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第5回目 『天照大御神は、何故、離れた外宮の御饌殿(みけでん)で、毎日のお食事をするのか?』

第5回目 
『天照大御神は、何故、離れた外宮の御饌殿(みけでん)で、
 毎日のお食事をするのか?』



(1)豊受大御神は、天照大御神の御饌津(みけつ)神ならば、
   食事をお届けする役目があるのでは?

(2)伊勢神宮・外宮の御饌殿(みけでん)において、
   日別朝夕大御饌祭(ひごとあさゆうおおみけさい)があります

(3)御饌殿の作りは井楼組(せいろうぐみ)で、古い型式で作られています
(4)御饌殿(みけでん)は、外宮にしかない
(5)聖武天皇の時代までは、天照大御神の御饌を、外宮から内宮まで毎日運んでいた?
(6)神饌を運ぶ途中の死穢(しえ)事件は、事実であった?
(7)天武天皇の呪術基本「北極星・北斗八星」から、どのように推測できるのか?
(8)リニューアル伊勢神宮において、外宮の御饌殿は、
   どのように解釈したら良いのでしょうか?

(9)729年以後、天照大御神が外宮・御饌殿でお食事されるのは、
   北斗八星帝車の説で解決される

(10)外宮がなくては、天武天皇の世界最強の呪術が成立しない


(1)豊受大御神は、天照大御神の御饌津(みけつ)神ならば、
   食事をお届けする役目があるのでは?


外宮の豊受大御神(とようけのおおみかみ)は、
内宮の天照大御神の御饌津(みけつ)神です。
豊受大御神は、お食事係として、わざわざ丹波国から、
天照大御神によって招かれた神様です。

ならば、何故、天照大御神が、離れた外宮でお食事を
するのでしょうか?


御饌津神の豊受大御神が、天照大御神にお食事を
お届けするのが、理にかなっていると思うのは、
小生だけでしょうか?

ところが、聖武天皇の時代まで、外宮から内宮まで
お食事を運んでいた、という説もあることが分かりました。

現在の伊勢神宮では、この説は採っていないとのことですが、
外宮の豊受大御神が、北斗八星であるならば、
この説も成立していたとも思われますので、
この件について、論じてみます。

矢野憲一氏の『伊勢神宮の衣食住』(東書選書)を参考にして、
記します。


(2)伊勢神宮・外宮の御饌殿(みけでん)において、
   日別朝夕大御饌祭(ひごとあさゆうおおみけさい)があります

外宮では、雨の日も風の日も嵐の日も一日も欠かすことなく、
外宮の御饌殿で、朝夕二度の御饌をお供えする祭があります。
この毎日の祭を、日別朝夕大御饌祭(ひごとあさゆうおおみけさい)と
いいます。常典御饌(じょうてんみけ)ともいいます。
古くは、朝御饌(あしたのみけ)・夕御饌(ゆうべのみけ)と、
称されていました。
朝御饌は午前八時(冬期は九時)、夕御饌は四時(冬期は三時)です。

御饌殿内には、六神座が設けられています。
内訳は、天照大御神と豊受大御神、そしてその相殿(あいどの)神です。

御饌殿は、外宮正宮の板垣内の東北(丑寅)隅にあり、
一般にはお屋根の部分しか拝せられません。

(3)御饌殿の作りは井楼組(せいろうぐみ)で、
   古い型式で作られています


この御饌殿は、神明造ですが、柱を使わない、横板壁を井桁(いげた)に
組み合わせて、ちょうど蒸籠(せいろう)という饅頭や茶碗蒸しなどを
蒸す器に似た構造となっています。
古においては、内宮・外宮はじめ、宝殿(ほうでん)や弊殿(へいでん)も
この型式だったとも、考えられます。

刻御階(きざみぎょかい)という一本の丸木を刻んで作った階段が付きます。

zu-1mikeden-3.jpg

zu-2mikeden-2.jpg


(4)御饌殿(みけでん)は、外宮にしかない


内宮の神楽殿の隣にも「御饌殿」という建物があり、そこを時々
マスコミ関係者が間違って「神様のお食堂である内宮の御饌殿」という
写真で紹介されることがあるようです。
しかし、それは神楽殿内の御饌殿(ご祈祷をする)であり、
本来は内宮に御饌殿は存在しません。
勿論、外宮のなかった頃には、御饌殿があったと推測できます。

(5)聖武天皇の時代までは、天照大御神の御饌を、
   外宮から内宮まで毎日運んでいた?


