初めて、
日光東照宮には、稲が北斗八星に配されていないことに
気がついたのです。

天海大僧正は、伊勢神宮を真似し、
密かに天皇以上の位として
徳川家康を日光東照宮の奥の院に祀ったのですが、
さすが、食の安寧を祈る稲の呪術は、
施(ほどこ)さなかった。

勿論、日光東照宮においては、
稲が北斗八星として、
天地に配されていないからといって、
稲の祭祀が無いわけではありません。

その年の一年の豊作を祈る「祈年祭(としごいのまつり)」、
豊作を感謝する「新嘗祭(にいなめさい)」等々も
行われています。


果たして天海は、伊勢神宮と大嘗祭の、
天地に北斗八星としての八束穂を描く概念を
知っていたのであろうか。
いやいや勿論、天海は知っていた。

しかし、そこまで真似ることは物理的に不可能であったのです。
やはり、歴史の重みが違うのです。

そもそも伊勢神宮が稲倉(いなぐら)の形をしていること。
天皇の祖神(おやがみ)・天照大神が稲と結びついていること。
天皇は、大八洲瑞穂国(おおやしまみずほのくに)の
総神主の長・祭祀王であること。
これらのことはさすがに天海大僧正も
真似することは出来なかったのです。

いかに天皇に似せようとしても、
稲の呪術と祭祀だけは組み込めなかったのです。


前述しているように、天海の、
天皇を真似た呪術の内容のあまりの凄さに、
私は恐れおののいた、
と言っても過言ではありません。
ここまで真似をするのか、
という気持ちでした。

しかし、徳川家康は、
<<「総神主の長・祭祀王たる天皇」にはなれなかった>>。

つまり、日本の国柄・「大八洲瑞穂国(おおやしまみずほのくに)」を
表現することは、出来なかったのです。

この差はあまりにも大きいと感じる次第です。

『大嘗祭と伊勢神宮・稲の祭』第1回


◎ブログ連載にあたり

このたび、再び、ブログの連載をさせていただくことになりました。

タイトルは『大嘗祭と伊勢神宮・稲の祭』です。

今回は、大嘗祭と伊勢神宮における、稲の役割とその意味について、
記したいと思っています。
高天原での天照大神は、自身が耕作していた
「斎庭(ゆにわ)の穂(いなほ)」をニニギに持たせて、
地上に降ろし、その稲が日本国中に広がり、
百姓(おみたから)が飢えることのないようにと、
永遠に、祈っているのです。

この物語を採り入れたのが、
大嘗祭と伊勢神宮(リニューアル)です。
稲の持つ意味を、大嘗祭と伊勢神宮を通して、
語りたいと思います。

勿論、稲・米も八の世界です。聖なるものは、
聖数・八で表現する、というのが
古(いにしえ)からの日本の習わしなのです。  
私は、八の探究家としての役割を、
稲についても、果たしたいと思います。

◎2月26日(水)、講演があります

大嘗祭についての講演は、
にんげんクラブさんにおいて、
既に11月7日に終了しています。
本が出版される前のことでした。

このたび、出版後の
2月26日、3月25日に、
講演いたします。


2月26日(水)の講演で、
真実の、「天皇と大嘗祭・伊勢神宮」について語ります。

タイトルは
『天皇・国家・大嘗祭(伊勢神宮)
-8の暗号を解く-本義を初めて知る』
です。


八の探究家だからこそ、
八州(やしま)の国である日本の真実(国家の八の暗号)を、
発見出来たのです。

誰も発見出来なかった、
「日本国家の八の暗号」ともいえる、
世界最強の呪術に付いて語ります。

この呪術を知らずして、日本を語れない、
というのが私の正直な気持ちです。


日本の姿(国家の八の暗号)を知らないままでは、
あまりにも悲しい。

是非、講演を聞きに来てください。

☆.。.:*・°☆☆.。.:*・°☆☆.。

畑アカラ先生 「初めて語る天皇と大嘗祭の真実」Ⅱ(2/26)

