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第3回 王仁三郎が天命に目覚めたとき──「言向け和す」と「包み込み」

船井総研創業者で、にんげんクラブ創立者の舩井幸雄さんが御昇天されました。
命日が奇しくも出口王仁三郎と同じ1月19日なのには何か一つの神縁を感じます。
実業界に、そして精神界に、多大な影響を与えた方でした。
感謝の念を捧げます。


さて、王仁三郎に由縁のある日はたくさんありますが、新春ではこの命日の1月19日と、
2月3日の節分大祭、そして3月1日(あるいは旧暦2月9日)の高熊山入山記念日があります。

2月3日というのは、明治25年(1892)に綾部で出口ナオ(当時55歳)に艮の金神さんが
神懸って大本が開教した、その記念の祭典です。
その頃、王仁三郎はまだ上田喜三郎という名前で、亀岡の貧農の実家の生計を支えるため、
車夫や物売り、ワラジ作り、タキギ売りなどフリーターとして色々な仕事をしていました。

6年後の明治31年3月1日に、自宅近くの高熊山で一週間の霊的修行をして、
そこで自分の使命に目覚めます。このとき26歳でした。
その後、出口ナオと知り合い、合流して綾部に移住し、末娘の澄子さんと結婚して
「出口王仁三郎」になるのです。

ところで2012年は「アセンション」の年でしたね。
ちょうどその年は、今まで艮に押し籠められていた艮の金神さん(その正体は地球を
修理固成した神霊の国常立尊)が明治25年に再び表に出てきてから120年目の年でした。
干支60年周期の2度目の区切りの年で、とても意味のある年でした。

しかし王仁三郎的には、明治25年より明治31年の方が意味があるんです。
明治25年頃はまだ王仁三郎はただのフリーターですから。
明治31年(1898)に覚醒したので・・・つまりそれから120年後の2018年という年の方が、
大きな意味を持っています。

出口ナオに懸かった国常立尊というのは、地系の神様です。
それに対して王仁三郎はスサノオであり、みろくの大神であり、それは天系の神様です。

天と地が揃う2018年まで、あと4年です。

さて、今回は、その王仁三郎の覚醒前夜の出来事をお話ししようと思います。

   ☆   ☆   ☆

喜三郎は上田家の8人きょうだいの長男です。貧しい生活を支えるために苦労しましたが、
だんだんと社会への様々な不満が溜まって行きます。

明治30年の夏、お父さんが半年にわたる闘病の末、死んでしまいました。
するとそれまで堪えていた感情が一挙に爆発して、悪党に対して戦いを挑むようになります。
善良な市民をいじめるヤクザどもが許せなくて、ケンカの仲裁に入るんですが、
しかし相手の恨みを買って、何度もケンカに巻き込まれてしまうのです。

そして9回目の大ゲンカをしたとき、喜三郎は袋だたきに遭ってボコボコに殴られ、
大ケガを負ってしまいました。

後に「言向け和す」(ことむけやわす)ということを唱える王仁三郎でも、若い頃は暴力で
揉め事を解決しようとしていたんですね。

喜三郎はお祖母ちゃんに「もういい加減ケンカはやめて、真人間になっておくれ」と諭されて、
深く反省します。

その夜、寝ていると──枕元に突然、光輝く玉が現われました。
オーブとか玉響(たまゆら)とか言うやつでしょうか? 紫に、青、黄色、白、赤の五色の光輝く
玉が、部屋の中を右に左に飛び交います。
そして──喜三郎の体の中に飛び込んだのです。玉は胸や腹や肩や背中に、滲み込んで行きました。

すると喜三郎は心機一転して、心持ちがすっかり変わりました。
そして床の間の近くに立つと、壁に筆で「天地大本大御神」(あめつちおおもとおおみかみ)と書き記しました。
何かインスピレーションで、そういう神号が思い浮かんだんでしょうね。

そしてさらにまた不思議現象が起きます。
戸を開けて外から一人の男が中に入って来ました。
まだ明治初期でみな和服を着ていた時代に、その男はなぜか洋服を着ています。
彼は富士山の木花咲耶姫命の使いで、松岡という名の仙人でした。

この松岡仙人に連れられて高熊山に行き、岩窟の中で一週間の霊的修行をすることになるのです。

その間、喜三郎は幽体離脱して霊界を探検しました。
それを大正10年(1921)、50歳のときに本に書いたものが『霊界物語』です。

   ☆   ☆   ☆

その高熊山に入山した日が3月1日です。真冬でまだまだ寒い最中です。
しかも下着一枚で、岩の上でジッと無言で正座して、何も食わず、水も飲まずに一週間です。
そんなこと...私には出来ません。

この王仁三郎の高熊山修行(入山前夜からの出来事も含む)は、「悟りを開いた」というのとは
違うかも知れませんが、彼の人生において大きな目覚めを与えた劇的な出来事です。
天命に目覚めた瞬間です。

目覚めのビフォー、アフターでどのような意識の変容があったのでしょうか?

