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第10回「高松塚とキトラ古墳は、永遠の皇国史観を表現・壁画が語る真実」     

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第1回「高松塚古墳説の不思議」
第2回「高松塚概要と北斗八星が描かれていなかった真実」
第3回「高松塚の人物像の立ち位置は、北斗八星(帝車)を表現」
第4回「歴史が変わる-高松塚の[北斗八星帝車・陪塚・出行図]発見」
第5回「これまでの高松塚・キトラ古墳・被葬者説は、全て謀(む)大逆罪?」
第6回「天地に描く、北極星古墳(中尾山)と北斗八星古墳(高松塚)」
第7回「天皇を 永久に守るは 高松に 眠りし臣下 北斗八星」
第8回「キトラ古墳の壁画創作<動機・本義>は、高松塚と同じ」
第9回「キトラ古墳の被葬者・阿倍御主人(みうし)の心意気」
第10回「高松塚とキトラ古墳は、永遠の皇国史観を表現・壁画が語る真実」
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第10回 「高松塚とキトラ古墳は、
          永遠の皇国史観を表現・壁画が語る真実」

1 壁画古墳である、高松塚古墳とキトラ古墳の築造動機・・・その心理模様
2 阿倍御主人(あべのみうし)の美学とその心理
3 石上麻呂(いそのかみのまろ)の美学・・・その心理
4 世界一の陪塚(ばいちょう)と出行図(しゅっこうず)――その壁画歌(へきがうた)の美学

まさか、高松塚古墳壁画とキトラ古墳壁画が、永遠の皇国史観、つまり、永遠の天皇崇敬
護持を表現しているとは、これまで両古墳を探究してきた、考古学者・歴史学者・歴史作家
・天文学者・美術学者、等々のほとんどの方々は、露ほどにも思わなかった、と思います。

ならば、その方々にとって、永遠の皇国史観とする小生の説に対して、これほどの衝撃が
ありましょうや。
ましてや、両古墳の壁画が、皇国史観に通じる天皇崇敬護持を表現していたとなれば、
それだけで、色々な思いをする人達がいることを考えますと、どのように対処したら
良いのか、考えあぐねてしまいます。

1 壁画古墳である、高松塚古墳とキトラ古墳の築造動機・・・その心理模様

これから記すことは、これまでの連載記事と重複(ちょうふく)する場合がありますが、
まとめの意味もあるので、ご了解のほど、お願いいたします。

そもそも、何故、キトラ古墳(703年)と高松塚古墳(717年)が、築造されたのか?
当時の状況と、両古墳の被葬者、石上麻呂(いそのかみのまろ)と阿倍御主人(あべのみうし)
の心理を、記してみることとします。

壁画古墳を最初に築造したのは、阿倍御主人(みうし)として、述べます。

ならば、何故、阿倍御主人(あべのみうし)は、前例のない壁画(キトラ古墳・完全天皇図)
を描こうとしたのでしょうか?
そして、天皇でもないのに、どうして完全天皇図(天文図+日月図+四神図)を描くことが、
出来たのでしょうか?

◎完全天皇図・壁画制作許可と陪陵(ばいりょう)許可の要因

完全天皇図の壁画制作許可と陪陵(ばいりょう)許可は、当時の世相・状況を反映したものです。
大きく分けて、二つの要因が考えられます。
※陪陵(ばいりょう)とは、中国皇帝の墓域内周辺(陵園)に、親族、臣下の墓を築くこと。
この場合、天武天皇の陵園内に、お仕えした天皇を、付き添い守護する目的で作られる墓。

① 天皇(北極星)とは何たるかを知らしめ、天皇中心の律令(りつりょう)制度を確立
  させようとした当時の世相。

② 唐の陵園制・陪陵制の影響。つまり、壁画を描き、陵園内に陪葬(ばいそう)される
  唐の制度の影響。

私は、この二つが合致して、天武天皇陵園内に壁画古墳が作られた、と理解します。
それは、①天皇を「大君は 神にし 坐(ま)せば」と言祝(ことほ)ぐ世相と、②中国陪陵制
の影響を受け、天武天皇陵園内に陪葬されたいと思った臣下の気持ちとが、合致したからだ
と、思います。

阿倍御主人(あべのみうし)は、天皇を「大君は 神(北極星)にし 坐(ま)せば」と壁画で
表現することで、天皇図を描くことも、そして、陵園内に陪葬されることも、許可されたの
です。

