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アンマの抱擁

にんげんクラブの皆様こんにちは。熱海のこだまゆうこです。
このごろはすっかり暑くなりましたね。読者の皆様も、熱中症にはくれぐれもお気をつけくださいませ♪

さて、5月21日に、インドからはるばるいらした、アンマという名の人々を抱きしめる聖者のダルシャンに行ってきました。
main2014_2[1].jpg

アンマさんの詳しい説明はコチラをごらんください。
http://www.amma.jp/web/contents/AboutAmma/aboutamma.html(アンマ公式サイトより)

この文章は、とにかく長いです。でもどうしても皆さんにシェアしたくて、書きました。よろしければお読みください。

もともとアンマさんのところに行くきっかけとなったのは3週間ほど前。ある場ではじめてお会いした人と名刺交換をしたら、唐突にこんなことを言われました。

「あなたはじつはハグの達人なんですよ。」

ハ、ハグの達人????なんだそりゃ???
私はどちらかというと人との肌のふれあいが嫌いなほうで、ドイツに住んでいた頃でさえハグは苦手でできませんでした。だからハグの達人と言われてもピンとはきませんでしたが、悪い気はしませんでした。

そこでその方に詳しく聞くと、その方は普段整体師をされていて、人を見たり、背骨や尾てい骨を触ったりするとその人のエネルギーがわかるのだとか。興味を持ってそのまま尾てい骨と背骨の調整をしていただくと、こんな言葉をいただきました。

「インドにアンマって抱きしめる聖者の方がいらっしゃるでしょう。あなたも彼女のように、抱きしめることで人を癒すことができる人なんだよ。なぜならば、人生においてあなたほどの深い悲しみを味わった人はそういないからね。普段ハグを人にすることはないかもしれないけれど、機会があれば人にハグをしたりされたりしてみたらいいよ。それによってあなたもまわりの人も癒されるから」

とのことでした。
肉体を持って三次元に生きている限りは、誰にだっていつかは悲しみがやってくるのがあたり前だと思うので、私が人よりも深い悲しみを味わったとも思わないのですが、ともかく初対面の人にそんなことを言われて、びっくりしました。

それから二日ぐらいして、「そういえばあの方がおっしゃっていたアンマって聖者はどんな人だろう?」とふと思い立ってインターネットで検索してみたら、なんと1週間後にアンマさんが来日すると書かれているではありませんか。しかも誰でも当日会場に行けば無料でハグを受けることができるというのです。

ということで、抱きしめの聖者アンマのハグを体験しに行こう!と思い立ちました。

さて、21日ダルシャンの当日。
会場に着くと整理券をもらうための長蛇の列ができています。
うわー、たくさん待たなきゃいけないのだなぁと思いましたが、この整理券をもらうと、順番がくるまで会場内をゆっくりとくつろいでいていいのだそうです。会場にはアクセサリーや書籍など面白そうなものがたくさん売っていましたし、カフェスペースもありました。

整理券をもらって会場に入ると、会場の前方で参加者一人ひとりにハグをしているアンマさんが見えます。その姿を見た瞬間に、びっくりして体が硬直しました。

す・・・・すごい!あの人は人間の形をした神様だ・・・・・

これがはじめてアンマを見た感想でした。

アンマはただ黙々と、一人ずつ抱きしめ続けます。一人につき、30秒くらいでしょうか、けっこうな時間をかけて、何かを耳元でささやきながら、ギューっと抱きしめるのです。

私は緊張した体を震わせながらもなんとか椅子に座ると、いく筋もの涙がとめどなく流れました。ただアンマの姿を眺めているだけなのに、涙がとまらないのです。

たぶん、去年までの状態で私がアンマにお会いしたとしたら、何もわからなかったと思います。ただみんなを抱きしめるだけの心優しいおばさんだなぁ、くらいにしか感じなかったことでしょう。
しかし今の私は年明けにあったいろいろな出来事によって、傷つき、悲しみ、心から癒しを求めていたし、霊的にも非常に敏感な状態になっていたので、アンマの精妙な波動を感じ取れたのだと思います。