☆.。.:*・°☆☆.。.:*・°☆☆.。


ブログ連載・第一回

「天武天皇の、稲作に対する驚きの本気度を知る」


(1)天武天皇の食肉禁止令は、
   稲作で日本人の生命を維持しようとした
   気持ちの表現である
(2)御岳行者(おんたけぎょうじゃ)の乱
(3)吉祥の稲のパワー
(4)稲と税


天武天皇は、日本人の生きのびる手段として、
稲作を採用しました。

このことは、天武天皇が創作した大嘗祭と、
天武天皇がリニューアルした伊勢神宮の儀礼祭祀を
検討すれば分かることです。

その稲に対する、熱い気持ちが
『日本書紀』に記してありますので、ご紹介します。


『日本書紀』の天武紀を読んでみると、
肉食禁止令が出ていて、驚かされます。
このことは、稲作に重きをおきなさい、とも取れる重大な禁止令です。

そして、吉祥の稲の話が、出てきます。
他の天皇紀には見られない、事例の多さです。


この特異である二事例を記します。
この二事例で、天武天皇の稲に対する、
並々ならぬ熱い思いが伝わってきます。


(1) 天武天皇の食肉禁止令は、
  稲作で日本人の生命を維持しようとした
  気持ちの表現である

天武天皇は食肉禁止令を出しました。

『日本書紀』天武天皇下・四年(675)の記述に
<< 且(また)牛・馬・犬・猨(さる)・
鶏の宍(しし)を食(くら)ふこと莫(まな) >>
とあります。

天武天皇は、
<< 牛馬犬猿鶏の肉を食べるな >>
との禁止令を出したのです。


しかし、当時における主とする狩猟獣であった鹿と猪が、
除外されていました。

また、4月から9月までという禁止期間を考えると、
この期間が稲作を中心とする農耕期間に当たります。
ということは、稲作を中心とする農業の推進にあったと考えられます。

つまり、ウシやウマなど稲作に役に立つ動物の肉食を禁止し、
保護を目的とした、とも考えられるからです。


さらに言えば、稲作を普及させることにより、
稲を税収とする、そのための安定的な確保の為にとも考えられます。

肉食禁止令を出すことは、当時は、
肉食もかなり盛んであった、ということになります。


天武天皇が、大嘗祭と伊勢神宮に施した呪術は、
北斗八星に、八束穂(やつかほ)を描き、
百姓(おおみたから)が、飢えることのないようにと、
ひたすら祈っている、内容でした。

このことは、前回のブログで記しています。

畑ブログ1.jpg

私は、ここに、天武天皇の、独立国・日本としての
強いアイデンティティを見ます。

騎馬民族文化、牧畜文化の強い拒否です。

天武天皇は、稲作の普及により、
日本人の生命を維持しようとしました。
日本人の生きる道として、はっきりと、
稲作を選択したのです。


天武天皇は、北極星を意味する、
つまり、独立国を意味する「天皇号」を正式に採用しました。

それは、前回のブログで、既に述べているように、
大嘗祭創設、リニューアル伊勢神宮は、
対・中国皇帝属国拒否宣言でもあったのです。


大嘗祭の創設と伊勢神宮のリニューアルは、
はっきりと、独立国日本は、稲を生命の糧とする、
騎馬民族国家とは違うという、気概をみせたとも、
言えるのです。

戦後、流行(はや)りました騎馬民族征服王朝説は、
大嘗祭と伊勢神宮を精査する限り、
全く縁のないもの、と言えるのです。

(2)御岳行者(おんたけぎょうじゃ)の乱

時代と共に、獣肉は、仏教の殺生(せっしょう)の罪観念と
神道の「ケガレ」の観念とにより、
食卓からは消えました。
(全く消えたわけではないと思いますが)

獣肉の禁止観念は、米をより聖なるものとしたのです。


食肉が解禁になったのは明治四年です。
解禁の翌年、白装束の御岳行者(おんたけぎょうじゃ)10人が、
天皇に肉食禁止を訴えるために皇居に入ろうし、
4人が射殺される事件が起こりました。