毎日、外宮から内宮までの約5キロの道を歩いて、
天照大御神の御饌を運んだという、説があります。
矢野憲一氏は、その事を記してある
『太神宮諸雑事記(だいじんぐうしょぞうじき)』を
紹介しています。
しかし、矢野氏は、5キロの道を神饌辛櫃(からびつ)を担いで、
毎日歩いて届けていたとは、考えられないと、述べています。

平安時代に編述したという『太神宮諸雑事記』に
記してあるその部分を引用します。
私は、大変、興味を持って読みました。
何故ならば、御饌津(みけつ)神である豊受大神は、
神饌をお届け、或いは保証するのが、本来の姿で
あろうと思うからです。


<< 聖武天皇の神亀六年(729年)正月十日のこと、
   いつものように外宮でお調理した御饌を内宮へ
   お運びしている途中、内宮に近い浦田山の狭い道に
   死体が散乱しているのに出合わした。
   大物忌父(おおものいみのちち)や
   御炊内人(みかしぎのうちんど)、
   物忌子良(ものいみのこら)たち運んでいた人々は困惑した。
   だが避ける道はない、目をそらして走って通ったことだろう。
   ところがほどなく聖武天皇がご病気になられ
   神祇官陰陽寮(おんみょうりょう)で占いをしたところ、
   神宮で死穢(しえ)の不浄があった祟りだという。
   調べてみると、「実は一ヶ月ほど前、浦田山の道で・・・」と
   いうことが判明。
   奉仕者に怠状(たいじょう)を出させて大祓をし、
   今後はこういうことがあっては大変だと、宣旨(せんじ)に
   よって外宮に新たに御饌殿を建立し、外宮へ内宮の神々も
   ご参集いただくことになったと伝えられている。 >>


矢野憲一は、次のようにも述べています。

<< それでは外宮の鎮座と同時に造立されたという御饌殿は何だったか。
   御饌をお供えする殿舎ではなく、御饌を調理する殿舎、
   今の忌火屋殿(いみびやでん)のようなものだったのだろうか。 >>

さらに、矢野憲一氏は、次のように記しています。

<< 内宮と外宮の鎮座の年代は約五百年の隔たりがあると伝わる。
   それなら外宮が鎮座する以前の約五百年間は天照大御神の朝夕の
   御饌はどこでお供えしていたのだろうかと重大な疑問が生ずる。

   昔から、神宮の学者たちはこれに関していろいろと論駁考証を加えてきた。>>
   
と述べています。

さらに、次のように記しています。

<< 鎌倉時代の初期に宮司家の人の手により編述されたと
   推定される『神宮雑例集(ぞうれいしゅう)』という
   記録の「二所太神宮朝夕御饌事」の条には、
   第十一代垂仁(すいにん)天皇の御代、
   倭姫命(やまとひめのみこと)により
   内宮を五十鈴川上に創建せられたとき、
   その宮の内に御饌殿を造立し、
   そこで抜穂(ぬいほ)の田の抜穂の稲を舂(つ)き
   炊(か)しいだ御饌をお供えした。
   外宮が鎮座してからはその宮城内に御饌殿が
   造られそこへ供進することになったと伝えている。>>


現在では、この説をとり神亀六年(729年)創設という異説の所伝は
神宮ではとらないことになっている、と矢野氏は述べています。

(6)神饌を運ぶ途中の死穢(しえ)事件は、事実であった?