眺めているだけでこの状態だから、抱きしめられたらどんなにすごいのだろう・・・。と、ハグに慣れていない私はすごく緊張しました。

2時間以上待って、いよいよ私の番がやってきました。アンマの体のまわりからは、とても芳しいバラの香りが漂っています。抱きしめられた時、アンマは「マーマーマーマー」と耳元でささやきました。

それが終ると、「少しの間アンマの近くで座っていていいですよ」と会場の誘導係の方から伝えられました。

抱きしめられているときは、普段ハグに慣れていないし、こちらも緊張しているために、そのすごさは全然わからないのですが、抱きしめられた後に舞台のちょっとわきのほうでアンマの近くに座っていると、自然と頭が下がり手が祈りの形になりました。祈ろうという気も、抱きしめられた感動もないにもかかわらず、勝手に体がそのような形になって、そこから動こうとしないのです。その場から一歩も離れたくない、いつまでもこうして祈っていたいという気分でしたが、他の人を待たせていたので、なごり惜しい感じでアンマの近くから離れました。

それから会場をしばらくブラブラして本やCDを購入し、別の予定があったので品川の舩井本社のオフィスへと向かいました。

この日は家を出てくるまでは、午前中にアンマの抱擁を受けに行くことだけがスケジュールされていたにもかかわらず、なぜだか立て続けにいろいろなスケジュールが入ったり、ひょんなところで懐かしい人に会ったりして、結局家路についたのは熱海行きの終電になってしまいました。

さて次の日。前日にたくさんの人に会ったので、かなり疲れており、仕事もなかなかはかどらないので、夕方になったら早々に帰宅することにしました。家に帰る道すがら、思い出したようにアンマの会場で買ったチャンティングという祈りのCDを流しました。そうして家についてからも、家の前に車を止めてしばらくそのCDを聞き続けていました。

すると、アンマさんのお顔と、前日のダルシャンでのある光景がありありと蘇ってきました。考えたくなくとも、その光景の映像が頭にダイレクトに浮かんでくるのです。

というのも、あの日ダルシャンの後に、ちょっと奇妙なことが起こったのですが、それを私は考えないようにしていたし、翌日は疲れていたのですっかり忘れていたのです。
それはどんなことだったか、ちょっと長いですが描写します。

私のダルシャンが終って、一時間ほど会場をブラブラとして、帰ろうかな、と思った時のことです。アンマの信者の方々が、細長いカーペットを会場の舞台から出口まで敷き、そのカーペットのまわりに集まり始めました。ははぁ、もう午前の部が終ってアンマがもうすぐ会場から出ていかれるのだな、それならばせっかくだから見送りだけしようかな、と思って私もそのカーペットのまわりの適当な空いている場所に立ちました。
カーペットのまわりが花道のように人でいっぱいになってくると、信者の人がアンマのサンダルを持ってやってきて、なぜか私の目の前のカーペットの上にそれを置きました。

そのカーペットの始まりの地点の端付近や、カーペットが終る地点の端に置くのならばサンダルを置く場所としてわかるのですが、なぜか、カーペットの長さの三分の二くらいの中途半端な位置に、置くのです。

あれ?なんでここに置くの?と不思議に思いつつ、ここにサンダルを置くということは、アンマはここでサンダルを履かれるんだな、じゃあここで少しアンマはストップするだろうから近くにいれてラッキーだったな、とこの時点では思いました。

それと、たくさんの信者さんたちが見送りをする中で、はじめて来た自分の目の前にサンダルが置かれるのは、アンマのことが大好きな皆さんにちょっと申し訳ないな、とも思いました。


しばらくすると、スタッフの方々がそのサンダルの近くにやっぱり集まってきて、「○○さん、こっちこっち~」と小さな赤ちゃんを抱いたお母さんを私の向かい側に呼びました。見ると、まだ首もすわっていない、目が見えているかどうかも微妙な非常に小さな赤ちゃんです。

