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第6回「天地に描く、北極星古墳(中尾山)と北斗八星古墳(高松塚)」     

第6回 「天地に描く、北極星古墳(中尾山)と
                北斗八星古墳(高松塚)」


1 中尾山古墳と高松塚古墳は、セットとして整備し、手厚く祀るべし
2「高松塚古墳陪塚(ばいちょう)説」の存在を知る
3 秋山日出雄氏―高松塚古墳・陪塚(ばいちょう)説とは
4 自説の正しさを証明する秋山日出雄氏の陪塚説
5 驚きの、中尾山古墳の兆域と、高松塚古墳の兆域

1 中尾山古墳と高松塚古墳は、セットとして整備し、手厚く祀るべし


昨年の9月に、「令和4年・2022年に、高松塚古墳発掘50周年記念の
イベントを、明日香村教育委員会と関西大がタイアップして行う」、との
記事が新聞に掲載されました。
また、同じ昨年の、11月に、「中尾山古墳、50年ぶりの再調査の結果発表」
という記事も掲載されました。

これを機会として、高松塚古墳と中尾山古墳の関係についての議論の場を求めて
止みません。
網干善教氏は、両古墳は、ただならぬ何らかの関係がある、と述べています。

現在、宮内庁は、文武天皇陵は、「檜隈安古岡上陵 (ひのくまあこのへのみささぎ)
(栗原塚穴古墳)」と治定しています。
しかし、今回の調査の結果から、やはり、中尾山古墳が、文武天皇の墓である
事が、ほぼ確定されましたので、まことに畏れ多く、心安まらないことですが、
文武天皇陵は、中尾山古墳として主張・展開することとします。

となれば、高松塚古墳と中尾山古墳、この両古墳はセットとして考えること、
このことが大切であると、痛切に感じています。

なぜならば、高松塚古墳は、天皇陵・北極星古墳である中尾山古墳に対する、
陪塚(ばいちょう)・北斗八星古墳であるからです。

特に、保存整備の心構えは、セットとして手厚く考える、というのが基本姿勢
だと思います。
何故、両古墳をセットとして、手厚く保存整備しなければならないか、
その理由を、記すこととします。

既に、当ブログで、高松塚古墳は、中尾山古墳の陪塚(ばいちょう)である事は、
記していて、重複しますが、上記した記事が出たということで、あえて、今回、
秋山日出雄氏の説を元に、さらなる説明をしたいと思います。


2「高松塚古墳陪塚(ばいちょう)説」の存在を知る


高松塚古墳は、陪塚(ばいちょう)だと述べましたが、実は、それに気づいたのは、
高松塚古墳の呪術を解いて、被葬者を石上麻呂(いそのかみのまろ)と推定した後
だったのです。

秋山氏の陪塚説があることは、不覚にも知らなかったのです。
陪塚説を知らなくても、呪術からして、「被葬者は、死後も天皇を崇敬守護
しようとした人物である」、ということは解けていました。
そして白石太一郎氏の説によって、被葬者は石上麻呂(いそのかみのまろ)と
推定したのです。

ところが、私の仮説をさらに後押しする説「陪塚説」が存在していた、という
ことが分かりました。
それは、『末永(すえなが)先生米壽(べいじゅ)記念獻呈(けんてい)論文集』の
なかで論じられていたのです。
さっそくそれを入手し、拝読。
まさにその通り!! 鬼に金棒、これで私の説は、完璧なものになったと、私は、
余りの嬉しさで、思わずガッツポーズをするほどでした。

今は亡き秋山日出雄氏の、私を狂喜乱舞させてくれた陪塚説を、紹介します。


3 秋山日出雄氏―高松塚古墳・陪塚(ばいちょう)説とは


秋山日出雄説は、「高松塚古墳は中尾山古墳(文武天皇)の陪塚である」という
仮説です。

高松塚古墳の発掘調査参加者の一人であった秋山日出雄氏は、『末永先生米壽
(べいじゅ)記念獻呈(けんてい)論文集』のなかで、大変興味深いことを記して
います。

『延喜式(えんぎしき)』に
< 文武天皇陵・檜隈安古岡上陵(ひのくまあこのへのみささぎ)は、
在大和高市郡 兆域(ちょういき・墓域) 東西三町 南北三町 >
と記してあることから、秋山氏は、次のように推測しています。
要旨(抜粋)を述べます。

< もし、中尾山古墳が、文武天皇陵とするならば、方三町の兆域(墓域)は、
高松塚古墳を含む。
よって、高松塚古墳は、文武天皇陵の陪塚(ばいとょう)にあたると考えられる。
ならば、高松塚は、文武天皇陵の陪塚であるがゆえ、707年に築造された
文武天皇陵を遡(さかのぼ)ることはあり得ない。
即ち、高松塚古墳の築造の上限を年代的に決定し得ることになる。>

