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こんにちは。
先日は東京国立博物館で行われている茶の湯展に行ってきました。
かつての私は、日本の文化的なことには全く興味が持てませんでした。
そのため家族や親しい友人が茶道を習っていても
お茶を飲むだけであんな堅苦しいものの何が楽しいのだろう??と本気で思っていました。
そんな私が、夫に誘われたとはいえ、自ら(新幹線代を払ってまで(笑))茶の湯展に行くことになろうとは、
自分もそれなりに年を重ねてきたのだなぁと妙なところに感動しました。
お茶の飲み方もしきたりもわかっていないため、
茶の湯展の理解は正直なところできていませんが、
わからないはわからないなりに、いろいろな茶器や掛け軸などを眺めて楽しかったです。
茶の湯展では、国宝や重要文化財などもいろいろ展示されてあり、
何もわからないためにどうしてもその肩書き(?)や説明文を重視して見てしまったのですが、
まずは自分がどの作品を好きなのか、まっさらな気持ちで感じられるようになりたいものです。
これから少しずつでもいいので、もっと日本の文化に触れていきたいと思いました。
(茶の湯展の帰り道、空がとっても綺麗でした)
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田舎に暮らしていて、ライターという職業柄、普段はあまり人と会わないので、
たまに人と会話するときは、私にとってすごく貴重な機会です。
でも熱海から東京に出てみると、
あまりの人の多さに圧倒され、人や目に入ってくる情報や音や匂いに酔ってしまいます。
熱海に帰る頃には頭痛でフラフラになっていたりします。
あんまり敏感過ぎるのも考え物なので、
人の多さに酔わないように、もっと肉体的にも精神的にもタフになりたいものだと思っています。
タフになるのと、鈍感になるのは別物なので、その塩梅が難しいのですが・・・・。
さて、人とのコミュニケーションは、
とても面白いものですし、そこに生きる醍醐味があると思います。
しかし、思いが伝わったかなとこちらが満足しているようなときは、
たいていきちんと相手には伝わっていません。
逆も然りです。
相手のことをわかったつもりでいても、
全然間違ったことを理解していたりします。
たとえば一番身近にいる夫でも、
わかっているようで何もわかっていません。
先日は、夫のことを何もわかっていなかったのだな、と
とてもよくわかる出来事がありました。
結婚してから9年、夫がコーヒーを飲む時には、
彼の亡き父の形見のマグカップで、いつもコーヒーを淹れていました。
そのマグカップが、彼にとって一番大事で、
一番おいしくコーヒーが飲めるだろうと思っていたからです。
でも先日、
「どうして君は僕にいつもいつもこのマグカップでコーヒーを入れるの?
実はこれあんまり好きじゃないんだけど。
重たいし洗うのも面倒くさいし。こっちのシンプルな形のほうが好きなんだよね。」
と、衝撃の発言をされました。
9年もの間、365日、夫にコーヒーを入れるのはこのマグカップ!と
思い込んでいた私は、なんだったのか。
それならそうと、もっと早く言ってください、と思ったけれど、
きっと夫も長年言い辛くて言えなかったのかな。
と9年目にして勘違いに気づいた出来事でした。
ちなみに夫が好きだと言ったマグカップは、
きっと夫はこれが嫌いだろうと勝手に私が思っていたマグカップ。
いかに日ごろのコミュニケーションが薄いかを思い知らされました。
こんなふうに、いろいろな人が、お互いにいろいろなところで、
いろいろな勘違いや思い違いをしています。
思いが通じることなんて、ほぼ奇跡に近いほどにじつは何も伝わっていない・・・・・・
という現状が、実はあると思います。
こうして私がここでこんな文章を書いていても、
すごくよくわかる!と思ってくださる方がいると同時に、
何を書いているんだかさっぱりわからない、という方もいて、
さらにはわかった!と思いつつ、全然別の読み方をしてくださる方もいると思います。
それはそういうものなのだと思います。
人それぞれ違うのだから、感じ方、受け取り方も違ってあたりまえで、
伝わるってことのほうが、じつは奇跡なのだとわかるようになるまでに、何年もかかりました。
そして、基本的に思いは伝わらない、ということがわかるようになったら、
伝わるときの嬉しさが、以前よりも増したように思いました。
人と人が出会って、それぞれの思いを語りあって、
深いところから何かを理解していく。
そういう奇跡を大事にしたいものです。
伝わるか、伝わらないかは相手次第でわからないのだから、
相手がどうあれ、自分は心の奥のほうから会話するように心がけていきたいな、
と思う今日このごろです。