正直に告白してしまうと、それまで私はまだ新生児や妊婦さんを直視することはできませんでした。私が赤ちゃんを亡くしてしまったことと、まわりの妊婦さんや赤ちゃんはまったく関係がないのですが、見ると嫉妬するし悲しくなるから、できれば見たくありませんでした。

頼むからこれ以上近づかないでほしい・・・・と嫌な予感がしたのもつかの間、スタッフの人はそのお母さんをこちら側に呼び、私の真横に立たせました。横でお母さんが話す会話を聞くともなしに聞いていると、まだその赤ちゃんは生後1ヶ月なのだそうです。
そんなに小さな赤ちゃんをこんなにも人がたくさんいるところに連れてくるなよ、と心の中で悪態をつき、赤ちゃんを見ると、その子はまっすぐなまなざしで、私の顔を凝視しています。目と目をあわせ、ああ自分にも無事に子どもが生まれていたら、ちょうど今ごろはこの子と同じくらいの大きさだったかな・・・とせつなくなりました。

それからアンマが帰るためにカーペットを歩いてきて、私の目の前でサンダルを履いて少し止まったら、その女性は赤ちゃんをアンマに差し出し、アンマは優しく赤ちゃんを抱っこして祝福した後、まわりのスタッフや信者の人を何人かを抱きしめてから、会場から出ていきました。

ほんの数十cmしか離れていない目の前で呆然とそのような光景を目にしながら、なんでわざわざ、あんな光景を見せられなければならなかったのだろう・・・と思いつつ、まぁ偶然かな、と思って私も会場を出たのでした。

さてさて、先ほどの文章に戻りますが、翌日の車の中でチャンティングのCDを聞いていたら、なぜだかその時の赤ちゃんの姿と、アンマの顔が、交互に何度も頭に浮かんできました。赤ちゃんの顔を思い浮かべると、悲しくて切なくてくやしくてどうしようもない気持ちになってきて、わんわんと泣いてしまいました。

そしてしばらく泣いていると、どこにも持っていきようのない、ものすごい怒りの気持ちが湧いてきました。それは激怒と言っていいものでした。それまで悲しみとせつなさの中で生きていてまったく気づいていませんでしたが、私はこの4ヶ月間、ふつふつと、静かにずっと腹の底から激怒していました。


なぜ私だけがこんな目にあわなければならなかったんだ!
なぜ私の赤ちゃんだけが、命を奪われなければならなかったんだ!
そしてなぜそんなタイミングで、大好きな舩井会長までいなくなってしまったんだ!
なぜ!なぜ!なぜ!


と、神というか宇宙に向かって猛烈に怒りました。
地団駄踏むという言葉がありますが、本当に車の中で地面を踏み鳴らして暴れて泣きわめきました。
そうしてひとしきり泣いた後、ああ、そうか、私は怒っていたのか、と気づきました。

必要、必然、ベスト、などと出来事を頭で納得させておきながらも、結局のところ心は全く納得できなくて、悲しみながら、ずっと怒っていたのでした。

そんな中で変わらず流れ続けるチャンティングは、私の心を静かに暖かく包み、アンマの沈黙の横顔を思い出させました。

ああ、アンマは何も語らず、笑顔さえも私に向けなかったけれども、沈黙の中ですべてわかっておられた。あれは絶対に偶然なんかじゃなかった。

あれだけたくさんの人がいる中で、なぜ私の真横に、生後1ヶ月の赤ちゃんがこなければならなかったのか。なぜ私の目の前でアンマは赤ちゃんを抱き祝福しなければならなかったのか。

もしかすると私の内に秘めた怒りの心に気づかせるために、すべてが予定どおりに繋がったのではなかろうか。そもそもアンマに会いに行ったことさえも、予定どおりに繋がった結果ではなかっただろうか。

猛烈な怒りの感情に気づくことで、私は怒りを解放することができました。
そして4ヶ月もの間、悲しみ続けると同時に怒り続け、自分はかわいそうな人だし、被害者だと決め付けていたことに気がつきました。