ならば、私の「北極星(太極)北斗八星(八卦・はっか)」説は、陪塚説として
成立する!!
やったぜ!!というのが、この時の正直な気持ちです。

そして秋山氏は、被葬者を石上麻呂(いそのかみのまろ)と推定しています。

再度、記しますが「ならば、高松塚は、文武天皇陵の陪塚であるがゆえ、
707年に築造された文武天皇陵を遡(さかのぼ)ることはあり得ない。
即ち、高松塚古墳の築造の上限を年代的に決定し得ることになる。」

このことも含めた幾つかの理由で、秋山氏は、高松塚古墳の被葬者は、石上麻呂
(いそのかみのまろ)と推定したのです。
この説は、石上麻呂説を除いた、全ての被葬者説を年代的に否定するものです。

文武天皇が崩御した、707年より前の年代の被葬者はあり得ないと述べている
からです。

石上麻呂を除いて、これまでの被葬者説の人物は、全て、707年前に没して
います。

今日でも有力な被葬者説である、忍壁皇子(おさかべのみこ)、高市皇子
(たけちのみこ)、はあり得ないことになります。

高松塚古墳発掘者の一人であった秋山氏が、被葬者の名前を推定したのは、
よくよくのことであったと思われます。

墓誌が出土しない限り被葬者を特定できないから、考古学者は被葬者を推定する
のは差し控えるべきだ、という風潮があります。
ましてや、発掘担当者は被葬者名をあげるべきではない、と高松塚古墳発掘者で
あった網干(あぼし)善教氏は、発言しています。
高松塚古墳の発掘を指揮した末永雅雄氏も、最後まで被葬者名を口にしません
でした。

こうしたなか、高松塚古墳発掘担当者・秋山氏があえて被葬者を推測したのは、
重みがあります。
よほどの覚悟があって、論じたことと思われます。
そして、あえて、発言しなければならないという、事の重大さに気づいていた
のでは、ないでしょうか。
しかし、あくまでも謙虚で、皇陵のことゆえ、その悩みも伝わってきます。

※文武(もんむ)天皇
文武天皇は、名を軽皇子(かるのみこ)といい、 草壁(くさかべ)皇太子の長男。
母は阿閉皇女(あへのひめみこ)で後の元明(げんめい)天皇。
697年立太子、同年持統(じとう)天皇の譲位を受けて文武天皇となった。
藤原不比等(ふひと)の娘宮子を夫人(ぶにん)として、首(おびと)親王、
後の聖武(しょうむ)天皇をもうけた。
当時15歳という先例のない若さだったため、持統が初めて太上(だいじょう)天皇
を称し、後見役についた。707年、崩御(ほうぎょ)。


4 自説の正しさを証明する秋山日出雄氏の陪塚説


繰り返しますが、秋山氏の陪塚(ばいちょう)説は、「高松塚古墳は、中尾山古墳
(文武天皇陵・推定)の陪塚である」という説です。

この陪塚(ばいちょう)説と私の「北極星(太極)北斗八星(八卦)」説は、
一致します。

高松塚古墳が陪塚であったならば、私の仮説、
< 高松塚古墳壁画は、「北極星(太極)北斗八星(八卦)」の呪術であり、
死後も、お仕えした天皇(天井に描かれた北極星)を崇敬守護していこうと
した、石上麻呂(いそのかみのまろ)(北斗八星)のロマンの所産である >
の正しさが証明されたことになります。

両古墳の関係を分かりやすく書くと、次の通り。

中尾山古墳(被葬者・文武天皇・もんむてんのう)707年=「北極星古墳」

高松塚古墳(被葬者・石上麻呂・いそのかみのまろ)717年=「北斗八星古墳」
=陪塚

つまり、高松塚古墳(被葬者・石上麻呂・いそのかみのまろ)は、北斗八星
(帝車・八人ずつの男女)となり、北極星(文武天皇)の中尾山古墳を、
永遠に言祝(ことほ)ぎ守護しているのです。

ならば、陪塚であることが、完璧に証明されたことになります!!

しかも、北極星の周りを毎日一周する「北斗八星・陪塚(ばいちょう)」と
なれば、世界一美しい陪塚です!!