豪族・阿倍御主人(みうし)が、地元の本貫地(ほんがんち)を離れ、天武天皇陵園内に陪葬
されたのは、このような事情があったからなのです。

2 阿倍御主人(あべのみうし)の美学とその心理

高麗系の絵師・黄文本実(きぶみのほんじつ)は、702年(大宝二年)12月、持統天皇
崩御(ほうぎょ)の際に、「作殯宮司(もがりのみやつくるつかさ)」に任命されています。
阿倍御主人(あべのみうし)が薨去(こうきょ)する前年です。
高度な呪術壁画を描けるのは、中国留学経験がある黄文本実とみるのが、妥当(だとう)だと
思います。

私は、阿倍御主人(みうし)は古墳壁画について黄文本実(きぶみのほんじつ)に相談した、
と思います。
柿本人麻呂や大伴御行(みゆき)は、歌(大君は神にしませば・・・)で、天皇を神(北極星)
として言祝(ことほ)いでいます。
ならば、阿倍御主人(みうし)は、壁画古墳という方法で、天皇を神(北極星)として言祝
(ことほ)ぎ、死後も永遠に崇敬守護したいと思った、のだと思います。
黄文本実(きぶみのほんじつ)に相談した結果が、キトラ古墳壁画の誕生であった、のです。

天皇を 言祝(ことほ)ぎ守護する方法は、天皇図・「天文図(星宿(せいしゅく)図+日月図)
+四神図のセット図」と、十二支獣頭人身(じゅうにしじゅうとうじんしん)像を描くことに
あったのです。

被葬者阿倍御主人(あべのみうし)は、自らを十二支獣頭人身像に擬(なぞら)え、天皇
(北極星)を、死後も言祝(ことほ)ぎ守護しようとしたのです。

それは、歌[柿本人麻呂・大伴御行(みゆき)]で、天皇を言祝(ことほ)ぐ代わりに、壁画で
天皇を言祝(ことほ)ぐという、阿倍御主人(みうし)独自の「天皇言祝(ことほ)ぎ守護・壁画歌
(へきがうた)」
であったのです。

私は、そこに、大豪族・阿倍氏・氏上(うじのかみ)・阿倍御主人(あべのみうし)の、天皇に
対する永遠の美学を感じとります。

◎ 阿倍御主人(あべのみうし)は何故、陵園(りょうえん)内に陪葬(ばいそう)できたのか?

阿倍御主人(あべのみうし)は、天武天皇陵園内に陪葬(ばいそう)されたいと、天皇(文武)に
許可を求めたと思われます。
何故、許可を求めたかの理由は、次の通りです。

天武天皇の陵園は、中国の陪陵(ばいりょう)制度の影響をうけていて、特別な地位の者(皇子
・みこ)しか葬(ほうむ)ることは出来ない制度になっていました。
よって、よほどの理由がないかぎり、臣下最高位になった官僚でも、陵園内に葬ることは
出来なかったのです。

よって、大豪族で臣下最高位になった者・阿倍御主人(あべのみうし)でも、相当な理由がなけ
れば、陵園内には葬られることはなかったのです。
しかも、大豪族の頭領は、本貫地(ほんがんち)の埋葬が伝統となっていました。

唐の陪陵(ばいりょう)制においては、陵園内に臣下も陪葬されています。
しかも、壁画も描かれています。
阿倍御主人(あべのみうし)は、この唐の情報を得ていたのです。
ならば、阿倍御主人(みうし)は唐の陪陵制に倣(なら)って、天武天皇の陵園内に陪葬されたい、
と願ったのだと思います。
 
私見ながら、阿倍御主人(みうし)が陵園内に陪葬(ばいそう)が許可されたのは、天皇崇敬守護
の壁画を描くことが事前(じぜん)に分かっていたからであった、と思われます。

阿倍御主人(あべのみうし)の、死後も天皇を神として崇敬し、守護していくという壁画の内容
であったならば、当時の天皇崇敬の世相を反映したものとして、陵園内の陪葬を許されたの
です。

死後も天皇崇敬守護していくという呪術・[十二支獣頭(じゅうとう)人身像(じんしんぞう)]
を、はっきりと描くという証拠があったからこそ、天皇図・[「天文図(星宿図+日月図)」
+「四神図」のセット図]を、描けたのです。
阿倍御主人(あべのみうし)の、尊皇心(そんのうしん)の発露に、天皇(文武)も感動した
ことでしょう。

阿倍御主人(あべのみうし)は、当時の世相、つまり、柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)と
大伴御行(おおとものみゆき)が、歌謡にて天皇を神として言祝(ことほ)いだように、キトラ
古墳壁画を描き、天皇を神(北極星)として言祝(ことほ)いだのです。
それも、より、具体的に!!
伊勢神宮においては、天皇は北極星として祀(まつ)られています。
しかし、墓室内において、天皇を神(北極星)として言祝(ことほ)ぐという形は、いままで
ありませんでした。