稲作を司る神聖な天皇が、肉を食したため社会が
ケガレ、混乱したと考えたのです。
(毎日新聞記事「にっぽん一千年紀の物語.・35」平成12年11月6日)


このことは、如何に、稲作・米が神聖なものとして、
思われていたかの、証左にもなります。

高天原にお住まいになっていた天照大神の神代の時代から
米は大切なものとされてきました。
そして、特に、天武天皇の時代からずっと、
貨幣になり得るものとしての米の神聖さが、
一層強調されたのです。

結果、ついには、御岳行者(おんたけぎょうじゃ)の乱のような
事件が起こったのです。


(3)吉祥の稲のパワー

『日本書紀』の天武紀には、
吉祥の稲の話が記してあります。
天武天皇がいかに稲を大事に思っていたのか、
その気持ちが伝わってきます。

その記事を全て取り上げてみます。


勿論、吉祥とされる鳥、鹿、等々の動物の献上の話も
述べられていますが、
吉祥の稲の献上話が数回記してあるのは、
多分、天武紀においてのみであろうと想像されます。

 
1、天武七年九月、珍しい稲五茎(いつもと)を献上した。
2、天武八年八月、吉祥の稲を献上した。
  畝(うね)は別で、穂は一つであった。
3、天武八年十二月、吉祥の稲が現れたことにより、
  親王・諸王・諸臣及び百官の人々に、
  各々に応じて賜禄(しろく)があり、
  死罪以下をすべて赦免(しゃめん)した。
4、天武八年、因幡(いなば)の国が珍しい稲を献上した。
  それぞれの茎から枝が出ていた。
5、天武九年八月、吉祥の稲を献上した。  


3番目の
「親王・諸王・諸臣及び百官の人々に、
各々に応じて賜禄(しろく)があり、
死罪以下をすべて赦免(しゃめん)した」とは、
驚きです。

さすがに、ここまでするとは、ただ事ではありません。

ならば、稲に対して、このような熱い気持ちを持っていた天皇は、
天武天皇のみであろうかと、思うわけです。


天皇は、天上、つまり高天原(たかあまはら)から
地上に降ろされた「斎庭(ゆにわ)の穂(いなほ)」を
宗教的に統合する司祭者でもあります。

このことは、伊勢神宮及び大嘗祭(新嘗祭)の儀礼を
検証することで分かります。

そしてさらに、歴代の天皇が、稲・米についての儀式、
つまり大嘗祭を最大の重儀としてきたのは、
日本国民の生活を保証する究極的な方法と考え、
その責任を果たすためであったとも解釈できます。


(4)稲と税

伊勢神宮の玉垣(たまがき)には、
稲刈りした状態のその年に穫れた最初の稲を掛けます。
これを「懸(か)け税(ちから)」といいます。

税金の税というのは、本来はお米のことで、
それを伊勢神宮の玉垣に懸けるのです。

神様に対して税として払う、という意味合いもあります。

『止由気宮儀式帳(とゆけぎしきちょう)』(外宮)によると、
抜(ぬ)き穂(ほ)の「八荷」は心御柱(しんのみはしら)に供えられ、
懸(か)け税(ちから)の「百八十荷」は玉垣に懸けられます。

この「百八十荷」の懸け税を、
「千八百税(ちやおぢから)」とも言います。

ここでも、八の世界が稲の数として、顕現しています。

税の中心も米となり、米はまさしく他の食べ物とは別格のものとして、
聖なる地位を得たのです。

それは、後の世の石高制(こくだかせい)となり、
米が社会基盤の中心となったのです。



※石高制(こくだかせい)とは、
 豊臣秀吉の石(こく)改めに始まり、
 地租改正によって廃止された、
 江戸時代の土地制度の原則。
 田畑や屋敷などの土地はすべて米の生産力に換算・表示され、
 そのことが百姓所持地(百姓高所持)から
 大名領知(石高知行制)にまで貫徹していた。
   (大辞林)


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