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東北の震災で不通になっていた岩手県のJR山田線が3月23日に
三陸鉄道に移管されて、大船渡市の盛駅から久慈市の久慈駅までの
163㎞が繋がりました。三陸リアス線と改名されて、いまのところ
想定以上の観光客を集めているという記事が地方紙に掲載されて
います。山田町には仕事で関わりがあり、年に1、2回のペースで
訪問させていただいているので、今度行く時には一度電車にも
乗ってみたいと思います。
その山田町に、龍泉寺という曹洞宗のお寺があります。ご住職の
石ヶ森桂山さんが『ザ・フナイ』を愛読くださっている等のご縁で、
山田町を訪れた時には時々会食させていただいたり、お寺にお伺い
させていただいたりしています。震災の時に、少しでも多くの
犠牲者の方の魂をしっかりとお送りしようと全身全霊をかけて
尽力されたことを、万感の思いで語ってくださったことがいまも
強く印象に残っています。
震災からしばらく経ったときある方からお聞きしたのですが、
精神世界的に見ると震災の時に一番不足していたのは、魂が
きちんとあちらに行くための手助けができる宗教家だったのだ
そうです。あれだけ多くの方が突然なんの準備もできないまま
亡くなってしまったことはスピリチュアル的にみれば大変な
ことで、多くの宗教者が現場に入って魂を送らなければならない
というのです。
石ヶ森住職に最初にお会いしたのは震災から5年ぐらい経って
からのことでしたが、地元の宗教者がその役割を必死の思いで
果たされていたことを知って、なぜかとてもホッとしたことを
よく覚えています。
私はあまり宗教の世界、特に仏教の世界のことはよく分かりません。
昭和の時代ぐらいまでは、同じ宗派に属していない人が一人でもいる
時は宗教の話をしないというのが、日本人の正しいあり方だったと
いう話を聞いたことがあります。大阪の私の出身の田舎町では、
部落毎に浄土宗、浄土真宗というふうに宗派が分かれていたので
(江戸幕府が一緒になって一揆などを起こさないように、わざと
隣町の宗派が違うようにお寺を配置したのではないかと思います)
日常生活ではあまり宗教(当時ですから仏教)の話をしなかった
のではないかと思います。
しかし、いまでは宗教者の方もかなりの見識を持たれている方が
増えて、宗教や宗派が違っても喧嘩をすることなく宗教の本質が
語られるようになってきたように感じます。いろいろな天災が
これからも頻発することが予想される昨今、犠牲者が少なくなる
ために力を尽くしながらも、残念ながら犠牲になってしまった方に
仏教でいうところの成仏していただくということもとても大切に
なっていくと思いますので、宗教のことも前向きに語れる世の中が
来ればいいなと思います。
そんな中で、なぜ買ったのかはよく思い出せないのですが、
群馬県にある瑞岩寺というやはり曹洞宗のお寺のご住職である
長谷川俊道さんが書かれた『人生に悔いを残さないための
「悟り」入門』(ディスカバー21)を楽しく拝読しました。
特に心に残ったのが、「無記」という言葉です。お釈迦様は問いに
対してあえて答えを返さなかったものを「無記」という言葉で
表現しているということを教えてくれています。
(引用開始)
霊魂があるのかどうかということについて、お釈迦様は
「無記」とお答えになっています。
「無記」とは、「あるともないとも言わない」ということです。
(引用終了)
赤塚高仁さんが言う、分からないことは括弧にいれて置いて
おく(棚上げしておく)ということと同じ考えのようにも思える
お釈迦様の言葉からは、分からないことを無理に解釈して
分かろうとしてもそれには意味がないということが
よく分かります。
私たちはこのアプローチを便利に使えばいいように感じます。
いま大事なことは、つまらないことで喧嘩をしないこと。
特に、宗教戦争ほど本末転倒のものはないので、違う考え方や
とらえ方の人がいてもそれに賛成する必要はありませんが、
そういう考え方もあると思って尊重することが大事なのだと
思います。
高齢化社会を迎え、私自身も人生の半ばは間違いなく過ぎた
年齢になってきて、如何に死ぬかということを考えるように
なりました。ベストセラーになっているロルフ・ドベリ.著
『Think clearly 最新の学術研究から導いた、よりよい人生を
送るための思考法』(サンマーク出版)を読んでいると
「死よりも、人生について考えよう」という章がありますが、
如何に死ぬかという死生観を持つことが、いい人生観を持つ
うえで大事なことであるという思考法の方が日本人の感性には
合っているように思います。時には、仏教の本でも読んで、
死について考えてみるのもいいのかもしれないですね。