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みなさん、
こんにちは!
にんげんクラブ世話人の川端淳司です。
お元気にお過ごしでしょうか。
いよいよ4月27日(土)のにんげんクラブ愛知大会・ミロクフェスティバルが近づいて参りましたね。
にんげんクラブ東京支部からは、飯塚弘明さんが講師で参加されますが、多くの友人や仲間が
参加を予定しています。
このにんげんクラブの会員達が築き上げた一日に32名もの講師が出演する日本の一大イベントが、
これからのミロクの世の雛形として、100匹目の猿現象の礎として、大成功を収めることを心より
祈念しております。
さて、連載第45回目はこれまで何度も取り上げてきた、時の実相を看破できる稀有な作家・
辺見庸氏の『国家、人間あるいは狂気についてのノート』をご紹介します。
これまで半ば心酔して辺見さんの著書を読んで来ましたが、今回の読後感は以前と少し
違っていました。
辺見さんのように怒りを良き世へ変革させるダイナモとするよりも、きれいごとかも知れませんが、
たとえ辺見さんの万分の一の力であったとしても、アート(思考)を良き世へのダイナモとしたいと
願う自分がそこにいたのでした。
甚だ微力ですが、若い画家さんの絵を購入するなどして支援し、(魂的に)深くお付き合いさせて
頂く中で、私なりに心の軸が変化しているのだと気づきました。アーティストのみなさんに感謝です。
本書は辺見庸コレクションⅣですので、書下ろし部分は少なく既出の再編集構成になっていますが、
やはり多くの気づきを得られました。
以下に文中から印象に残った所をご紹介いたします。
・明視しえていたと思っていた景色や音にある日、かすみやブレやゆがみが生じ始めたのである。
~略~ ひとの顔も、ゴヤの「自慰する男を嘲る二人の女」の人物たちのように、尋常ならざる
隈取りやこの世ならぬ陰影をおびて視えた。そう視えたとき、ほんの一瞬だが、ひとの背後に
神がかった光を感じたことが忘れられない。やがて私は脳出血でたおれ、半身が石化し、記憶
や発話、情動のあらかたに変調をきたし、脳血管障害者の病棟に入院した。たおれる前から、
そして入院の前後に学んだことの第一は、自分のなかに他者が棲んでいるということである。
次に、見るものはかならず視られているということである。
・我々の持ちあわせている言葉が我々の事実にどれほど肉迫しているか、甚だ疑問なところが
あると思っています。むしろ別の事実を剽窃している可能性がある。マスメディアはあらかじめ
疑ってかかったほうがいい。それは個人の問題としてではなく、システムの問題としてです。
とんでもない幻影の生産機構になっています。
・テレビはいま、現在という歴史の妖気も狂気も、まるで正気のように見せている。
・資本とデジタル世界が、おびただしい記号と表象とコピーを無限に濫造しつづけることにより、
ひととモノから意味と価値と本質を剥いでいき、剥がれた価値の空隙にまたべつの記号と表象
とコピーを自動的にはめこんでいく、この反復と再生産のプロセスはもはや「悪無限」とでもよぶ
ほかない、狂気のめぐりである。われわれはいま、いつまでも終わることのかなわない狂気の
めぐりをひたすらめぐっているのであって、ひとの魅力だの魔性だの善だの悪だのは、もうでる
幕がないのである。
・私がいちばん気にしているのはこの時代のファシズムは、我々が自らやってしまうことであると
いうことです。一生懸命、真面目にやってしまうということです。
・中国という事実と、我々が考えるネーションというあらまほしきイメージが比較にならないほど違う
のです。
・僕が中国で勉強したのは、ある種の虚無的な考え方です。何億もの人々に向かって何かを言って
いるんだけれど、誰も信じていないという虚無。武田泰淳はそれを「巨大な海綿状のもの」と表現し
ました。
・中国人たちはやるときは必ずやるんですよ。いつでも一週間くらいで戦争の準備をするでしょう。
少なくとも交渉過程のなかに戦争を組み込むということが、我々が考える近現代の歴史的な表現を
打ち破るようなかたちで出てくる。それが中国ではないかという気がしてしかたありません。
・「ひとは無から生まれてきた。ひとり、またひとりと・・・・・・」「憎しみこそが最後の人間らしい感情、より
骨に近い気持ちだった」「愛は最後にやってくる。愛は最後に蘇る」(ヴァルラーム・シャラーモフより)
・病とは実に深い人間の変化だと思います。喩えようもなく神秘的で、抜きがたく我々のテーマである
と思います。一枚一枚、人間が剥き出されていくのです。祖型があらわれてくる。
・僕は素直に言って、人間社会の共同性というところから希望を繋ぐことが、どうしてもできない。逆に
人が滅んでいく、壊れていく、そのプロセスにむしろ共感するというのでしょうか。そちらのほうに間違い
のない何かいかがわしくない何かを感じます。
・かねて予感していたものがついにやってきた。それは言いかえれば、狂気がどんなものでありえたか
がわからなくなる日であり、それがまさに現在である。ことここにいたって抵抗などという、そらぞらしい
もの言いをする気はない。わたしは狂者の錯乱した暗視界の奥から、いかにも正気を装う明視界の
今風ファシストどもを、殺意をもってひとりじっと視かえすであろう。晴れやかな明視界にたいする、
これがわたしの暴力である。