これを最初に実行したのが、キトラ古墳(703年)被葬者、阿倍御主人(みうし)なのです。

最初の実行者としての評価は、非常に高い。
私は、天皇(北極星)を死後も崇敬守護していく、という、そのアイディア・[十二支獣頭
人身像(じゅうとうじんしんぞう)]に驚嘆します。

そのアイディアの表現方法は、中国にも、朝鮮半島にもない、中国の呪術方法を借りた、日本
独特の呪術なのです。

3 石上麻呂(いそのかみのまろ)の美学・・・その心理

キトラ古墳壁画に、触発された人物がいます。
物部(もののべ)氏の氏上(うじのかみ)である、石上麻呂(いそのかみのまろ)です。
717年薨去(こうきょ)。
石上麻呂は、阿倍御主人(あべのみうし)の壁画古墳の内容に、驚いたことでしょう。
いやいや衝撃を受けたことでしょう。
天皇を死後も言祝(ことほ)ぎ守護していこうとした、その手法に。

703年(大宝3年)、右大臣・阿倍御主人(みうし)が薨去(こうきょ)したとき、正(しょう)
三位石上麻呂(いそのかみのまろ)は、弔(とむら)いと贈り物をする、使者になっています。
よって、阿倍御主人(みうし)の葬(ほうむ)られ方は、詳しく知っていたのです。

石上麻呂(いそのかみのまろ)は、阿倍御主人に負けていられなかった。
結果、石上麻呂は、阿倍御主人(みうし)のアイディアに勝(まさ)る最高の呪術方法をもって、
壁画(高松塚)を描いたのです。

それは、物部(もののべ)氏(し)の氏上(うじのかみ)・石上麻呂(いそのかみのまろ)の、阿倍氏
の氏上(うじのかみ)・阿倍御主人(あべのみうし)に対する意地でもあったのです。
大豪族どうしの、天皇に対する忠誠心の張りあい、ともいえましょう。

面白いことに、大伴御行(おおとものみゆき)・阿倍御主人(みうし)・石上麻呂(いそのかみの
まろ・物部)は、そろって氏上(うじのかみ)です。
大豪族・氏上(うじのかみ)同士の、天皇に対する、心意気の競争であった、といえるのです。

石上麻呂(いそのかみのまろ)は、キトラ古墳以上の壁画を描くにはどうしたらよいのか、
考えました。

生前において、石上麻呂は、黄文本実(きぶみのほんじつ)は勿論のこと、「画工司(えだ
くみのつかさ)」の役人たちとも話し合ったと思われます。
それは、阿倍御主人(みうし)と同様であったのです。

石上麻呂(いそのかみのまろ)は、天皇に対する「言祝(ことほ)ぎ・守護」ですから、遠慮なく、
どんな壁画を描きたいのか、その意志を伝えました。
「画工司(えだくみのつかさ)」に所属する役人達も、それに応(こた)え、キトラ古墳以上の
壁画を描くことに、全力をあげたのです。

その「画工司(えだくみのつかさ)」の役人絵師たちの答えが、高松塚古墳の壁画だったのです。

それは、十二支獣頭人身像(じゅうとうじんしんぞう)を描き、「言祝(ことほ)ぎ・守護」した
キトラ古墳の呪術よりは、はるかに格調高い呪術でした。
まさに、これ以上の呪術は考えられないほどの、格調の高さであったのです。

被葬者石上麻呂(いそのかみのまろ・717年薨去・こうきょ)は、自らを北斗八星(八人
ずつの男女)に擬(なぞら)え、天皇(北極星)を、死後も言祝(ことほ)ぎ守護しようとした
のです。

石上麻呂は、臣下最高位の官僚・左大臣・贈従(じゅ)一位であるから、北斗八星に擬(なぞら)
れる資格はあります。

臣下最高位の官僚・右大臣・従(じゅ)二位の阿倍御主人(あべのみうし)であっても、北斗八星
に擬(なぞら)れる資格としては、無理だと思います。
やはり、阿倍御主人(みうし)は、呪術として一段劣(おと)る、十二支獣頭人身像(じゅうとう
じんしんぞう)が適切だと思います。

高松塚古墳の呪術は、伊勢神宮の呪術です。
もう、これ以上の高級な呪術は存在しないのです。

私は、中国においても、これ以上高級な呪術は存在しない、と断言できます。
それは、皇帝は、あくまでも、天帝(天皇)の子、天子である、という意味においてであり
ますが。

4 世界一の陪塚(ばいちょう)と出行図(しゅっこうず)
                  ――その壁画歌(へきがうた)の美学

さらに、言えることがあります。
高松塚古墳(717年)は、北・約200m先にある中尾山古墳(文武天皇・707年)の
陪塚(ばいちょう)である、ということです。
その陪塚(ばいちょう)も、普通の陪塚ではありません。格調高い高度な呪術(伊勢神宮の呪術)
を施(ほどこ)した、「壁画古墳・陪塚(ばいちょう)」なのです。