◎御饌を届ける時間は約一時間

不動産の「徒歩○○分」は、時速4.8kmで計算されているそうです。
これによりますと、外宮から内宮まで約一時間となります。
この一時間、微妙ですね。
歩いて届けられない距離ではありません。
ただ、雨の日、嵐の日は、かなり辛いであろうと想像できます。

◎この事件は、あまりにも具体的な記述であり信憑性があります

神亀六年正月十日、神饌を運ぶ途中、死穢(しえ)に遭遇したとの
具体例が記されているのですから、無視することは出来ないような
気がします。

この事件によって、もし、外宮に御饌殿を作るようにとの
宣旨(せんじ)が出たならば、それなりの信憑性はあるはずです。

宣旨(せんじ)とは、天皇の命を伝える文書のことですから、
宣旨があったと嘘をつくことは、あまり考えられないのでは
ないでしょうか?

(7)天武天皇の呪術基本「北極星・北斗八星」から、
    どのように推測できるのか?


◎天武天皇の呪術

天武天皇は、天皇(北極星)の証明(天照大御神と北極星の習合)のため、
伊勢神宮をリニューアルしました。

内宮においては、天照大御神と北極星を、習合した神として祀ったのです。

そして、外宮の御饌津(みけつ)神である豊受大御神を、
北斗八星・八天女・北斗八星帝車・北斗八星大匙(おおさじ)と
意味付けしました。

◎豊受大御神の出自

そもそも、豊受大御神は、延暦の
『止由気宮儀式帳(とゆけぐうぎしきちょう)』(804年)によると、
第二十一代雄略天皇の御代に、丹波国からお迎えされ、
伊勢の度会(わたらい)の山田原の現在の外宮にお祭りされた、
といわれています。(豊受大御神は八天女の一人)

豊受大御神を外宮にお招きしたその理由は次の通りです。
雄略(ゆうりゃく)天皇は、夢の中で

< 「吾(われ)一所」では
  「いと苦し」いから、丹波国(たんばのくに)の
  比治の真名井(まない)から「わが御饌(みけ)の神、
  トユケの大神」を招いてほしい >

との天照大御神のお告げを受けました。
天照大御神は、御饌(みけ)の神・豊受大御神を招いて、
安心してお食事が出来るようにしたいと、宣(のたま)ったのです。


豊受大御神は、天照大御神に対する御饌津(みけつ)神ですから、
天照大御神のお食事の面倒を見る役割を持っています。

◎豊受大御神の出自に、天武天皇の呪術が加わる

そこに加えて、天武天皇の呪術によって、豊受大御神は、
北斗八星の呪術を施され、
①「天照大御神(北極星と習合)を乗せて宇宙を駆け巡る
自家用車・北斗八星帝車」となり、
そして②「天照大御神(北極星と習合)に
神饌を運ぶ北斗八星大匙(おおさじ)」となりました。

天武天皇が、このような呪術を、伊勢神宮(リニューアル)に
施したのは、天武天皇が天皇号を正式採用したことによります。

つまり、天武天皇が伊勢神宮をリニューアルした理由は、
「天皇=北極星」であることを、そして「天照大御神=北極星」で
あることを、伊勢神宮において証明することだったのです。

そして、道教哲理により、「北極星は、北斗星を必要とする」と
いうことで、内宮を北極星とし、外宮を北斗八星としたのです。
※北斗七星ではなく、北斗八星としたところが、天武天皇独自の
呪術なのです。

(8)リニューアル伊勢神宮において、外宮の御饌殿は、
   どのように解釈したら良いのでしょうか?