喜三郎はとても正義感が強く反骨精神のある若者でした。
王仁三郎の伝記を読むと必ず取り上げられる幼少期のエピソードに「タダアイ事件」があります。

喜三郎が数え13歳のとき──現代だと小学5~6年生のときに、修身の時間に大岡越前守
(おおおか・えちぜんのかみ)の話を先生がしました。
時代劇でお馴染みの、あの人です。

彼の名前は大岡忠相(タダスケ)と言うんですが、先生は間違ってそれを「タダアイ」と言いました。
喜三郎は「それはタダスケです」と間違いを指摘したんですが、その吉田という名の先生は意地を
張って間違いを認めようとしません。それどころか教師に楯突くとは何事かと喜三郎に体罰を
加えようとします。
そこへ校長先生が現われて「タダスケが正しい」と判定を下してくれたので、その場は収まりましたが、
吉田先生の腹は鎮まりません。
教師のプライドを傷つけられた吉田先生は、それからことあるごとに喜三郎をいじめるようになりました。
ひどい先生ですね。昔もそんなひどい教師がいたんですね。
喜三郎は堪えかねて反撃に出ました。
ある日、下校のときに垣根の中に隠れて吉田先生が来るのを待ち伏せし、竹槍の先にウンコをくっつけて、
吉田先生が通ったときに腰の辺りを目がけてエイと突き刺したのです。

もちろん学校で大問題となり、喜三郎は事の次第をありのままにしゃべりました。
結局、吉田先生はクビなり、また喜三郎も退学処分となりました。
しかし校長先生の粋な計らいで、喜三郎は吉田先生の代わりに「代用教員」として採用されたのです。
校長の見事な大岡裁きですね。

このエピソードは王仁三郎の反骨精神を物語るエピソードですが、しかし暴力に対して暴力でやり返しても、
世の中よくなるわけではありません。
この吉田先生がまだ恨みを持って喜三郎に報復して来た可能性もあるわけです。

憎悪の連鎖です。人類の歴史は、それの繰り返しですね。

お父さんが亡くなったとき、喜三郎は26歳でした。
今までお父さんに迷惑かけたくないというような想いがあって、じっとこらえていたんですが、
お父さんが亡くなると、そのフタがはじけて、世直しのために(?)立ち上がったのです。
お父さんの病気を治そうとして、困ったときの神頼みで色々な宗教を回りましたが、
どこも金儲けのエセ宗教ばかり。
そういう世の中への不満というのがどんどん堪って行ったのでしょう。

そういう想いがついに爆発して、良民を困らせているヤクザとの戦いに繋がったのです。
しかし悪党と戦うのはいいんですが、そのうち自分の方からケンカのタネを探し回るようになり、
どっちが悪党なのか分からない状態になって行きました。

あまりにも気っぷが良いので、ヤクザの親分から、うちの娘の婿にならないかと誘われたくらいです。(笑)

アジアやアフリカや中南米で、世の中を良くしようと武力蜂起し、政府を乗っ取って新しい政府を作ったのは
いいものの、それがまた腐敗して、また反対派が武力蜂起して・・・ということを延々と繰り返している国があります。

何十年も内戦状態となって、それでいったいいつになったら良い世の中になるのでしょうか?

ときには暴力に対して暴力で対抗せざるを得ないときもあるでしょう。
しかしそれでは憎悪の連鎖から抜け出すことはできません。

喜三郎も、憎悪の連鎖で、「仁義なき戦い」のようにヤクザとの抗争を繰り返し、
それでついに半死半生の態に遭ってしまいました。

喜三郎は世の中を良くしようと思ってやったのに・・・そんな残念な結果です。

病床でお祖母ちゃんがこんなことを言ってます。
「お前は人助けだと言っては、助けたよりも十倍も二十倍も人に恨まれて、自分の身に
災難がふりかかるようなことばかり。・・・昨夜のケンカは、神様が慈悲のムチをお前に与えて、
高い鼻をへし折って下さったのじゃ。相手を決して恨んではいけませぬぞ。
一生のご恩だと思って感謝しなさい」

喜三郎はそれを聞きながら涙を流して、心の中で改心を誓いました。

   ☆   ☆   ☆

よく王仁三郎を、帝国政府に対して戦いを挑んでいった人のように思っている人がいますが、
力に対して力でやり返すようなやり方は、すでに高熊山修行の前に放棄していると思います。

世の中を良くしようと思って、人は戦いに出ます。
しかし斬られる相手も含めて「世の中」なんだということに気づく必要があります。
斬った方は「これで良い世の中になった」と思っても、斬られた方は、良い世の中だなんて思いませんよね。

反対派も賛成派も全部合わせたのが「世の中」です。
大本の内部には、王仁三郎に反対する勢力、王仁三郎を殺そうとする人までいましたが、
しかし王仁三郎は彼らを排除しませんでした。
反対派も賛成派も、含んで行ったのです。

舩井幸雄さんは「包み込み」ということを説いてますが、
まさに王仁三郎は「包み込み」の発想で大本を経営して行ったのです。

ネットで調べたら、次のような舩井語録が出てきました。

──「包み込み」とは相手の持っているあらゆるものを自分も持ち、相手が持っていないものも持つこと。
要するに、すべての善悪をも受け入れて包み込むことです。包み込むことで、自分の心の中にある
エゴ的な気持ち、否定的な気持ち、意志の弱さなどのマイナスな感情や思いが薄れてきます。
一方、他人を受け入れて、感謝して接することもできるようになるため、
心が大きくて魅力的な人間に成長できて、人からも慕われるようになります。──

企業経営だけでなく、天下国家の経営もこの精神が必要です。
そしてそれが「言向け和す」(ことむけやわす)ということであります。

高熊山修行は、王仁三郎がこの精神に目覚めた出来事でした。



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