私は、高松塚古墳のことを、「北斗八星陪塚」と名づけたい。

さらに言えば、蓋(きぬがさ)の色が深緑(一位)であるから、高松塚古墳は、
「深緑色の北斗八星陪塚」といえるのです。

高松塚古墳壁画は、「陪塚表現図」であったのです!!
陪塚グランドデザインを図で表現すると、次の通りです。

hata_blog_20210118-350x410-kofunkuro.jpg


5 驚きの、中尾山古墳の兆域と、高松塚古墳の兆域


中尾山古墳の兆域(墓域)について、記します。

※ 兆域(ちょういき・墓域) 「東西三町 南北三町」とは、約300メートル
四方の兆域(墓域)のこと。

次のように解釈できます。
中尾山古墳(文武天皇陵推定)と高松塚古墳は、南北約200メートル離れて
います。

ならば、中尾山古墳(文武天皇陵推定)の兆域は、中心点から約150メートル
ですから、残り約50メートルが高松塚古墳の兆域(墓域)、と考えられます。
 
つまり、中尾山古墳と高松塚古墳は、兆域(墓域)で接している、と考えられます。

中尾山古墳の兆域辺と、高松塚古墳の兆域辺が接していることは、「中尾山・
北極星古墳(北斗八星も含む)」と、「高松塚・北斗八星古墳」が接している、
ということになります。

◎八角形天皇陵については、既に述べていますが、再度説明します。

八角形天皇陵の八角形の中心部分は、北極星と太極、つまり天皇を意味し、
八角形の外辺部分が、北斗八星と八卦を意味します。

つまり、八角形天皇陵は、「北極星(天皇・太極)北斗八星(八卦)」の呪術
を採用しているのです。
さらに、詳しく述べますと、次の通りです。

八角形天皇陵の中心部=北極星=天皇=太極
八角形天皇陵の周辺部八角・八辺=北斗八星=八州(日本)=八卦(はっか)

とするならば、中尾山古墳の兆域辺は、北斗八星を意味していることになります。

ならば、中尾山古墳と高松塚古墳の兆域は、北斗八星(八角形外辺と高松塚)が
共通となり接していることになります。

中尾山古墳と高松塚古墳の関係の奥深さには、ただただ、感心するほかないの
です。
図で表現すると、次のようになります。

hata_blog_20210118-350x553-kofunichikuro.jpg

高松塚古墳は、北極星古墳・中尾山古墳に対する、高度な呪術を施(ほどこ)した
「北斗八星陪塚(ばいちょう)」であることが、これで証明できました。

秋山日出雄氏は、中山古墳は文武天皇陵の可能性を述べ、高松塚古墳は、その
中尾山古墳の陪塚であり、被葬者は、臣下最高位であった石上麻呂と推定して
います。
まさに、卓見です。
しかし、秋山日出雄氏のこの陪塚説は、何故か、無視されてきました。
何故、議論の対象にならなかったのでしょうか?
まさかと思いますが、自分にとって都合の悪い説は、批判もせずに、議論も
せずに、徹底的に無いものとして無視されてきたのでしょうか?

ただ、秋山氏も、皇陵のことであり、積極的に主張しなかった、とも思われます。

故・秋山日出雄氏は、中尾山古墳と高松塚古墳の発掘に直接関わった学者です。
高松塚古墳発掘50周年記念において、もし、高松塚古墳についての討論会、
発表会の機会がありましたら、ぜひとも、秋山説を取り上げていただきたいと
願うばかりです。
以上、高松塚古墳発掘50周年記念にあたり、また中尾山古墳の50年ぶりの
再調査の結果発表がありましたので、これを機会に、高松塚古墳と中尾山古墳の
整備と保存の心構えについて参考になれば、と記した次第です。


畑さん.jpg

畑アカラ氏 プロフィール

昭和22年生まれ。静岡県出身。藤枝東高校卒。
明治大学政経学部卒業(蒲生ゼミ・村落社会調査)。
広告制作会社(株・漫画社)に勤務後、フリー。イラスト・ライター。
日本児童出版美術家連盟会員。
「8の世界」と「ハートの世界」の、オンリーワンの探究者。
「一般社団法人8月8日はハートの日協会」理事長。
「8月8日はハートの日」を全世界に広めるため活動中。
世界を一つに繋げることの出来るツール・・
それが「8月8日はハートの日」。
著作・歴史書:『古代天皇家「八」の暗号』(徳間書店)。
『古代天皇家の謎は「北斗八星」で解ける』(徳間書店) 
著作・エッセイ(画・文):『猫ノーテンキ』(草思社)、
『猫っ可愛がりのことわざ草紙』(毎日新聞)、
『きょうも猫日和』(徳間書店)。 
月間絵本・作絵:『ハーリーちゃんとハーティちゃん』
『にじをつくろう』(チャイルド本社)。
かみしばい:『からすのかーすけ』(教育画劇)。等々。
趣味はテニス。素人作曲(楽器は演奏できません)。サッカー観戦。

【最新著書ご紹介】

【大嘗祭・天皇号・伊勢神宮】 この国永遠の疑問を解く

[新装版]古代天皇家「八」の暗号

【DVD】畑アカラ先生 「初めて語る天皇と大嘗祭の真実」 (2枚組)
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