◎729年までは、外宮から内宮へ、神饌をお届けしていた。

私は、次のように推測します。

729年死穢(しえ)・不浄事件があったのは確かで、
そのときから外宮から内宮への御饌のお届けは
なくなったのだろうと、思います。

よって、外宮成立以来、それまでは、外宮で今で言う
忌火屋殿(いみびやでん)のような殿で調理され、
そして内宮に御饌をお届けしたと想像されます。

(9)729年以後、天照大御神が外宮・御饌殿でお食事されるのは、
   北斗八星帝車の説で解決される


わざわざ、内宮の天照大御神が、外宮の御饌殿に出向き、
お食事するのは大変なことであろうと、想像されますが、
それは、簡単です。

それは、天武天皇が豊受大御神に施した呪術によります。

前述していますが、①豊受大御神は、天照大御神(北極星)を
北斗八星帝車にお乗せして、宇宙を駆け巡るほどの、
力をもっています。移動は、瞬時、自由自在なのです。

そして②豊受大御神は、北斗八星大匙(おおさじ)として、
天照大御神(北極星)に神饌を届ける役目を負っていて、
大匙を通して、つまり、大匙に神饌を掬(すく)って
天照大御神(北極星)に届けるのです。

ならば、天照大御神(北極星)は、外宮の御饌殿において、
毎日の御饌を召し上がることは、簡単です。

北斗八星帝車を利用する事で、つまり、
天照大御神(北極星)をお乗せして、瞬時に、
内宮から外宮の御饌殿に来ていただくことが出来るからです。
そして、瞬時に、内宮正殿の元の鎮座している座に、移動できる
のです。ならば、内宮から離れた外宮の御饌殿でも、
お食事なさることは、何ら問題は無いのです。

このように考えると、
(イ)外宮から内宮に天照大御神の御饌を運んだ説、
そして(ロ)天照大御神が、外宮の御饌殿でお食事をなさる説、
両方が成立するのです。

◎大嘗祭においても、北斗八星帝車は、大活躍

大嘗祭においても、天照大御神、北極星、そして天皇の移動は、
北斗八星帝車によって、行われています。

大嘗祭の神事は、高天原の悠紀(ゆき)殿・主基(すき)殿で
斎行されますが、天照大御神・北極星・天皇が、
そこの場所へ行くには、北斗八星帝車に乗っていくことになります。


◎外宮の創立以来の御饌殿(みけでん)説

勿論、外宮創立以来、外宮には御饌殿があって、天照大御神に
御饌をお供えしていた、という説も成り立ちます。
そこに天照大御神の座が設えてありますから、天照大御神は、
そこに存在していることになります。
同じ神宮内なので、分祀・分霊と言えないのかも知れませんが、
御饌殿においても、天照大御神は存在できるのです。

このように考えれば、外宮が出来た当初から、
外宮に御饌殿があって、ここで天照大御神のお食事を差し上げていた、
と解釈できるのです。

しかし、天照大御神が御饌津(みけつ)神として豊受大御神を招いた、
という説にたてば、やはり、お届けしていたという方が、自然です。

(10)外宮がなくては、天武天皇の世界最強の呪術が成立しない

皇字沙汰文(こうのじさたぶみ)にも、729年の事件のことが
記してあります。(皇字沙汰文とは、伊勢両宮間で皇の字を
用いる事の意義・是非等についての論争があり、その記録)
外宮については、いろいろと言われていますが、
天武天皇が外宮(リニューアル)に施している呪術こそが、
外宮の存在価値であろうと、思うわけであります。

天武天皇は、外宮の豊受大御神、つまり、北斗八星に、
多くの意味を持たせました。
北斗八星に日本の国柄の全てを描いたのです。

外宮=豊受大神=八天女=北斗八星=北斗八星帝車=大匙=八州=八束穂=八卦

それは、世界最強の呪術の根幹となり、日本国を見守り、
守護しているのです。
外宮の北斗八星は、夜空に日本の国柄・
大八洲瑞穂国(おおやしまみずほのくに)を
表現していて、それは休むことなく毎日活動している
規則正しい天の大時計でもあるのです。
我々は、外宮の重大さ、素晴らしさを知らなくては
ならないのです。



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