出来事はただ起こっただけ。その事実があるだけ。
たんなる出来事に悲しみや悔しさや怒りの感情を結びつけたのは、私自身の心。そしてその感情によって、いろいろと学ぶことができたし、気づくこともできました。悲しいけれど、それはかけがえのないギフトでした。

このように怒りの気持ちを解放することによって、これからは少しずつ、自分のことを被害者であると決めて生きていくのはやめようと思えました。

これはたぶん、アンマの恩寵によって気づかせていただいたことだと思います。
そんなことに気づかせてくれたアンマと、アンマのところへ導いてくださった誰かはわからないけれど大いなる存在に、感謝したいと思いました。


以下に、私が感じた出来事を、よくあらわしているアンマの文章があったので、少し長いですがお読みください。


質問者:どのようにしたら、サットグル(悟りを開いた霊性の師)から実際に助けてもらえるのでしょうか。

アンマ:助けを得るためには、まず自分が「病人」であることを認め、忍耐強くあるよう努めなさい。

質問者:アンマは私たちのドクターですか。

アンマ:優れた医者は「私がいちばんの名医だ。私のところにいらっしゃい。治してあげよう」などと、自分からふれ歩くことはありません。また、たとえある病人がいちばんいい医者に診てもらったとしても、病人のほうに医者に対する信頼がなければ、治療は効果を発揮しないでしょう。

 時と場所にかかわらず、人生という劇場で起こることは神がなさっていることです。私たちが手術を受けるとき、執刀している外科医の顔はマスクでおおわれていて、その顔を見ることはできません。いったいどんな人が私たちを治してくれているのか、わかりませんね。それと同様に、人生で起こることの背後に何がわかるのかを、私たちは知ることができません。私たちが人生で遭遇しているさまざまな出来事を、操作しているのは誰なのか。出来事の背景にあるのは、神の、あるいはサットグルの慈愛に満ちた顔なのです。

質問者:弟子たちのエゴを取り除かねばならないとき、アンマは容赦なく厳しく接しますか。

アンマ:医者が手術でガンを取り除こうとするとき、体にメスを入れますね。体をメスで切るわけですが、それがかわいそうだから手術をしないでくれとは言わないでしょう。もし、そんなことを頼むなら、そのほうが患者にとってかわいそうです。アンマが子どもたち(アンマは自分を慕ってくる人々すべてを「子どもたち」と呼ぶ-訳者註)のエゴを取り除いてあげようとするときも、子供たちがそれを望み、そうしたいと願うときです。彼ら自身の協力が不可欠です。

質問者:そういう人を助けるために何をするのですか。

アンマ:アンマはガンというエゴと子どもたちが正面から向き合うように導きます。それは自分の内なる弱さと、何でも否定的に考える心の癖を見つめることでもあります。そうしたのちに、それらのエゴを容易に取り除くことができるようにします。それが真の慈悲なのです。

(『フロムアマズハート』~聖なる母との対話 より日本マーター・アムリターナンダマイー・センター刊)

まさに私は、アンマの沈黙の中で、自分の内なる弱い心と正面から向き合うように導かれ、自分が被害者であると思い込んでいたエゴを取り去る手術をしていただいたような思いです。


これらの一連の出来事や文章は、もしかすると多くの人から「スピリチュアル」とみなされるかもしれませんが、私にとってこれはスピリチュアルではありません。日常の出来事の中でもひときわ色濃く鮮明な現実です。
何をもってスピリチュアルと呼ぶかは、人それぞれですね。

私はこれからも、このような精妙な感覚を、現実として信じていけるような人間でありたいと願っています。

そして、冒頭の文章に書いたように、いつかは私もハグの達人になれるかどうかは別として(笑)、たくさんの愛を惜しみなく人々に届けられるようになりたいと思いました。

読者の皆様、このように長い文章におつきあいいただき、ありがとうございました。

アンマの書籍やCDはこちらから購入できます。

http://cart02.lolipop.jp/LA02181118/



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