石上麻呂(いそのかみのまろ)は、中尾山古墳(文武天皇)を北極星とし、高松塚古墳を北斗
八星としたのです。
つまり、「高松塚古墳=北斗八星陪塚(ばいちょう)」

さらに、石上麻呂(いそのかみのまろ)は、文武(もんむ)天皇(中尾山古墳・北極星)を、
北斗八星(高松塚・石上麻呂・八人ずつの男女)という帝車(ていしゃ)に乗せて、宇宙を
駆(か)け巡(めぐ)る、という出行図(しゅっこうず)を描きました。

つまり、「高松塚古墳壁画=北斗八星帝車陪塚(ばいちょう)・天皇出行図」。

いやいや、それだけではありません。
高松塚の被葬者・石上麻呂(いそのかみのまろ)は、北斗八星の大匙(おおさじ)となり、
神饌(しんせん)を永遠に中尾山古墳の被葬者・文武(もんむ)天皇(北極星)に、届けて
いるのです。


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このような格調高い陪塚(ばいちょう)、そして出行図は、中国でも朝鮮半島でも見当たり
ません。
まさに、高松塚古墳は、世界一のロマン溢れる陪塚(ばいちょう)であり、世界一の出行図を
描いている古墳なのです。

世界一格調高い「陰陽・北斗八星帝車陪塚(ばいちょう)高松塚・天皇乗車出行図」は、日本
独自のものです。

天皇陵を「北極星古墳」とし、自分の墓を、「北斗八星陪塚(ばいちょう)」にするなんて、
あまりにも粋(いき)すぎます。
石上麻呂(いそのかみのまろ)さん、何と、お洒落(しゃれ)な!! と声をかけたくなります。
「ヨッ、世界一!!」ですね。

臣下最高位の石上麻呂(いそのかみのまろ)が、自らの古墳に、世界一格調高い、陪塚(ばい
ちょう)出行図(しゅっこうず)・「北極星(太極)北斗八星(八卦)」を描くことを、
前もって天皇[当時は元正(げんしょう)天皇]に届け出たからこそ、陪塚(ばいちょう)と
して築造することを許されたのです。

元正(げんしょう)天皇は、石上麻呂(いそのかみのまろ)の世界一のプランを見て、その尊皇心
(そんのうしん)・忠誠心の壮大さに、感激したに違いありません。
よって、天皇(元正)は、中尾山古墳(文武天皇・707年)の兆域(ちょういき・墓域)に
接して築造することを、許したのです。

そして、だからこそ、石上麻呂(いそのかみのまろ)は、平城京遷都(せんと・710年)後
7年も経(た)っていたのに(717年)、帰葬(きそう)が許されたのです。
※藤原京の留守司(るすのつかさ)として残ったことも要因ですが。

私は、これで、やっと高松塚古墳、そしてキトラ古墳の全ての問題が解明できた、と確信
しています。

今は亡き秋山日出雄先生と、この件について話し合ってみたかった、とつくづく思います。


今回をもって、『高松塚とキトラ古墳の真実』の連載を、終了とさせていただきます。
長文にお付き合いくださり、ありがとうございました。


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畑アカラ先生『高松塚古墳とキトラ古墳の壁画が語る真実』

2021年8月18日(水)
  
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畑アカラ氏 プロフィール

昭和22年生まれ。静岡県出身。藤枝東高校卒。
明治大学政経学部卒業(蒲生ゼミ・村落社会調査)。
広告制作会社(株・漫画社)に勤務後、フリー。イラスト・ライター。
日本児童出版美術家連盟会員。
「8の世界」と「ハートの世界」の、オンリーワンの探究者。
「一般社団法人8月8日はハートの日協会」理事長。
「8月8日はハートの日」を全世界に広めるため活動中。
世界を一つに繋げることの出来るツール・・
それが「8月8日はハートの日」。
著作・歴史書:『古代天皇家「八」の暗号』(徳間書店)。
『古代天皇家の謎は「北斗八星」で解ける』(徳間書店)
著作・エッセイ(画・文):『猫ノーテンキ』(草思社)、
『猫っ可愛がりのことわざ草紙』(毎日新聞)、
『きょうも猫日和』(徳間書店)。 
月間絵本・作絵:『ハーリーちゃんとハーティちゃん』
『にじをつくろう』(チャイルド本社)。
かみしばい:『からすのかーすけ』(教育画劇)。等々。
趣味はテニス。素人作曲(楽器は演奏できません)。サッカー観戦。

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